リュカ(後)
『嘘なんだ。世は瘴気で狭まるばかりであるし、私たち人間も、家畜も、犬も猫も、鳥や虫さえも死に絶える』
馬鹿な、とキャロルは独り言ちる。リュカは生前『世界が救われる』ことを予言として歌い、聴衆の信を集めた。これは紛れもない事実のはずだ。
『聴衆の前でも、私は嘘をつき続けた』
何故そんな嘘を。
『演目だから。私の歌は仲間達も聞く。私が一度見せた希望を、私の手で摘み取ることは許されない。──そうして歌っている内に、私の嘘は人々の希望となった』
小人達がニコニコと真新しい紙を持ってきて、世界が円となるまでを記して欲しいと言い出した。それでキャロルは気がつく。これは、まさか『原典』になるのではあるまいか。
『そう。想像を逞しくさせ、瘴気が晴れて世界が円となるまでを記した』
すると、原典は作り話だということ。
『元は仲間を喜ばせる為に作った、予言と嘘を綯交ぜにした詩でしかない』
キャロルは神から語られる言葉をなんとか噛み砕こうと努力したが、今までの常識が邪魔をして中々に苦戦した。
そうしている内に、鼓膜の奥で幻聴がこだました。地響きがするような歓声だ。今度はなんだろう。色んな音がしている。歓声に混じって馬が嘶いている。啜り泣く声も聞こえる。子供の奇声、果実酒を売ろうとする男の啖呵、他には喧嘩の声。
背中が冷たい。裸で仰向けに寝転がされている。左を向けば兵達が武器を持って立ち、高台の上には大きな椅子に座った青白い顔の男がいる。冠をしていて煌びやかな衣装に身を包んでいるから、あれは王だ。
手首足首が痛い。鎖と枷で繋がれているらしい。鎖は馬の鞦へと続いている。これはリュカが馬裂きに処される寸前の光景であると、キャロルはすぐに理解した。
『ウド王は私に予言を求めた』
リュカの処刑については、短いながらも複数の歴史書に残っている。
ウド王は侵略戦争を仕掛けたが、小国相手に敗北を重ね、しかも土地まで奪われた暗君である。失脚も避けられぬ状況であったが、政敵を暗殺するなどして王の座を保っていた。そしてウド王は性懲りも無く、再び戦を起こそうとしていた。
しかし戦争を続けるのは金がいる。長く続けば続くほど国が疲弊する。ウド王は民に重税を課しているから、国中で不満が噴出していた。実際に国内の至る場所で一揆が起きている有様であった。
『ウド王は人気を取り戻そうとした』
どのようにして。
『預言者として俄かに注目されていた私を利用しようとした。奇形である私に寄り添う事で、民の人気を取り戻そうとした。王の矜持を捨ててまで寄り添った相手に「お前は王ではない」と言われてしまえば、こうもなろう』
嗚咽と啜り泣きの声が聞こえて、その方を向けば見世物小屋の仲間達が泣いていた。小人達や女達は体を縛られ、男達は宙吊りになっていた。
嫌な予感しかしなかった。この先に起こることが容易に想像できた。……でも、歴史書には他に処刑になった人間の記録など無いはず。処刑になったのはリュカだけじゃないのか。
『不可触民のことなどは記すに及ばない』
油を塗した巨大な薪に火がつけられた。凄まじい火柱が上がって、熱狂的な歓声が上がる。見世物小屋の仲間達はその炎を恐怖の表情で見ていた。
『ウド王は世界の王である証明を求めた。だから信者から『賢者』と呼ばれていた私の下を訪れた。だが私は「王にあらず」と、ありのままに答えた』
端末は知っているが、それでもキャロルは落胆した。どうして嘘をつかなかったのだろう。それに至るまで、世界は救われると散々嘘をついてきたのだ。たとえ王に相応しくなくとも、適当にそれらしい事を言っておけば最悪の事態は回避できた。その程度の器用さは持ち合わせていたはずだ。
『私は苦難を共にした仲間達のために嘘をつき続けた。ウド王の傲慢さは知っていたし、この男の為に嘘を重ねる必要がなければ、私はそれを選ばない』
あまりに短慮だ。
『今にして思えば、私は嘘をつき続けることに疲れていたのかも知れない。もう、降りたかったのかも知れない』
華やかな喇叭の音が鳴って、鋭い悲鳴と弾けるような歓声が聞こえた。リュカが馬裂きになる前に奇形達が殺され始めたようだった。
『人は嘘をつける数が決まっている。私の限界はそこだったんだろう』
泣き喚く小人達が火に放られてゆく。命乞いをする女達が腰斬されてゆく。足のある男は宙吊りで鋸挽き、足のない者は釜で茹でられた。
誰か助けてくれる人はいないのか。リュカは慕われていたのだろう。ザネリはどうした。ミガクはどうした。他の使徒たちは。リュカを賢者と持て囃していた信者たちは何をしている。
『熱狂した民衆の前に出てくる人間がいるとすれば、それは気触りでしかない』
ざっと砂を踏む音がして、面を被った処刑人が1人ずつ馬の尻に寄った。そして喇叭が掻き鳴らされた時、手に持っていた槍で馬の尻を突いた。四肢が弾け飛び激痛が走るかと思われたが、特に何の感覚もなかった。
南南東から優しい風が吹いて目を覚ました。夜になっていた。
『不思議なことに、私には生と死の狭間が分からなかった。気づいた時には、ひねもす虚ろな気持ちで佇んでいた』
処刑場では盗人らが奇形の死骸を漁っていた。何人かが小人の死骸を蹴り転がしたり、ばらしたりして遊んでいる。誰も私──リュカの存在には気がついていない。
『私の嘘が彼らを殺した。そして私と出会わなければ、彼らは旅の一座として生を真っ当出来たかも知れない』
1人の盗人が金歯を見つけたらしい。見世物小屋の長のものだった。彼は四肢を切られ、小人に仕立てられて燃やされていた。
『彼らは火に投げ入れられた時、何を思ったのだろう。鋸で縦に裂かれる時、何を思ったのだろう。死の最後に見た景色は何だったのだろう』
盗人達はその金歯を巡って争い始めた。黒焦げになった長の亡骸や小人たちの亡骸は、踏まれて粉になってゆく。
『そして私は、信じることにした』
何を?
『──私の罪だよ。聖女が現れ、瘴気を晴らすことを、信じる事にした』
続ける。
『あなたはこれを罪滅ぼしだと言って笑う?』
キャロルには返す言葉が見つからなかった。
『幸いな事に、聴衆の中には予言を熱心に信じる者もいた。私が死んだ事で、より一層それは強まった。信は人々を支え、力となり、やがて形となる。今では神となり、私は真理となった』
階段がついに終わり、冷たい石の扉が現れた。それをぐっと押し開けると、そこは小さな部屋であった。
仄見える。こぢんまりとした祭壇があって、その前に石の棺がある。部屋の角には寝台。壁には女神の姿が描かれた綴織。
リュカは棺の上にちょこんと座って、縫い付けた様にしてじっとキャロルを見ていた。そして『それでも殺すか?』と自らの眉間を指差し、北叟笑む。だがキャロルはリュカに敵意を向けなかった。
「甘い女だ。全て嘘かも知れない」
「嘘でも毒気は抜かれた」
「こんなことで光の聖女が務まるのだろうか」
「お前は性格が悪いな」
「ちなみに、私は一団の中でそこまで好かれていたわけではない。孑然とすることも多かった。すぐ人を下に見る癖もあるし、近づき難かったんじゃないか。それに強い霊感があったから、不気味に思われることも、時にはあった。心からの親友は驢馬だけだった」
リュカは嘘をつき、卜占の結果を正しく報告しなかった。それは仲間と少しでも距離を縮めるための、痛々しいまでの善意であった。それを思うと、キャロルの目に涙が浮かんだ。神はかつて等身大の少女だったことが分かったから。
「あなたは『お前は何者だ』と聞いた。私なりに答えたつもりだが、満足したろうか?」
リュカは立ち上がる。
「私はリュカ。男の名で姓はない。時を経て私自身の思念と人々の希望が混ざり合ったものと化した。──実際のところ、私は最早リュカではなく、いったい何者なのだろうね」
嫌らしい笑みを浮かべつつも、リュカの瞳は確かな悲壮を孕んでいた。
「私は弱かった。弱さから嘘をつき続けた。勇気を出して白状することもできたが、それを選ばなかった。仲間からの信を失うのが何より怖かった。戻ろうとした時もあったが、もう戻れなかった」
リュカはゆっくりとキャロルに近寄る。
「あなたは私の理想。不撓不屈の聖哲。心の底からあなたのようになりたくて、あなたを作った」
そして、あたかもそれが普通であるかのように、何の躊躇もなく、キャロルと唇を重ねた。
「──!」
唇が離れる。瞬間、小部屋が光に満ちる。
神の頭部、後光が差す。万華鏡か或いはステンドグラスのような、幾何学的で色とりどりの妙な光であった。
いつの間にか神の胴が消失している。手も足もない。首から背骨と血腸を垂らして、傷ついた頭部だけで宙に浮いている。
それは狂気的な神秘であった。肌はもちろん、臓物までもが粟立つ感覚があって、筋肉が引き付けを起こしたように硬直した。ただ目を瞠り、絶句し、神の瞳を見つめることしか出来ない。
「それでもなお。あなたの心も体も己が作ったものだと言うのならば、それは正真正銘、神を殺すことになるのだろうね」
神は真の姿で笑んでいる。
「──『神殺し』を成せ、フェリシア。私を否定し続けなさい。そして愛も毒も喰らって、この終わりゆく世界で最も愛される子になりなさい」
「フェリシアって誰だッ!?」
気づけば声が出ていた。
「まさか。まさか、私の本当の名前かッ!?」
刹那、稲妻が落ちたように閃く。
この部屋を知っている。いや記憶にはないが、神秘を通じて、確かにそこに己がいた確信があった。
──私はここで洗礼を受けた。
激しい予感がした。キャロルは血相を欠いて浸礼槽、即ち浴槽を探した。髪が乱れるのも気にせず、顔を振って探した。神が消え失せたのにも気が付かず、血眼になって探した。だが見当たらない。
いや、待て。神が座っていた棺が浸礼槽なのかも知れない。そう思い、キャロルはゆっくりとその蓋を開ける。槽の中から強烈な閃光が放たれる。
光の中にあったのは、身の丈程の長さの真っ白な柄と、遊色に輝く6叉の湾曲した歯であった。生き物のように、或いは雨の打つ水面のように、遊色がうねり暴れている。それは極光に似ていた。
キャロルは震える手で十字を切り、柄と叉を手にした。柄の先端には切れ込みがあり、叉を付けることができた。
恐る恐る、叉を柄に装着する。その瞬間、キャロルに強烈な後光が差した。そして、この聖具を授かる為にこの地に導かれたことを理解した。
霜降の節、十三夜。リトル・キャロルは輝聖のみが握る事を許された聖具を手にした。神リュカの小骨を継ぎ合わせて作られた柄と、蛋白石化した肋骨で作られた、例えるなら6叉の鐺鈀のような、槍状の聖遺物であった。
輝聖リトル・キャロルはこれを『麦集めの股鋤』と考え、後に発現した教会の名を取り『いと聖なるジョン=ウォーターハウス刑場教会の大農具』と名付けた。輝聖の聖務の賢明な行使を意味し、凡ゆる正義を象徴する、この世で最も灼かな神器として知られるものである。
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