風の聖女(前)
──瘴気の壁の向こう側には、どんな世界が広がっているのだろう。
そこは荒野か。
枯れ木と枯れ草だけか。
髑髏が転がるか。
磊磊たる砂礫が広がるか。
生き物はあるか。
蝿が飛び交い、蛆が這うか。
魔物が跋扈するか。
竜が吠えるか。
死霊だけが蠢くか。
空は何色だ。
黒色か、灰色か。
日は昇るか、日は沈むか。
月は満ちるか、月は欠けるか。
雲は流れているか、雨は降るか。
そうなら、沛然として雨が降り続いているか。
反対に、日輪が全てを乾かすか。
瘴気の中では、どんな音がするだろう。
何も聞こえない?
鐘の音はどこだ。どうやって時刻を知る。
歩くたびに自分の足音が聞こえて、
ただそれだけ。
風もないなら、聞こえる音は、耳鳴りの音。
何も音がしない。
音がしないのに、
キンと鳴っている。
──それともまさか、瘴気の中には楽園があるか。
満目の花畑で、生きとし生けるもの全てが生を謳歌している!
風薫る。
青い空。
陽光照る。
鳥の歌、木々の騒めき。
ああ、水も無限にある。
川の水、雪解け水のように冷えて美味しい。
山に入れば野菜や茸がふんだんにあって、
林檎や葡萄も季節を問わず実っている。
野には兎、山には鹿、川には鱒がいて、
思う存分に狩りを楽しめる。
優しい馬も群れていて、
乗れば緑の風となって千里を駆ける。
そこでは毎日が楽しい。
時間は気にしなくていい。
遊び疲れて地に転がれば、花々の香りに包まれて、すぐに眠くなる。
鼻に蝶々が止まり、一休み。
瘴気の中には幸福があるのではないか。
苦しみも悲しみも存在しないのではないか。
私たちが生きる世界こそが地獄であり、
外側こそ楽園ではあるまいか。
そして、この暴論を誰も否定できないのではないか。
□□
ホルスト伯爵領ハンハイムは城壁に囲まれた堅牢な都市である。都市の中枢であるハンハイム城は古来より増改築が繰り返され、山と見紛う程だった。
城内では第三聖女隊の手当が行われていた。大広間に兵が寝かせられ、腕利きの薬師や魔術師が必死に彼らを治療している。しかし奮闘虚しく、一昨日は2人、昨日は1人の兵が死んだ。
毛布の上に、全身に包帯を巻かれた大男が横たわっていた。先まで気を失っていたが、その男は目を覚ますと、傍で湿布を準備していた薬師の袖を力無く掴んだ。
「聖女様は……。聖女様は、何をしておられる……」
「中庭でお休みになられております」
大男は起きあがろうとしたが、全身に激痛が走って、諦める。
「ご無理をなさりませぬよう、フォルケ様」
フォルケ・セーデルブロムは第三聖女隊を纏める将で、位は中佐である。誰とも口を利かない空聖を献身的に支えてきた。齢は25歳で将としては若く、アスコット伯爵領領主の三男坊である。
彼は領主の息子として生を受け、人生の成功を約束されていた。美しい許嫁がいて、果てしない財産があった。だが、遠乗りの最中に許嫁は魔物に襲われて死んだ。愛していたかも分からない乙女だったが、彼女の消失はフォルケの心に大穴を開けた。それで父の反対を押し切り、正教軍に志願した。魔物のいない世界を作りたいという、青い信念に突き動かされた。
父の名を用いず武功を立て、出世を果たし、神に全てを捧げ奉らんと第三聖女隊に入隊した。苦労の果てに聖女隊の装備を纏った時の高揚感は、今でも忘れられない。
体が蝕まれてもあの日の決意は変わらない。聖女を助け瘴気を払い、魔物のいない世界を築き上げるのだ。
「誰か、空聖の近くにいてやってくれ……。俺の代わりに支えてやってくれ……」
「今はご自身のお体を労わってくださいませ」
薬師が腹の包帯を代える為にそれを取ると、残酷な傷口が露呈した。深く抉られた傷は膿んでいる。そして妙なことに、曝け出された腑の辺りから豆の芽のようなものがわらわらと生えて出ていた。しかも大概が上手く肉を突き破れずに、肉の中で逃げ場を失い、団子になっている。そこにも膿が溜まり、全体が白い柘榴のようであった。この傷は腹だけでなく、背中にも肩にも腿にも広がっていた。
薬師は焦りに顔を顰める。早く何とかしなくては、この有能な若い騎士が危ない。
だが、あらゆる薬を用いても、あらゆる魔法を用いても、良い効果が現れない。これほど自分の無力を嘆いたことはない。もっと勉強をしていれば、この奇病を征服することが出来たのだろうか。……いや、それはどうだろう。自分で思って、自分で諦める。
フォルケは体中の傷も、薬師の無念も、まるで目に入らないかのように、ただ一心に聖女の事を考えている。
「空聖は……、紛う事なき聖女なんだ……。あの娘を1人にしてはならない。俺の代わりに、誰か、彼女の心を、解き放っては、くれないか……」
□□
ハンハイム城の中庭は硝子の温室であった。ここには瘴気で失われた各領の植物が育てられていて、鳥や虫、小動物も放し飼いにされて、1つの生態系を作っている。
梣に囲まれて、泉と噴水がある。周辺には露草がびっしりと生えていた。空聖ローズマリーは露草の絨毯の上で佇む。虚ろな目、どこにも焦点が合っていない。
木々の陰から第三聖女隊に従軍する侍女達が、不安げな表情で様子を見ていた。聖女の醸す白痴の気とでも言おうか、とにかく正常に非ざる雰囲気を恐れ、近づくことが出来なかった。
ローズマリーは虚ろな目のまましゃがみ込むと、露草をむんずと毟った。それを口へと持って行き、むしゃむしゃと食べ始める。花も茎も葉も根も、それに付着する土すらも食う。
──初めは氷を食べたいだけだった。
蝕が起きて聖女となってから、体が食べ物を受け付けなくなってしまった。だが氷ならば、ひやりとして気持ちが良く、それと一緒に粥などを口に含めば、何とか腹の中に流し込む事が出来た。
騙し騙し食事を取っていたが、夏頃には粥も受け付けなくなり、スープと氷だけを食べるようになった。
そして、ここ数日は、もはや氷などといったものではなく、もっと、他の──、例えば、羊皮紙だとか、布きれだとか、毛だとか、炭だとか、花だとかを食べようと思った。もちろん、吐き戻す。が、それしか口に出来る気がしなかった。ついに狂ったのだと自分でも思う。
とにかく、我慢ならないのだ。
良くない事だとは理解している。ちゃんと食べ物を食べなくてはならないとも思っている。でも、どうしようもできない。
急かされるようにして異物を食う。
すると苦しいのに、生の喜びがここにあるような気がして、自分に対する憎しみだとか、存在の無価値さなどが和らぐ。
そして、ただ吐くことだけに集中できた。
異物を喰らうことで僅からながら癒されることを知ってから、そうせざるを得なくなった。
ローズマリーは四つん這いになって泉のほとりまで行き、吐き戻した。酸が鼻をつく。胃液と露草が水に溶けてゆく。揺蕩う吐瀉物、水面に映る己の面相、まるで死人であった。死んだ魚の目。カサカサとした唇。肌は蝋のよう。それが気色悪くて、また吐き戻す。
そうしていると、中庭に1人の聖女隊の兵が現れた。兵はよろよろとした足取りでローズマリーに近づくと、膝を折る。
「聖女様」
ローズマリーは見向きもしない。
「聖女様、お聞きください」
無視を続ける。
「みな、苦しんでおります。聖女様を熱心に支えたフォルケ様も、もはや風前の灯。何卒お出向きくださいませ。そしてどうか、神から与えられたそのお力で、哀れな兵達をお救いくださいませ」
兵は涙ながらに訴えるが、やはりローズマリーは無視を続けた。それが悔しくて、兵は土を握りしめる。
その様子を見た侍女たちも意を決したように近づき、同じく膝を折った。
「どうか聖女様、お救いください」
「昨日も1人息絶えましてございます。空聖のご威光をどうか」
「このままでは、みな死に絶えてしまうのではと、心配しておりまする」
だがやはり懇願虚しく、ローズマリーは周囲をいないものとして扱う。心を閉ざし、水面に浮かぶ濁った瞳、そこに潜む恐怖を、反芻している。
──確かに倒したはずだった。心の臓を抉り、頭を潰した。
だのに火の鳥は、蝉が脱皮するかのように、亡骸から新たなる体を生み出した。燦然と光り輝く翼を広げ、未知の炎で兵馬を焼いた。
これは罰だ。本来であれば、聖女であるべきでない私を聖女にしたせいで、そして私がそれを受け入れたせいで、罰を受けた。
天変地異も罰だ。あらゆる人は勝手な妄想を口にする。教皇が神となろうとしている天誅であるとか、大白亜派が輝聖を認めた事に対する神の怒りであるとか、健闘及ばずいよいよ破滅の時が来たのだとか。
だが私だけは答えを知っている。私のような屑が、或いは生きる価値のない塵が、聖女であり続けてしまうから神はついに人類を見捨てたのだ。当たり前の制裁が始まったのだ。
終わりだ、何もかもが。
私なんかを聖女にしたせいで。
愚かな。
お前達も同罪だ。
私を聖女にしたお前達も、私に救いを求めるお前達も。
みな罪を背負って、罰を受けるべきなんだ。
滅亡という罰を。
───
──
―
□□
―
──
───
その日、世界が変わった。
遠くの物がくっきりと見えるし、指が二重になる事もない。目に映る全てのものが刺激となって、体を痺れさせる。頭に稲妻が落ちるとはこういう事なのだと、ローズマリーは思った。
「どうだ、見えるか」
背後から父の声が聞こえる。
「何か、言うことはないのか」
齢7歳に垂んとする豪雪の日。生まれつき弱視であったローズマリーに眼鏡が与えられた。父ファルコニア伯爵──名をゴットフリード・ヴァン=ローゼスが連れてきた職人によってそれは作られた。
「壁紙は花の模様、窓際に寒芍薬が飾られていて、それから、外では雪が降ってる……。炉棚には飾り皿、香時計、あとは、あとは……、炉の飾り枠も、植物の模様。暖炉の炎が綺麗……」
侍女達が感嘆のため息を漏らす。
ローズマリーは周囲を見渡した。侍女達の顔も良く分かる。法令線や顔の皺まで著く分かる。兄ウィリアムの面相は思ったよりもにこやかだ。その隣に立つのは父。まるで羆のような迫力に圧倒された。
「是にて、弱視を理由に何処ぞの馬の骨に嫁がせる必要もなかろう。この儂の娘に、日がな1日編み物をさせておく訳にもゆくまい」
伯爵は大きな手で、ローズマリーの頭を撫でてやる。
「良いか、ようく聞けローズマリー。お前に流れる血はファルコニアの血。叫べば森羅万象を屈服させ、目を開けば魔物をも屈服させる。この優れた血を腐らすことは儂が許さぬぞ。勉学に励み、武を嗜むべし。そして王家に奉公し、良縁を待て」
次の日からローズマリーには本が与えられた。弱視ながらも文字の読み書きに関しては、教師たちの創意工夫により習得していたから、読むことは出来た。
初めて読んだ本は『ギ・マチスの大旅行』であった。これは阿呆のギ・マチスが諸国を漫遊する冒険譚であり、目的は『その水を飲めば百の知識を授かる』とされるシャムル川を探して当てる事である。ギ・マチスは阿呆であるから、人々の忠告も聞かずに瘴気の中にまで足を伸ばす。
瘴気の世界には様々な魔物がいる。ギ・マチスは魔物の真似をするなどの妙な策でそれを退け、やがて面白おかしい出会いを果たす。例えば喋る猫であったり、空飛ぶ馬車に遭遇する。時には星々が降る街を行き、またある時は砂糖菓子の山々を踏破し、乳と蜜の流れる川を泳ぎ渡る。うっかりと紅茶の井戸に落ちることもあれば、歌う樫の木と共に六弦琴を演奏したりもする。
ローズマリーはこの不思議な話に魅了され、夢中になった。
──本当に瘴気の中には、こんなに面白い場所があるの?
城の資料室に行き、たくさんの本を読み漁って答えを求めた。だが、答えは見当たらない。本によっては瘴気の中は地獄であり、宇宙であり、無の空間であった。
誰も答えは知らないのだ。何故なら、瘴気に飲まれた者は誰1人として帰ってくる事はないから。人類は想像でしか瘴気を語ることが出来ないらしい。
ああ、瘴気の壁の外側には、どんな光景が広がっているのだろう。想像を逞しくするほどに、本物を見てみたくなる。狂おしいほどに気になる。瘴気の中に行ってみたい。
その夢を叶える方法は、一つしかなかった。
「お父様。私、聖女になりたいです」
伯爵は破顔し、愛する娘を抱きしめる。
「素晴らしいではないか。なんと大きな夢であろうかっ!」
そして頬に口付けをした。
「ようし、ローズマリー。この儂が必ずお前を聖女にしてやろう!」
「本当に?」
今度は額に口付けをする。
「ああ、本当だとも。だが約束せよ、ローズマリー」
ファルコニア伯爵は笑顔を崩さず、続ける。
「きっと聖女という存在は、優れた人間でなくてはならぬ。誰からも慕われる人となるべく、屑々として励むのだ。努力は寸毫も怠ってはならぬ。神には毎日祈りを捧げよ。好き嫌いも無くさねばならん。菊苦菜も食べよ」
「牡蠣もですか?」
「無論、蟶貝も蛤もである」
貝を食べなくてはならないなんて、それはそれは深刻な話だった。
「誰よりも優れた乙女でなくば、神はお前を選んでは下さらぬだろう。それを肝に銘じておくのだ」
ローズマリーは硬く頷いた。──必ず聖女になる。貝も食べよう。そしていつか、瘴気の外に何があるかを、自分の目で確かめるのだ。
□□
伯爵は娘を愛していた。故にローズマリーが『聖女になりたい』と望むなら、そうさせてやるのが務めであると思った。
聖女は瘴気を払い、世界に太平を齎す。ならばその聖女とやらは一天万乗の戦乙女であり、凡ゆる魔に屈しない人物なのだろう。つまりローズマリーが領で最も優れた乙女にならねば、聖女など夢のまた夢。ファルコニア伯爵は直ちに指南役をつけ、魔法と武術を教えさせた。
それに限らず、伯爵は有らん限りをローズマリーに尽くした。例えば、冒険がしたいと言った時には遠乗りの為の馬を与えてやった。気分が晴れぬと嘆けば、白毛の美しい猫を与えてやった。甘いものを食べたいと言えば珍しい果物を揃えてやったし、眠れぬと呟けば詩人に即興で物語を作らせた。
──ある日、ローズマリーは友が欲しいと零した。
その数日後、齢11歳の冬。雪下の節、立待月。この日はひどく吹雪いていた。
いつものように指南役がいる工房に入ると、見ず知らずの乙女達が出迎えてくれた。これからはこの4人と共に勉強をしていくのだと指南役は言った。
彼女達は領内から集められた才女であった。ベアトリスは長身で、剣の扱いに長ける。クラリッサは占星術が得意で、地理や天候にも詳しい。インゲは優しく穏やか。植物の知識が豊富で、薬学を得意とした。そして、ユーフェミアは悪戯好きで活発。動物や虫が大好きで、回復魔法や防護魔法を得意とした。
突然のことでローズマリーは困惑したが、3日と経てば多少話せるようになり、1節の後には気兼ねなく会話ができ、時にはじゃれ合う事もあったりで、2節の後は友となった。
ローズマリーは友から様々な事を学んだ。指南役はついていたが、やはり同年代の友から学ぶ知識は刺激となって、急成長のきっかけとなった。
ベアトリスからは戦闘の心得を学び、クラリッサからは星読みを学んだ。インゲからは花々の知識。ユーフェミアからは、みんなをびっくりさせてしまう少しの悪戯と、虫の生態について。それから回復魔法、防護魔法の便法を学んだ。
友が出来てから、ローズマリーには笑顔が増えた。毎日が楽しかった。友に会えば話したい事が湯水の如く溢れ出てくる。なんて素敵な日々だろう。
そして、夜になると空を見上げて十字を切り、神に感謝をするのが日課になった。
□□
春になれば、雪が解ける。香菫が顔を出し、麓が緑に染まり、鷽が口笛を吹いて、水が温む。
ファルコニア伯爵領は冬が長い。だから、貴族も商人も百姓も聖職者も、娼婦や野盗だって春が待ち遠しい。誰もが春に恋焦がれる。
北方の乙女たちの春の楽しみは、白詰草を編んで冠を作る事、踏み踊りをする事、球投げ遊びをすること、それから苺狩りであった。
5人の乙女は苺狩りに出かける約束をした。侍女などの従者は付けずに行く事に決めた。野苺をたくさん摘んで食べるつもりだった。残った分は蜂蜜と煮込んでジャムにしたい。
前の日の晩、乙女達は城に泊まった。みな興奮で眠れない中、寝台の上で悪戯好きのユーフェミアが言う。
「良い? 明日は忘れ物はなしよ」
お浚いをしてみよう。苺狩りに持っていくもの。
一つ、摘んだ苺を入れておく藤籠。
一つ、早朝から手分けして作る最高の昼食。
一つ、喉が乾いた時に飲むための美味しい水。
一つ、汗を拭くための手巾。(薔薇水で香りをつけて)
一つ、日光を遮るのと、おしゃれの為の帽子。
一つ、茎が硬かった時のための鋏。
一つ、急な雨が降った時の外套。
一つ、春を楽しむ心。
最後の一つは──。
「──最後の一つ、ローズマリーはわかる?」
ローズマリーは枕を抱きしめて、考える。
「えっと……。あれでしょう? 肌を焼かないための、珊瑚の粉でしょう?」
「それも必要だけど、違うわ」
ユーフェミアは人差し指を立てて口元に持っていき、しーっと息を漏らした。大声では言いにくい話らしい。乙女達は体を寄せて、ユーフェミアを囲む。
「最後の一つは、大好きな侍女や家族にも言えないような、ナイショの話」
ローズマリーが問う。
「例えばそれはどんなの?」
「どんな男の人とキスをしたいか!」
ユーフェミアが言うと、乙女達は赤面して、くすくすと笑い合った。
□□
乙女達は2頭立ての四輪馬車を借りて、タープ城を出立した。馭者もつけず、長身のベアトリスと地理に詳しいクラリッサが馬を操る。
ローズマリー達は馬車の中で、自分たちだけで作った包焼きを食べながら、わいわいきゃあきゃあと会話を弾ませた。それは野に到着したら何をして遊ぶかであったり、どんな男子の顔の好みかであったり、心ときめく詩の話であったり、裁縫や刺繍の話であったりした。時には馭者役の2人に包焼きを渡し、使用人に命じる風にして揶揄ったりしながら、和気藹々と野に向かった。
乙女達は目的地の野っ原に到着すると、野苺の群生する場所まで競走をし、俚歌を口ずさみながら楽しく苺を摘んだ。実を噛めば果汁が口の中に溢れる。思いの外酸味が強いので、乙女達は笑い合った。
たくさん苺を摘んだら球投げ遊びをして遊び、それから踏み踊りをした。踏み踊りは男女で踊るものであるが、恋人のない者同士なら男役と女役に別れて踊る。
踊り疲れたら絨毯を敷いて、包焼きや摘んだばかりの苺、パンと卵、橄欖、酢漬にした野菜を広げる。そしてローズマリーが張り切って作りすぎてしまった、山のような潰し芋をみんなで食べた。
ユーフェミアが口いっぱいにパンを頬張りながら言う。
「私ね、気になっている人がいるの」
パンくずだらけの頬をそのままに、ローズマリーの顔をじっと見た。
「わ、私のこと……?」
沈黙が続くから不安になって、きょろきょろと辺りを見回し、狼狽し始めたところで、ユーフェミアはぷっと笑った。
「違うわよ! あなたのお兄様。ウィリアム様よ」
乙女達がどっと笑い、ローズマリーは赤面した。
「ねぇねぇ、ローズマリー。ウィリアム様には許嫁がいるの?」
「い、いないよ。そんな話は聞いたことないもの……」
「じゃあ、私にもチャンスがあるかも?」
「う、うん。だってユーフェミアのお家は、お父様を支えるお家だもの……」
ユーフェミアはにひひと嬉しそうに笑った。ウィリアム・ヴァン=ローゼスには恋人がおらず、己にその資格あり!
「私ばっかり話してちゃ卑怯よ! ローズマリーは何か秘密の話は持ってきたの?」
ローズマリーはぴしゃりと居住まいを正して、視線を泳がせる。
「わっ、わたしはっ」
再び沈黙。
「……何も思いつかないっ」
言って、俯く。喉まで出かかっていた『聖女になりたい』という夢は、ごくんと飲み込んだ。大袈裟な話になってしまうから、恥ずかしい。
そうしていると、長身のベアトリスがそろりと言う。
「じゃあ、代わりに私が……」
みながわくわくとした表情で、ベアトリスに注目した。
「あ、あのね。秘密と言うほどではないのだけれど、私ね、数日の間、お暇をいただいていたでしょう? 実はね、ヘス侯爵領の御前試合に出ていたの」
ヘス侯爵領とはファルコニア伯爵領の東に面する領であり、御前試合とは領主の前などで行われる武術の試合であった。
みな、目を丸くして驚く。
「「「女の子なのにっ!?」」」
「う、うん。女の子だけの御前試合なの。それで、私、優勝して、ヘス侯爵に認められたわ」
乙女達は、わあ! と湧き上がった。ローズマリーも満面の笑みで拍手をする。それは本当に凄いことだ!
「そ、それでね。聖ヴィネディネの称号を頂いたのよ。これはね、ヘス侯爵に認められると頂けるものなの。……そ、それからね。ファルコニア伯爵領の乙女で1番強いって、評されたの」
ユーフェミアがベアトリスに抱きつく。ベアトリスの持っていた包焼きが転げた。
「なんで内緒にしてたのよっ」
「だ、だって、恥ずかしいわ。女の子なのに、強いだなんて。しかも、魔法で勝ったならまだしも、剣の腕でだなんて……」
ローズマリーは赤面しながら、大声を張り上げた。
「そ、そんなことないっ。かっこいいっ!」
みな頷き、ユーフェミアがそれに乗る。
「そうよ! かっこいい! 私たちの大好きなベアトリス! 私たちの自慢の友達!」
乙女達は食事もほどほどに、もう1度踏み踊りを始めた。そして『私の恋人だ』と冗談を言って、男役のベアトリスを取り合った。
日が暮れる前にはタープ城に戻り、乙女達はジャムを作り始めた。使用人や料理人を厨房から追い出して、一切を手伝わせなかった。
苺を手洗いし、蔕を取って鍋に入れる。その上から、とりたて新鮮な蜂蜜を流し込んで、ぐつぐつ煮込んで、みんなで仲良く灰汁抜き。最後に檸檬を絞って、瓶に入れたら出来上がり。
瓶の中、赤いジャム。思い出きらきら、苺水晶のよう。
□□
2日後の小満拝月。長身のベアトリスは死んだ。最期に食べた砂糖菓子から砒素が見つかった。
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