リュカ(前)
灰が舞って、黒い風が吹いた。車輪を掲げる竿が風の音を鋭利にしていた。多指の少女──神リュカは地に足をつけて立つ。キャロルを見下ろし、何も喋らない。
「会って話をしてみたかったよ、何と呼べば良い」
ややあって、リュカは答える。
「糞女でも、化物でも」
北部の強い訛りだった。
「根に持つ性格なんだな」
リュカは否定することなく外方を向いて歩き出した。どうやら着いてこいとのことなので、キャロルは腿から短剣を抜いてリュカの後ろを行く。
(──不思議だ)
キャロルは大白亜で神を目撃した。神は稲妻と共に顕現し、激しい雨風の中で浮かんでいた。それは霊的な存在に近く、質量は持ち合わせていないように思えた。だが、今日に於いては雰囲気が違う。確かにそこに実在しているように見える。
彼女が歩き出せばざくざくと砂を蹴る音がして、折からの風で微かに匂いを感じる。それは子供のみが発する、優しくて、そして甘い香り。熟して柔らかくなった桃を彷彿とさせる。
(狂気の度合いで神の姿は鮮明になるのだろうか)
背中を見つめているだけで呑まれるような感覚がある。ぎゅうと視界が狭まっていく気がする。この少女以外、目に入らなくなる。
不思議だ。この華奢な少女に、全てを委ねたくなる。例えるならば母の膝の上にいるかのよう。勿論、キャロルには想像するしか出来ないのだが。
「聞いていいかな」
このままでは虜になると思い、深く息を吐いてから口を開く。
「教えでは、神は鳥となって私たちを見ているという。不死鳥フェニックスもお前の御使なのか」
リュカの答えを待ったが、壁に話しかけたように沈黙が続いた。だからキャロルは続けた。
「本当にお前は神なのか。──神とは何だ。お前は何者だ」
間があって、ついにリュカは答えた。顔を後ろに向けることはなかったが、その声ははっきりとキャロルの耳に届いた。その濡れた舌が鳴る音さえも漏れなく届いた。奇妙だった。
「確かに、私は鳥となってあなたを見ている」
処刑場の鴉が一斉に鳴き出す。すると何処からか鴉の一団がやって来て、真っ黒な空を旋回し始めた。
「そして凡ゆる生命は、私の手に委ねられている」
リュカは掲げられた車輪の1つを見上げる。僅かに呻き声が聞こえた。どうやら、まだ息のある罪人がいるらしい。
全ての鴉はその罪人に群がる。目や耳を啄み、嘴で腹を破って殺しにかかった。血と臓物の欠片が雨となってぼたぼたと降って来る。
「人間は本質的に支配されたがる生物だよ。常に見えない何かに極端な答えを求めている。つまりそれは、生きる事が存外に苦しく、不安になるばかりで疲れる事だから。故に私は真理となった」
血肉が降る中、リュカは笑みを浮かべてキャロルを見た。
「良いかい。神は真理なんだフェリシア。私の行動、私の考え、私の存在はまったく正しい」
キャロルは眉根を寄せる。
「フェリシア……? 誰のことを言っている」
キャロルを誰かと重ねているのだろうか。それとも誰かと勘違いしているのだろうか。
とにかくリュカは問いには答えず、再び前を向いて歩き出した。どうやら向かう先は柵の外側で、そこに苔生した古い教会がある。この教会は普段は使用されず、処刑が行われる際に限って祭儀が行われる。正式な名は記録に残されておらず、処刑場の名前を冠に『ジョン=ウォーターハウス刑場の教会』と呼ばれた。
「真理である私は、輝聖をこの世界を統べる者とした。だから、世の全ての幸運と悲運があなたの糧となり血肉となる。それらは全き神秘としてあなたの為に存在している」
リュカは扉を押し開けた。錆びた蝶番がぎいと音を立て、真っ暗な堂内に響いた。そして2人は闇の中の身廊を進む。
「全ての幸運と悲運が私の糧?」
「そう。世の祈りも、世の荒廃も、あなたの為に存在している」
「たとえば天変地異も、流行病も、全ては私の糧? 私の故郷が滅びたのも?」
「そのようにして私はあなたを作った」
「私は私だ。お前に作られたわけじゃない」
キャロルは利口である。幾つかの神秘を体験してきた今、正直なところ、神によって輝聖が形作られたのは真実なのだろうとは思っている。だが──。
「それにお前の理屈で言うと、私のために多くの命が失われたことになる。そしてこれからも失われ続ける」
認めてしまえば、自分が魔物よりも悍ましい存在に思えた。とても受け入れる事が出来ない。世界で最も消えたほうが良い人間だ。
「受け入れなかろうと、あなたは人形。私の愛しい愛しい人形だよ」
神は祭壇の前に立つとキャロルに向き直った。明確に、嘲るような笑みを浮かべていた。
「違う。私は私だ!」
「ならば証明してやろうか。たとえばエリカ・フォルダンを裸で魔物の前に出し、嬲り殺しても良い。あなたは戦鬼となって全ての魔物を討ち滅ぼし、世界は太平に導かれるだろう。たとえばエリカ・フォルダンの心を弱らせて、首を括らせても良い。あなたは気狂いとなって、永遠の孤独に幸福を見出すだろう」
キャロルは手を伸ばしてリュカの胸倉を取った。
「2度と言ってみろ。お前を殺す」
「あなたが神殺しとなるか」
「私は自分の考えで動いてきた。今この瞬間だってそうだ。私が神に会いたいと思ったから、お前が現れた。私は私だけのものだ。お前が作ったものじゃない」
「あなたが会いたいと思ったから私が現れた? 逆だよ。私が会って話をしたいと思ったから、あなたは薬を飲み、意識を混濁させた」
刹那、リュカが質量を失った。半透明になったリュカは『殺すならここを突いて確実に殺せ』と言わんばかりに眉間を指差しながら、リュカはすーっと床の中に沈んだ。
「なっ……」
そしてリュカは床に飲まれて完全に消え失せる。
「クソッ!」
キャロルは自らを落ち着けるように髪を掻き上げて深く息を吐いた。額に汗がじっとりと滲んでいたし、走った後のように息が切れている。厭な問答で、疲弊した。
それにしても、こんな所に連れて来て何を伝えたかったのだろう。そう思って、神が消えていった床を見る。見た目はなんて事のない溶岩石を切り出した床だが、念の為にその場所を叩いてみると、コンと音が響いた。中に空洞がある。──隠し扉だ。
キャロルは床の僅かな隙間に指をひっかけ、捲り上げた。やはり隠し扉、地下へと続く階段が現れる。
そして慎重に下る。その通路は屈まなくてはいけない位には狭かった。闇が深い。目が慣れているはずなのに何も見えない。魔法で光源を生もうとしたが、強烈な薬を飲んでいる為に暴発を恐れて、そうしなかった。
ひんやりと冷えた空気が這い上って来る。埃と砂の臭いも。キャロルは壁に手をつけ、ゆっくりとゆっくりと下りる。……脳内では神の声がしている。
『私には夢がある』
神の夢は世界を円とすること。世界に瘴気が生まれる前、この世界は円となって繋がっていたらしい。キャロルにとって想像し難いことだが、真っ直ぐに歩き続けると、やがては出発地点に辿り着くのだと言う。
『私はそれを達成しなければならない』
何故? と心の中で問う。
『約束があるから』
会話が続いた。どうやら、思う事を神に読まれているらしい。
『限りなく我儘に近い約束。誰とも明確に交わさなかった保身のための約束』
不思議だった。心に景色が見え始めた。存在しない過去が追憶の色を帯びて滲む。それが魂の中で広がって、温度、手触り、匂い、音の奥行きまでもが、ありありと浮かんだ。
そこは広い天幕の中だった。自分の周りには人が集まっている。だが、その者達は概ね奇形だった。
4呎(120cm)程の小人が15人いて、彼らは和気藹々と楽しそうに話している。羸痩の男は黙して私を見ていた。熊のように毛深い男がいて、彼はにこにこと笑みを浮かべる。肌も髪も白すぎる女は、何かを期待するように青い目を輝せていた。彼女の隣にいる白塗りをした傴僂の男は、道化師なのかも知れない。胴のない女が両手で体を支えているが、普段はどのようにして生活しているのだろうか。他には二首人間。異様なまでに筋肉が発達した男。身長が優に7呎(213メートル)は超えるであろう者も。
飼われているのだろうか、雌鹿と斑馬を混ぜたような珍獣、3本足の驢馬、それから狆くしゃの犬。天幕の中には小さな檻があって、挨拶を呟きすぎる鸚哥が入っていた。
私──つまり追憶の視点は下を向き、1つの石を握った。翡翠の原石、小さく古文字が描かれている。それを握る手指は7本。自分には存在しない小指から先の、名称のない2本の指先に確な感覚があって、それが伝わる。
(まさかこれはリュカの視点?)
目の前には古代の魔法陣が描かれた羊皮紙が敷かれている。その上には椎の木片や琥珀、雄牛や鹿の角、鳥の羽、香草を束ねた花束、檜榁杉の枝などが散らされていた。キャロルには術の仔細は分からぬものの、恐らくは方位によって定められた配置なのだろうと推測した。
リュカは翡翠を羊皮紙の上に放った。ごとり、と重い音がして北東に転がり、琥珀にぶつかった。
そして、静かに言う。
「──間違いない。瘴気は晴れる。荒野は円となって、新世界が生まれる」
須臾の間があって、わあと歓声が沸いた。誰もがこの占いの結果を待ち望んでいたようで、女子供などは感極まって泣いているし、道化師やお調子者などは小躍りを始めている。この見世物小屋を纏める長なのだろうか、それなりの身なりをした男が嬉しそうに笑って、みなの肩を叩いて回った。彼は奇形ではなさそうだった。
懐かしい。
経験したことのない光景なのに、そう思った。初夏の青空を仰ぐ時のように胸が締め付けられた。そして、神の声が聞こえる。
『生まれて初めて仲間というものを得た。そして、この仕事は嫌いではなかった。だけど、往々にして辛いこともあった』
辛いこと?
『私たちは虐げられていた。故に安住の地を夢見た。楽園を探して旅を続けた』
虐げられていた? キャロルの認識では、リュカは生前から慕われていたはず。当時の事を書いた歴史書は偽書も多いが、使徒ザネリの他有能な信者は確かにいて、リュカを支えていたのは事実。
『そうであったとも言えるし、そうでなかったとも言える。確かにミガクやザネリといった篤志家には助けられた。だけれど私たちは所詮、人に非ざると言うこと。熱心に信じてくれる人などは物好きか気触りの類だ。土地によっては仲間が殺されることもあった』
見世物小屋の演者たちの殆どは、その奇異な見た目から住処を追われた人間である。生まれは様々あれど基本的には不可触民、即ち今で言う不良身分であり、人として扱われることはない。
キャロルは納得した。確かに、先ほどから懐かしさの奥底、鉛色の重い靄があってすっきりしない。心細く、物寂しい気がする。きっとこれは、どうにもならない身分の苦しさで──。
『いや。それは、私が嘘をついたから』
嘘?
『──本当は瘴気など払えない。それが卜占の結果だった』
キャロルは耳を疑った。
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