間話:病(前)
暗い昼。南からの風が吹く日は決まって空が黒く塗りつぶされる。西ハドリー山の吐き出す灰が、天と白日を飲んで、暗闇にしてしまう。
マーシア公爵領北部を流れるライブル川は澱んで涅色に染まっていた。鮒や鱒などの魚が浮いて固まり、島を作っている。島からじわりと滲む玉虫色の油。漂う強烈な腐臭、とてもではないが鼻で呼吸など出来たものではない。降灰によって、駘蕩として流れる大河は死んだ。
葦で囲まれた川辺の閑地に筵が敷かれ、死体が並べられていた。どれも指先と足先が焦げたように黒ずんでいて、全身の皮膚が斑らに赤黒い。
わあわあと蝿が飛び交う中、死体の真っ黒な足の裏に針を刺していく者がいた。──随分と奇妙な格好をしている。黒い外套に皮の手袋、首元には厚手の布を巻き、肌を完全に隠していた。顔には大きな嘴のついた、鳥の顔のような仮面をつけていた。傍にもう1人小柄な者がいて、同じように肌を隠して仮面を装着している。
針を刺すのは、確実に死んだかどうかを確認するため。ここに寝かされているのは黒死病を患い命を落とした者達だが、時には息を吹き返す事もあった。だから埋葬前には針を刺す。生き埋めは避けたいから。
最後の1人に針を刺した時、びくりと体が動いて、それが呻く。この男は生きていたようだ。
「光の鳥。光の鳥が……」
譫言。
「巨大な鳥が来て、世界を破壊してしまう……。光る、鳥が……」
針を抜いて言う。
「そんな鳥はいない。何かと見間違えたのよ。しっかりしなさい。今すぐ助けるから」
仮面の下、女の声だった。
「薬を。もうこれ以上苦しまないように、幸せ薬を」
傍の者が首を横に振った。もう阿片はない。それで、女は無念そうに拳を握る。
「もっと私に金と知識があれば。多くの人を救うことも、苦しませずに殺すことも出来るのに」
言って、十字を切り、祈る。南からの風が僅かに吹いて、葦が揺れてさらさらと鳴る。悔しさを写したかのような虚しい音がした。
女は葦の声を聞きながら考えている。今日にでも丘の上の墓地を荒らして、硬貨を集めようか。いや、出てくる硬貨など、我楽多だ。流通しているドゥカート硬貨ではなく、古いソブリンやフローリンなどの塵だろう。山ほど集めたって水薬どころか、パンも十分に買えない。
鬱々と考えていると、静寂を破るように、ばっさばっさと大きな音が葦から鳴った。誰か来る。
「騒々しい……」
群生した葦の中から、大男が現れた。余程急いで来たのだろう、肩を上下に動かし、鳥の仮面の下でふうふうと息を荒らげている。
「組合長、大変だ!」
女は振り向く。
「施療院で寝かせてた子供たちが治ったんだっ!」
「治った? どういうこと? 薬もないのに?」
「作ったんだよっ!」
組合長と呼ばれた女は仮面の下で顔を顰めた。
「誰が」
「それがよく分からない。建端のある女でよ。鷹みたいな黄色い目をしている」
□□
マーシア公爵領北東に位置するハルフォードという街は、ライブル川の舟運で栄えており、船着場を中心に市街が形成されていた。商人が集う裕福な街であったが、7日ほど前から流行り病が発生して、瞬く間に日常は崩壊した。
街の至る所に犬や猫が腐って転がり、蝿が交う。道の脇を通ればぴょんぴょんと蚤が跳ね、鼠の死骸も多いから、鴉も群れて押し寄せていた。
ちらちらと黒い灰が降る中、鳥の仮面の一団が死の街を急ぎ行く。組合長は然も不機嫌そうに、早口で、捲し立てるように言った。
「誰なの、その女っていうのは。何を目的に、どこから来たわけ? まさか勝手に治療して金を強請ろうってんじゃないでしょうね」
組合長の弟でもある大男が答える。
「いやぁ、誰だか聞くのを忘れてしまった。テキパキと治療するから、ぼーっと見てしまって」
気が優しく力持ちであるが、あまり利口ではない。
「役立たずっ!」
組合長は施療院の扉を激しく蹴り開けた。
薄汚れた一室、理路整然と寝台が並べられ、子供達が寝ている。額に玉のような汗を浮かべているものの、健やかな寝顔に見えた。それで組合長は呆気に取られた。今日の朝まで熱にうなされていたはずなのに。一体どんな治療を施したのだろう。
部屋の奥、暖炉の前に筋骨隆々の男達が団子になって集まっている。みな、真剣な様子で何かを見つめているようである。
男たちの中心にいたのは1人の女だった。艶やかな濃紺の髪。黄金の瞳。胸にはこじんまりとした首飾りを下げていて、簡素な服装だった。
男達が注目しているのは、女が持つ鳥の仮面。そして彼女の足元には植物素材が広げられていて、何かを実践しているようである。
「確かに茉莉花や薄荷を詰めるだけでも効果はある。だけれど折角対策をしているのだから、効果的な嘴面にしたらどうだろう」
女は十字を切り、嘴部分に藁を詰め始めた。
「雑にしないで、層を作るように丁寧に詰めるのがコツだ」
その上から没薬や檸檬茅、丁子、薔薇、樟脳、茴香、茉莉花、薄荷を詰めて、最後に聖水を塗した。そして仕上がった仮面を、近くに立っていた男に装着させる。
「どうだ?」
「普段よりもスカッとするようだっ! 空気が澄み渡っていて、美味しい! 病魔なんかへっちゃらだぞっ!」
男達からおおと感嘆の声が上がり、女は続けて説明をした。
「本当だったら龍涎香や香檸檬があると良いのだが──」
「ちょっと待ちなさい」
話を遮り、男たちを押し除けて、組合長が分け入る。
「あなた、誰の許可があってそんなことをしてるの。余計なおせっかいをしないで!」
「それは申し訳ない。出過ぎた真似をしてしまった」
組合長は仮面を取った。不機嫌な顰め面が露わとなる。長い睫毛に、紫水晶のような瞳。緑みがかった髪は汗で濡れて照り、毛先が跳ねている。
「あなたどこから来たの? 冒険者? 薬師? 商人? ああそうか、商人ね。そうでなきゃ、こんなに沢山の薬草を持っているわけがないもの。申し訳ないけど間に合ってるわ。売りつけようとしたって無駄。あなたも生活が苦しいのだろうけど、理解してちょうだい」
「金なんていらないよ。ただ通りかかった時に目について、口を出してしまった。気分を害したなら謝る」
女があっさりと詫びを入れるので、組合長はばつが悪くなり黙るが、頭の中では忙しく疑り続けた。
(なんだこの女。無益でやってるみたいな言い方をして、そんなわけないじゃないか)
じっと顔を見る。表情の読みにくい澄ました顔。何を考えているのだろう。
(まさか、みんなが病で倒れているのを良いことに、街を漁って金品を盗む気か? だとしたら少し驚かせてやろうか)
組合長は咳払いをして、ぶっきらぼうに言う。
「私はこの街の冒険者組合『青い桟橋会』組合長、ジジ・ケンドール。良い? コイツら全員、手練れの冒険者よ。下手な動きをしない事ね」
青い桟橋会はハルフォードを中心に活動する冒険者組合であり、正式名称を『王国南部地域冒険者組合 マーシア第8支部』と言う。彼らは自主的に病人たちの治療を行っていた。
「あなた、名前は」
「リトル・キャロル」
聞いて、ジジは顎に手をやる。どこかで聞いたことがある名だった。
キャロルと名乗った女は寝台の子供に目をやって言う。
「この子達はまだ症状が出たばかりだったから、八角と肉荳蔲の水薬で対処した。少し様子を見ておいて欲しい」
飲めば八角が毒を和らげ、体に塗れば肉荳蔲が虫を遠ざける。病魔を運んでくる蚤の類を近づけないから、予防にもなるのだが、ジジには彼女の話が頭に入ってこない。その、リトル・キャロルという名前に引っかかっている。以前、どこかで見聞きしたような。
ふと、閃く。
(──思い出した)
そうだ。聖隷カタリナ学園を追放された女子が、リトル・キャロルという名前だった。
1節程前から冒険者組合で『忌子の捜索依頼』が出されていて、依頼主は正教軍。確か、それなりの懸賞金も掛けられていたはず。例えば、駆け落ちした令嬢を捜索する依頼並で、10噎の農場が買えるほどの値段だったような。
細かい依頼内容は思い出せないけれど『庶民を扇動している忌子』だとか『教義に反する』だとか妙な理由が並べられていたはず。詳しいことは分からないが、軍に突き出せば纏まった金が手に入る事は確かだ。
(この女を金にすれば、良い薬が買える)
ジジは心に決めた。──隙を見つけてキャロルを捕えよう。
キャロルが他の冒険者の自己紹介を聞いている内に、傍にいる弟に耳打ちする。
「今すぐ正教軍に文を出して」
「どうして?」
「この女は悪人よ。懸賞金が出ている」
「そうなのか? 俺にはそんな風には見えないが……」
「うるさいっ。良いから、あなたは言うことだけ聞いてればいいのっ。早く正教軍を呼びなさい!」
弟はただ自分の所感を言っただけなのに叱られてしまったから悄気てしまい、肩を落として施療院を後にした。
ジジは弟の背中を不機嫌な面で見送った後、思惑を悟られないよう顔を作ってキャロルに話しかける。
「リトル・キャロル、と言ったかしら。随分と薬学に詳しいようね。ついでに少し手伝って欲しいのだけれど」
「私にできることなら」
心の中でよし、と喜ぶ。この調子で油断させて、隙を突くのだ。
「一緒に行って欲しい場所があるの。貿易事務所があって、そこに手遅れの病人を転がしている。彼らはもう助からないから、せめて安らかに逝けるよう、幸せ薬を作ってもらいたくて……」
「やめようよ、幸せ薬なんて」
キャロルはケロリと言う。
「え?」
「まだ生きているんだろう? 何が何でも、なるべく助ける。その意気で事に当たらないと、自然と諦めが生じてしまって助かる命も助からない。阿片だの痲薬だのは、本当の本当に最終手段だ」
ジジは目をしばたたかせ、言う。
「でも、助からない人間に一生懸命になるより、助かる可能性のある人間を優先させた方が良いわ」
「その考えも理解できる。悲しいが、最適解だとも思う。……ただ私が思うのは、初めから選別するつもりでいるのではなく、苦しむ人たちの希望となるべく努力をしたいと言うことだ」
威風堂々とした言い振りに男達が感心する中、ジジだけはじろりとキャロルを睨め付けていた。病人に優先順位をつけるのは基本なのに。余所者が偉そうに綺麗事を並べて。──まあいい。余裕でいられるのも今のうちだ。上手く捕らえて、正教軍に引き渡してやる。
「そうと決まれば、行こうか。貿易事務所とやらに」
言って、キャロルは紐で髪を結く。曝け出された項に、男達は見惚れた。
「結くのは久しぶりだ。学園を出て以来かな」
嘴面を被り、外套の帽巾をその上から被せた。普段このような格好をしないからか、やや楽しそうである。
そしてジジは自然な風に暖炉脇に立て掛けてあった細剣を『野犬が腹を空かせているから武器がないと危ない』と瞞着して腰に下げた。虎視眈々とキャロルの隙を狙う。
□□
貿易事務所は街の高台に位置する。部屋に絨毯が敷かれ、病人が寝かせられている。寝台はない。
キャロルは肌を黒くした病人たちを恐れることなく直接触れ、丁寧に処置をしてゆく。治療は主に2通りで、水薬で病人の体を拭き上げること、それから不要な血を抜いて体液の均衡を取り戻すこと、つまり瀉血を行った。
「もうだめだ、俺は死ぬんだ」
半泣きしながら言う男に、キャロルは言った。
「何を弱気な事を言っている。諦めてしまうと、直ぐに体も崩れていくぞ」
「だって、これから冬が来るんだ。もっと苦しくなる。川も汚れちまったし、魚が取れねえから食う飯もねえ。死んだ方がマシだ」
「冬は良い。暖炉の前で食べる甘藍のポタージュは最高だ。香芹を塗して橄欖油と酢を回しかけるんだ。あれは冬にしかできない楽しみだぞ。諦めずに頑張れ」
「甘藍など買えるのだろうか」
「買えなければ辛子菜や菊芋を食うんだ」
「雑草じゃないか」
「個人的には鮒や蝲蛄より食える」
キャロルの横で、ジジは細剣に手を添えながら好機を待っていた。だが、なかなか襲い掛かれない。まるで隙がないのだ。なんと言えば良いか、背中にも顳顬にも胸にも旋毛にも目がついているようで、四方八方を睥睨しているようだった。
確かリトル・キャロルは聖女候補だったと記憶している。詳しいことは分からないが、候補10人の内の1人なのか、100人の内の1人なのか、……各領の乙女たちの中から選ばれただけのことはあるのかも知れない。
しかし、このまま躊躇していても仕方がない。思い切って襲い掛かろうか。今は瀉血盆を手にしているし、死角から一気に──。
「ジジ」
「──!」
突如呼ばれ、ジジは小さく身を跳ねた。
「床に置いてある瓶を取ってくれ。酒精が入っている」
日和って、大人しく従う。
(まるで襲おうとしたのを、悟られたようだった。気のせいなのか、たまたまなのか……)
男が口を開く。
「凄いじゃないか、ジジ。お前がこの薬師を雇ったんだろう……?」
「え?」
「立派な組合長になったな。お前らがいなかったら、とっくに街は滅んじまってる」
「……当然よ」
焦っていたので話を合わせてしまった。居た堪れず、目を逸らす。
「姉ちゃんもありがとう、丁寧に看病してくれて。少しくらいは生きる気力も湧いてきたよ……」
キャロルは仮面の下で仄かに笑む。
「礼を言うのは治ってからだな。無理をするなとは言わないぞ。何としてでも回復させるんだ」
「厳しいんだな……」
「その位の気概がないと治らない。死んでも生きろ」
□□
貿易事務所の屋根裏部屋には更に程度を悪くした病人が隔離されている。症状が進行して誰が見ても助からないように見えるが、それでもキャロルは諦めずに治療をしてゆく。
「少し辛いだろうが、全部飲み干すんだ」
喋る気力もない病人に、漏斗を使って水薬を飲ませる。その背後でジジは麦酒を器に移していた。無人となった酒屋から拝借して来たものだが、キャロル曰く良い栄養補給になるらしい。
「聞いていいかしら。あなたはどうしてこんなに尽くすの? まさか、この街の出身?」
ここまで献身的なのはどうもおかしい。理由がない。
「いや。私は東方の出身だ」
「なら、やっぱり金が目的なのね」
「金? 薬代を請求するつもりはない」
「じゃあ、何のつもり? 空き巣?」
キャロルは病人の喉に指を入れ、水薬で柔くなった痰を取ってやる。
「何のつもりもないさ。たまたま立ち寄った街で、病が流行っていた」
「それだけ?」
「それだけだよ。無視して立ち去って、その日に食う飯が美味いか?」
「本気で言っているの?」
「ああ」
そんなわけがない。そんな人間がいるわけない。自分も病に罹るかも知れないのに、何の見返りも求めないだなんて、有り得ない。
医学者や修道士、神官に薬師はみな街から逃げた。金があって、知識を持つ人間から真っ先に逃げた。この世界はいつだってそうだ。強者が逃げていき、弱者が取り残される。
つまり、人は所詮、我が身が大事。他人のことなどどうでも良い。そのはずなのに、どうして。……何か、絶対に理由があるはずだ。
「なあ、ジジ」
「何?」
「お前はどうして、街に残っているんだ?」
問われて、言葉が出なかった。ジジが答え倦ねているうちに、病人が譫言を言い始める。痰が取れて、喋れるようになったらしい。
「光る、巨大な鳥が……」
キャロルはひたと病人の目を見た。
「大きな鳥だ……。竜のような鳥だ……」
ジジは言う。
「何人かが似たような譫言を言うの。鳥が飛んできて世界を壊すだとか、光る翼がだとか」
「興味深いな。それはどの辺を飛んでいたんだろう」
「ど、どの辺を……?」
考えたことがなかった。高熱が出ると光に敏感になる時もあるから、空を覆う灰から漏れ出た陽光が、鳥が翼を広げたように見えたのだろうと勝手に結論づけていた。
ジジは今一度考えてみる事にした。
この病人の名前はジョージ。風車のジョージだ。街の西にある丘、製粉の為の風車を持つ百姓である。
そういえば川辺に寝かせた病人から、今日も同じ譫言を聞いたのだっけ。確かあの男は馬具のビルと言って、西の方に小さな工房を持っていたはず。他にも似たような譫言を口する者もいたが──。
「西ね。街の西に住んでいる人たちが、光る鳥を見たと言っているのかも」
「西には何がある?」
「丘と農地よ。少し行けば関所があるだけで、あとは……。──巨大な一位の木がある」
「一位?」
キャロルは北の街道から街に入ったから、その巨木の存在は知らなかった。
「『祟りの森』と呼ばれる、地元の人間が決して近寄らない場所があるの。その中にあるわ。遠くから見ても分かるくらい、突き抜けて大きい」
キャロルは納得したように頷き、治療を再開した。
「ありがとう。行ってみようかな。後で案内してくれるか?」
「『祟りの森』に? 良いけど、何故……」
□□
西陽が灰の空を赤黒く染め上げている。まるで乾いた血のような、深い色をしていた。
キャロルとジジは藪の中を行く。手鎌でバサバサと草木を薙ぎながら、遠くに見える黒々とした森へと進む。
「確かに、巨大な木だ」
街の中央からでは確認出来なかったが、西の方へ歩みを進めれば突兀たる巨木が嫌でも目についた。
「あれだけ大きいと樹齢は1000年か、2000年か。咒力も凄まじいだろう」
極端に樹齢の長い木は、強烈な魔力を宿す。
「しかも『祟りの森』なんて安直な名前をつけられた土地だ。未来永劫、人を近寄らせたくなかったんだと思う」
ジジは話の意図を汲みかねた。
「つまりは?」
「魔物や亡霊の類を封じているんだろうな」
それは封印の獣を封じる聖地であると言うこと。ジジは仮面の下で不安げな表情を浮かべた。
□□
2人は森へと足を踏み入れる。杉の木が鬱蒼と生い茂り、足元には羊歯が広がっていた。草に埋もれて点々と亜人の死骸が転がっていて、手足を黒くして死んでいる。
「魔物も病に侵されるのね……」
「珍しい。理外の力を感じる」
張り出した根が蜘蛛の巣のように張っていて足場が悪く、ジジは蹌踉とした。だが余程体幹が良いのだろうか、キャロルはさくさくと進んでゆく。ジジはなるべく彼女の背にピタリと着けるよう急いだ。こんな気味の悪い森で1人になったら、嫌だ。
「聞いていいかしら。光る鳥の何が気になったの?」
「私の大切な友達が、鳥の魔物に遭遇したらしい。偶然とは思えなくてね。意図を感じるんだ」
「意図って、どういうこと?」
「神だよ」
意味深ではあるが、よく分からない。キャロルという女は聖女候補だったらしいから、やはり信心深いのだろうか。
やがて2人は開けた場所に出て、巨大な壁──のような幹が立ちはだかった。一位の木である。
「これか。やはり強い魔力を孕んでいて、体がピリピリする」
ジジは魔法が使えず霊感もないから、その感覚がわからない。
キャロルは木肌に手をやりながら、ゆっくりと、用心深く幹を一周する。何かを感じたのだろうか、途中でぴたりと止まって、しゃがみ、根上がりの部分にある虚を覗き見た。
中には牡蠣の殻がびっしりと敷き詰めてあり、そこに図鑑ほどの大きさの石板が刺してあって、キャロルはそれを手にした。
「封だな」
「何が封じられて……」
「ご丁寧に石板に書いてある。こういうマメな仕事をする人間になりたいものだ」
横からジジが覗く限り、これは古代文字の類である。
「今から900年前の春の日、『服わぬ騎士』を封じたらしい」
「騎士と言うことは、人? 人を封じたの?」
「人ではないだろうな。騎士のように見える何かなのだろう。とにかく、封印の獣だ」
キャロルは石板の裏側を見た。激しく焼けて瑪瑙のような模様が浮き出ている。
「強力な魔力で封が壊されている」
ジジは仮面の下で目を見開いた。では、封印の獣が解き放たれていると言うことか。
「こんな話を知っているか、ジジ」
矯めつ眇めつ石板を眺めながら、キャロルは続ける。
「王国南部には『首無し騎士』の伝説があるんだ。夜更かしをする子供や深酒をする大人の前に現れて、死を宣告する。今では御伽話となっているが、元々『首無し騎士』は本当に存在して、死を呼ぶ存在だった可能性もあると思わないか?」
「じゃあ、その『服わぬ騎士』が病魔を呼び込んだ可能性もある……」
「無関係では無さそうだな。死を呼ぶ存在だから」
キャロルは思う。石板に掛けられた力は尋常ではない。およそ人の仕業とは思えなかった。あまり考えたくないが、例えば、光る鳥が封印の獣を蘇らせている、とか。
「魔物が解き放たれたなら早く対処しないと!」
ジジは封印の獣の恐ろしさを十分知っている。生まれ故郷は塔に眠っていた夢馬に滅ぼされたから。次々に人が眠りに落ち、寝ている内に脳が焼かれた。隣人も、両親も、友人も。しんと静まり返った街の、あの恐ろしさは未だに鮮明だ。肌が粟立ち、悪寒が背筋を伝う。
故郷を守るはずだった自警団や冒険者組合は『動ける内に助けを呼ぶ』と言って家族を伴い街を出たきり、帰ってこなかった。非情にも見捨てられた。
眠気に負けるものかと玉葱を噛んで目を覚まし、弟の頬を叩きながら何とか街から抜け出すことが出来たが、今思えば奇跡に近い。ただの偶然だ。
封印の獣は恐ろしい。依頼で流れてくる魔物の討伐など比較にならないほど危険な相手である。『青い桟橋会』だけで対処できるわけがない。ならば他所の街の冒険者組合に援助を要請しよう。いや、それだけでは不十分。軍や傭兵も呼ばなくては。
マーシア公爵領軍は呼べば来てくれるのだろうか。でも、どこの街でも病が流行っていると聞く。軍も対応に追われているだろう。賄賂でも積めば──、ダメだ、そんな金がどこにある!
肩で息をするジジを落ち着けるようにして、キャロルは優しい声色で言った。
「他に人もいないし、私たちだけで何とかしてみようか」
「馬鹿言わないでよ。そんなの出来るわけがない! 相手は封印の獣なのよ!?」
「大丈夫。病の街を支えてきたジジが味方なんだ。そう大した敵でもないさ」
「勝手なことばかり言わないで……!」
ジジは細剣を抜いた。
「あなたには危機感がない。封印の獣がどんな敵なのか、分かってない」
続ける。動揺と焦燥で手が震えている。
「──忌子め、正教軍に突き出してやる。お前には懸賞金が出ているんだ。その金で軍と傭兵を呼んで、封印の獣を再び封じる。もっと良い薬だって買える!」
キャロルは動じる事なく、じっとジジを見ていた。
「あなたが本心から街を救いたいと言うなら、大人しく軍に降りなさい……!」
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