風の聖女(中)
小満有明にベアトリスの葬儀が行われた。
首都聖ヘルケダールの大教会で詩と祈りが捧げられた後で、男達は棺を背負って丘にある墓地へと向う。葬列は若い琥珀の甘い煙を纏っていた。神官の掲げる鳥十字、黄金の香炉に聖水盆。その見事な葬列が横切ると、麻の種を撒く百姓たちが手を止めて見守った。
墓穴に棺を下ろし、男達は土をかける。黒い服の一団が黙してそれを見守る。雇われた泣き屋たちは手巾で顔を覆う。葬送のバグパイプが春の山々にこだましている。
ローズマリーは柳の下で風に当たっていた。埋葬の様子は見れたものではなかった。棺の中にベアトリスがいると考えると、涙が溢れて、どうしようもなくなる。昨日、一昨日と、枯れるくらい泣いたはずなのに。
ローズマリーが1人でいる姿を見つけて、喪服の乙女達が静々と寄ってきた。みな目を赤く腫らしている。涙やけだった。
ユーフェミアが言う。
「使用人が犯人だったみたい。その日のうちに首が刎ねられたんだって」
「何が目的で、そんなことを……っ」
「分からなかったらしいの。最後まで罪を認めなくて、目的を聞き出せずに処してしまったから」
ローズマリーが悲しさに手巾を握った時、
「──私決めた。ベアトリスのために、私、精一杯生きる」
発したのは占星術に詳しいクラリッサだった。クラリッサはベアトリスと特別仲が良く、幼い頃から遊ぶ間柄だった。彼女だけは他の乙女たちと涙の質が違い、耐え難い悔しさを多分に孕んでいた。
「あの子には夢があったの。聖女様を支える騎士になりたかったんだよ。女なのに腕っぷしが強いって嘆いていたけど、でも、その力を使って世界を救いたかったんだ」
クラリッサは目に溜まった涙を、ふうと息をついて押し込めた。
「私、ベアトリスの夢を継ぎたい。次の日蝕で現れる聖女様のお力になれるように、勉強を頑張る」
聖女は原典に裏付けられた世界の希望。瘴気を払い、太平を築き上げる。その聖女の力になるということは、救世の使徒であり、希望の光。ベアトリスは光になりたかった。……ローズマリーはそう思うと、ついに涙を堪えることが出来なくなった。
「ずっと分不相応だと思って、みんなに言えていなかった。でも、ベアトリスが聖女の騎士になりたかったって聞いたら、わたし、わたしね、──私、聖女になりたいっ! 聖女になって、ベアトリスの夢も一緒に連れていきたいっ!」
深く息を吸い、叫んだ。溢れる想いを止めることが出来ない。
「ベアトリスは死んだっ。でも、きっと、胸の中で永遠に生き続けるのっ。だから、私が聖女になれば、ベアトリスは聖女の騎士だっ……!」
聖女になって、太平を成す。
ベアトリスと共に光となり、世界を照らしたい。
人の心の闇をも照らしてしまって、ベアトリスのような可哀想な子が無いようにしたい。
私たちのように涙を流す人が無いようにしたい。
救いの聖女なら、悲しみも苦しみもない世界を作る事が、可能なはずなんだ。
「聖女に……っ、聖女になりたいぃ……」
乙女達はローズマリーの告白に涙を流し、団子のように固まって抱き合う。それで、ユーフェミアが嗚咽を漏らしながら言った。
「分不相応なんて、そんな事ないっ。ローズマリーはっ、一生懸命でっ、優しくてっ、頭が良くてっ、私っ、凄いって思ってたんだからっ! 絶対に、聖女になれるっ」
「バカにしないの……っ?」
「するわけないじゃないっ! 大好きな友達の夢なんだからっ!」
そんな事を言われてしまったら、弥が上にも涙が止まらなくなってしまって、ローズマリーは手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。ユーフェミアはそんなローズマリーをぎゅうと抱きしめて、言った。
「私も、聖女様の騎士になりたいっ! ローズマリーと一緒に、ベアトリスの夢を叶えたいっ!」
クラリッサも、薬学に長けるインゲも、声にならない声で『聖女の騎士になりたい』と続いた。
「ねえ、約束しましょう。大好きな5人で一緒に夢を叶えるって。きっと、きっとよ」
次いでユーフェミアは言った。──合言葉は『ベアトリスのために』。4人の乙女はその言葉を胸に刻んだ。そして挫けそうになった時、喜びを分かち合う時、それを口にするようにした。
□□
乙女達はそれぞれの夢を掲げて直向きな努力を続けた。勉学、鍛錬、何一つとして忽せには出来なかった。
遊ぶ時間は自然と減った。野を駆ける事も減り、凧を揚げる事も、大鍵琴を触る時間も減った。でも、物思いに耽る時間は少し増えた。みな、ベアトリスの事を想った。
──そんな中、クラリッサに転機が訪れた。
占星術で満潮と豊漁を予見し、漁師たちを助けたことが評判となって、王都にある気象占星術の共同体『科学と伝承』に招待される事となったのだ。その報を受けて、乙女達は我が事のように喜び、抱き合った。王都で最新の占星術を学ぶ事が出来るのだから、大飛躍である!
そしてユーフェミアは涙交じりに言った。
「ベアトリスが導いてくれているのよ! 神様の隣で、ずっと私たちのことを見てくれているのよ!」
クラリッサは雷鳴亥中に王都へと旅立った。明確な別れの言葉はなかった。乙女達は『ベアトリスのために』と言い、心で再会を誓った。
さて、ローズマリーとクラリッサは互いに筆忠実であったから、5日に1回は手紙のやり取りを行った。
ローズマリーが書く内容は基本、取り留めがない。何となしに共有したい事を、思うがままに筆を走らせていた。
例えば、今お気に入りの硝子筆で書いていること。
それから、香辛料で煮込んだ牡蠣なら食べられるようになったこと。
近ごろ頓に牛疫が流行っていること。
ユーフェミアと共に玉虫を捕まえて、インゲと3人で胸飾りを作ったこと。それをクラリッサにも送ること。
もうすぐ藍苺の季節になること。
インゲが牛疫に対処する為に施療院で薬作りを手伝っていること。
なんと薬作りの功績を認められて王都の薬師たちがインゲに会いに来たこと。
薬師に聖隷カタリナ学園に推薦されたのに、インゲの両親は反対しているみたいで、元気がないこと。
これまたなんと、ユーフェミアは兄ウィリアムと文通を始めたこと!
最近、あの苺狩りを思い出すことが多くなったこと。
早くクラリッサに会いたいこと。
そして、ベアトリスが恋しいこと。
クラリッサからは王都の情報が返って来るのが常だった。
例えば、刺繍のある襯衣が庶民の間で流行っていること。
屋台では様々な軽食が売られていること。発酵させた鰊などはとても食べられたものではないこと。
故郷の魚は美味しかったのだと気づけたのが嬉しいこと。
勉強が楽しいこと。
王都では年上ばかりでなかなか友が出来ないこと。
雨が降る日や、静かな夜は寂しくなること。
早くみんなに会いたいこと。
そして、ベアトリスが恋しいこと。
夏の日、クラリッサは一冊の本を送った。王都で作った星読みの記録書だった。手紙によれば精度の高さを評価されて、国から褒章を受けたのだと言う。
乙女3人は体を寄せ合って記録書を読んだ。手書き、滲む印気。紙に触れるとクラリッサと間接的に触れているようで、暖かい。頁をめくる度に香る肉桂。日頃から部屋で焚いているのだろうか。
読み終わったら、丘を登ってベアトリスに会いに行った。墓前に藍苺と乾酪、それからクラリッサが書いた記録書を置いた。
その5日後に施療院で牛疫を対処していたインゲが倒れた。
□□
ローズマリーは城を飛び出した。外套も羽織らずに雨の中を駆け、施療院に飛び込む。がらんとした一室、窓際の寝台の上でインゲが横たわっていた。インゲは真っ白な唇を動かす。
「ご、ごめんね。私、薬の調合を間違えてしまったみたい」
報告によると水薬を作る時に発生したガスで、呼吸器が麻痺したらしかった。
「でも、インゲがそんな間違いを起こすだなんて……」
ローズマリーの認識では、インゲは慎重居士な乙女である。何事も丁寧に確認する癖のようなものがあり、それゆえにまったりとした所もある。そうした性格だから、事故とは無縁だと思っていた。
「疲れていたのかも知れない。こんな事になるなんて、私は薬師失格だね……」
ローズマリーは目に涙を浮かべて、インゲの額を拭いてやる。そこに玉のような汗が滲んでいた。
「心配しなくても大丈夫よ、ローズマリー。薬を飲んで毒を出せば、きっとすぐに良くなるわ。──ローゼス家から来た薬師様が診てくれてるのよ」
背後に気配がして、ローズマリーは振り返った。立っていたのは極端に長い髪の女だった。女は細い目をさらに細めて、にこりと笑む。
「ヨゼフィーネ……」
よく知る顔であった。ヨゼフィーネは普段から世話になっている薬師。ローズマリーも気分が悪ければ決まって彼女に診てもらっている。
──でも、なぜ街の施療院に家の薬師がいるのだろうか。
正教軍や領軍の薬師がいるなら分かるが、こうした場所に貴族に仕える者が出入りする印象は、少なくともローズマリーにはない。病を仕えている家に持ち帰ったら大事となるので。
「なんで、ヨゼフィーネが……、ここにいるの……?」
沈黙。3秒、4秒と経ってヨゼフィーネが答える。妙な間であった。
「家畜の間で病が流行り、今は領の一大事。領主には病を根絶する責任があると、旦那様がお遣わしになったのが、この私にございます」
インゲが補足する。
「一緒に牛疫と戦って来たの。もうヨゼフィーネとは友達なのよ。だから、心配ないわ。彼女が私の具合を診てくれるから大丈夫」
特に可笑しな話ではなかったから、ローズマリーは納得するしかなかった。
「暗い顔をしないで、ローズマリー。私たちは聖女の騎士になる。立ち止まってなんかいられないわ」
インゲは微笑んで、ローズマリーの手を握る。
「それにね、お父様もお母様もやっと認めてくれたのよ。私、聖隷カタリナ学園に行けるの。学園にはたくさんの資料があって、薬圃には珍しい薬草がたくさん栽培されている。そんな夢のような場所で勉強ができるだなんて、胸が躍るわ」
ローズマリーはその弱々しい笑みを見て、励まさなければと、両手で強く握り返した。
「き、きっと。きっと良くなる! 神様は絶対にインゲを見捨てたりなんかしないっ」
そして手を額に持っていき、強く祈った。──天に坐す神さま、あなたのお名前を褒め称えます。どうかインゲ・フォン・ブランデンブルクをお助けください。お願いします、後生ですから。他には何もいりませんから。
「ありがとう、ローズマリー。私の大好きな友達。私、幸せよ」
ローズマリーは顔を上げてヨゼフィーネをちらりと見た。彼女は笑んでいた。
「インゲ様の事は私にお任せいただき、ご自身の勉学、鍛錬に集中してくださいませ。──旦那様はお嬢様が聖女になる事を期待して御出でです」
□□
それからローズマリーは城に戻り、クラリッサに向けて一通の手紙を認めた。内容としてはインゲが倒れてしまったことと、彼女を勇気づける為の言葉が欲しいことの2点で、乱筆だった。
印気も乾かぬ内に手紙を持って中庭へ走った。鳩小屋に入り、その内の一羽に魔法をかけクラリッサの元は向かうよう命ずる。
鳩を持って小屋を出た時、そこにユーフェミアがいた。不安げな様子で魔術書を抱いている。中庭は工房と繋がっているから、勉強をしていた所に窓からローズマリーの姿が見えた。
ローズマリーはインゲが倒れた事を告げようとした。だが何処から話して良いか混乱して、実際にそれを口にする前にユーフェミアが言った。
「ねぇ、ヨゼフィーネってどんな人?」
「え?」
手紙を持った鳩がローズマリーの手から離れ、天に飛び立って行った。
「ど、どうして急にそんな事を聞くの……?」
「ベアトリスの家に少し前から出入りしていたの、知っている?」
ひたとユーフェミアを見る。
「春前からベアトリスのお祖父様の具合が悪かったらしいの。その噂を聞きつけた領主様がヨゼフィーネを遣わしていたみたい。ベアトリスの家にも薬師はいるはずなのに、ヨゼフィーネが診ていたんだって」
初耳だった。今日までに何度もヨゼフィーネと会ったが、そんな事は一言も言っていなかった。
(インゲの事も……、ヨゼフィーネが、見ていた……)
ローズマリーは何かを言おうとした。でも、言葉が出なかった。ヨゼフィーネがいつも体調を気にかけてくれる事、熱で魘された時は寝ずに看病してくれる逞しさ、それから、自分でも感じている引っ掛かりが綯交ぜになって、それで、その先がなかった。
「ねぇ、ローズマリー。何か、おかしくない? ベアトリスはヘス侯爵領で認められて倒れた。インゲは薬師たちに認められて倒れた。私たち、誰かが成功する度に倒れてる」
ローズマリーは胸の前で手を重ね、ぎゅうと握った。
「ねぇ、良いのかな」
ユーフェミアは不安げな瞳でローズマリーを見つめる。
「私たち、このまま頑張って良いのかな。私は聖女の騎士になれるのかな。神様が『あなた達には相応しくない』って忠告しているのかな……」
言って直ぐ、ユーフェミアはぶんぶんと首を横に振った。
「ダメダメ。弱気になってる。決めたのにね、夢を叶えるって。言い出しっぺの私がこんなんじゃ、ベアトリスに笑われちゃうわ」
笑うが、力無い。
「……集中できないから、今日は帰るね」
ユーフェミアは『ベアトリスのために』を別れの挨拶として、中庭から去った。ローズマリーは1人ぽつんと中庭に取り残される。
(私たち、誰かが成功する度に、倒れてる)
でもクラリッサも王都で成功を手にしているはず。彼女は元気だ。昨日も手紙が来たばかりだから。
(本当に、神様が忠告しているの……?)
その時、中庭の木々の陰で何かが動いた気配がした。
「……誰?」
ローズマリーは気配のあった白樺の木にそっと近寄る。が、誰もいない。しかし、微かに。微かにだが、爽やかな小荳蔲の香りがしていた。
小荳蔲は菌を殺す作用がある。薬を作る時の癖のようなものだろうか、ヨゼフィーネは頻繁にそれを使用するから、彼女は小荳蔲の香りを纏わせていることが多かった。
「ヨゼフィーネ……? 帰ってきているの?」
辺りを見回す。人の気配はない。鳩小屋の鳩がくるっぽと鳴いている。
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