回顧(前)
午後8時。星空の下、魔山の麓に到着する。特徴的な燻った臭いは濃厚で、目に沁みる。深くまばたきをすると、じわりと涙が滲み出た。
麓にあったのは、小さな要塞と鉄門だ。石造りの建物は半壊している。大きな鉄門の上には、暗がりでも分かるほど大きく鴉と瞳が描かれていた。正教会では「神は鳥の姿であなたを見ている」とされ、さらにそこに瞳が描かれているわけだから、強い監視を意味する印だった。大概は、死罪収容所を表す。
この収容所の裏には古い炭鉱があり、内部で魔山につながっていて、そこが邪竜ヨナスの巣となっている。
「ここは女子禁制だったわけだから……。つまり、足を踏み入れる女は君たちが初めてかな? きっと亡霊も喜ぶ」
辺境伯が口をへの字にして私とエリカを見たので、亡霊を喜ばせに門の中へ入る。そして半壊の砦に荷物を下ろし、今一度装備を整える。
■■
ここから先は邪竜の縄張り。炭鉱内は狭いはずなので、大勢で行ってもそれぞれがそれぞれを邪魔するだけになってしまう。という事で、爺さんたちは『男の園』で仲睦まじく野営だ。あとは私とエリカだけで進む。
「ありがとうございます。私、必ず邪竜を倒してきます」
「そう気負うな。なるようになろう」
辺境伯は優しくエリカの肩を拳で小突いた。それでエリカは目に溜まった少しの涙を、手の甲で拭う。
「美味いものでも作って、ここで帰りを待っているよ」
爺さんたちと別れ、収容所の中庭を直進する。芝も雑草も生えない、灰色の庭だ。途中、枯れかけの花櫚の木、それに生った実を鴉が食っているのを見た。
中庭を抜けると、壊れた鶴嘴や鍬などの道具が散乱している場所があって、そこからしばらく進むと、炭鉱を示す印の描かれた看板が現れた。その先、崖にくり抜かれたような大穴が空いていて、そこが入り口になる。
炭鉱の入り口上部に大きく『神のための労働』と彫られた鉄看板が掲げられている。ここは死を待つだけの犯罪者の奉仕活動に使われていたのだろう。
『神のための労働』には羊や牛などの家畜の死骸や、木乃伊となった子供の死骸が吊るされている。邪竜が縄張りを主張しているのだ。その下を潜り抜けると蝿が一斉に飛び立って、わあと叫ぶような羽音を立てた。
炭鉱内に足を踏み入れた瞬間、床が動く。いや、床にびっしりと居た何かが一斉に散っただけだ。その正体は、鼠だった。後に残った古い鼠の死骸を蹴り避けながら先に進むと、坑内の管理小屋が見えてきた。木造だから、滴る地下水を受けていて腐っている。
中を覗くと、冒険者らしき人が身を寄せ合って死んでいた。所々白骨化しているが、残った肉が腐って凄まじい死臭を放っている。これでは鼠も食わない。
彼らは奥地で邪竜と戦闘し、負けて、ここに逃げ込んだのかも知れない。道具や装備が散らばっているが、誰かに荒らされたような形跡は見られないから。
「相当なパニックだったんだろう。ここで怯えて死んだな」
「怯えて死んだ……」
「うん。竜は人間の心に深く入り込む」
胸の前で十字を切り、散らばった荷物を漁る。使えるものがあれば頂戴したいが、あまり期待は出来なさそうだ。
あるのは使えない食糧と酒、濁った水薬、錆びた硬貨。あとは羊皮紙で作られた依頼書。辛うじて読めた内容は邪竜ヨナスの討伐を示すもの。報酬は金銭と不動産。それから、青獅子章の授与。これは冒険者組合の勲章だ。
「残念ながら、この依頼書も期限切れだな」
読む限り、フォルダン家が雇った冒険者ではない。亡骸も新しすぎる。数年前にも何処かの誰かの手によって、邪竜を倒すという試みが行われていたのだろう。
名声を得たいだとか、人生を変えたいだとか、そういう野心を持った冒険者は、それに群がる。強力な魔物だった場合は、依頼をした者も英雄として担ぎ上げられる事も少なくない。この依頼書には、そういう夢を感じる。
儚い冒険者たちの身元認識票だけを回収してその場を後にする。
■■
進むたびに狭くなる洞窟内を行くと、少し開けた空間に出た。最奥にあるのは、錆びた鉄格子だ。持参してきた地図を提燈で照らす。
「恐らく、立坑の先にヤツはいる筈だ」
立杭とは、坑道内で縦に掘られた場所のことだ。この炭鉱では立坑に水圧式の昇降機がある。水門を開けると外部に水が流れ、下層に行けるようになっているらしい。その昇降機が目の前の錆びた鉄格子で、一度に何十人も下層に運ぶ事の出来る大きさだ。
昇降機を操作するには、誰か一人がここで水門を開けなくてはならない。そういう意味でも、ここから先はエリカ一人だ。
昇降機に載せる前に、ここで最後の休憩を取ることにした。持参していた山羊の血で魔法陣を描き、聖域を張る。これで魔物は寄り付かない。
銀のカップに、持って来ていたチョコレートと扁桃を練り込んだものを入れ、ミルクと砂糖を混ぜ、暖める。戦闘前の栄養補給だ。洞窟内なので火は起こさない。光の魔法の熱源だけ作る。
「……美味しい」
「良かった」
これは辺境伯に教わったレシピだ。この地方に伝わる、滋養強壮剤と言うべきか甘味と言うべきか。とにかく、特別な時にしか飲めない大変貴重な嗜好品で、山間の子供達の憧れだと言う。エリカも幼少の頃、聖誕祭の夜に飲むこれが好きだったそうだ。
懐かしい味に、少しでも心を落ち着けて欲しいと思って、持ってきたのだが、どうだろう。
「……本当に美味しいです」
エリカの目に、少しの涙が浮かんだ気がした。喜んでくれたようで、私も嬉しい。
■■
いつの間にか、坑内は異様なほどに静かになっていた。あんなにいたはずの鼠の気配も感じない。小動物の臆病な本能が、何かを察しているのだろうか。
エリカの手に目をやると、微かに震えている。当然だ。彼女は今から、生きるか死ぬかをやるのだ。それで、私は手を握ってやった。思った通り、少し冷えている。
「キャロルさんは不安な時って……、どうするんですか……?」
「そうだな……。昔の仲間たちを思い出すかな」
「学園の人たち、って事ですか?」
「いや、学園に入る前にいた孤児院のクソ共だよ」
古くから貧民街にあった修道院。それは、いつのころからか孤児院に変わっていたのだと聞いた。そこには、掃溜めに捨てられた身寄りのない子供たちが集められていた。私もその一人だ。親の顔も知らなければ、自分の本名だって分からない。
「居心地良かったんですね」
「良いわけあるか。悪さや喧嘩ばかりで動物園と変わりない。街中そうだぞ。地域で睨み合い、殺人も頻繁に起きた」
「キャロルさんも悪い事してたんですか?」
「ま、まあ……。ちょっとは……」
そうでもしないと生きられなかったから、まあ、破落戸の真似事のような事はしてきた。あまり言いたくはないのだけれど。
「私が聖女候補に選ばれて、学園に行く朝。孤児院のクソったれのガキ共が祝ってくれたんだ。オレたちの分まで頑張ってくれって……。アイツらの顔を思い出すと、不安なんかに負けられるか、ってなる」
ガキ共だけじゃない。貧民街の住民のほとんどが私を笑顔で送り出してくれた。もう二度とこんな所に戻ってくるんじゃないぞ、と。
「それが自分を偽ってでも学園にいようとした理由でもあるんですね」
「まあそうなるかな……。うーん……、小っ恥ずかしいが……、なんというか、その……、早く、理想の聖女になりたくて……」
頭のてっぺんから茸が出て来たので、急いで押し戻す。
「いつか、行ってみたいです。キャロルさんの故郷に」
「やめとけ。財布をスられるだけだ」
それに、私の故郷はもう存在しない。瘴気に飲まれたのだ。
■■
エリカは全ての装備を整えた。あとはもう昇降機の中に入るだけだ。
「そうだ。これを渡すよ」
私は小さな青い袋を渡す。
「綺麗……。これはなんですか……?」
「お守りだ。中に兎の足が入ってる」
兎は生命力の象徴。きっと、エリカに幸運を齎してくれる。
「あー……。あんまり期待しないでくれ。本当にただのお守りだ。ピンチになると何かが起きるとかはない……」
エリカは首を横に振る。
「嬉しいです。一生大切にします」
そう言ってお守りを胸の前でぎゅっと握って、笑った。
「必ず倒します、邪竜を」
エリカが巨大な昇降機の中に入ったのを確認して、水門を開けるための回転櫓を回す。遠くでゴオという音がして、間も無くして地響きが起こった。鉄格子の中の昇降機がゆっくりと降りていく。
「頑張れよー……」
その様子を、彼女の姿が見えなくなるまで見守っていた。
私は、彼女が邪竜を倒したとしても、もう二度とエリカには会わないと決めている。自分で決めたのにも関わらず、それが酷く寂しくて、切なかった。なんだか、自分が馬鹿みたいだった。
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