旅立ち
夜が明けて白露小望月、午前8時。嵐は過ぎ去り好晴。
クリストフ五世は白い山となった大祭壇の頂に腰掛け、朱欒を剥き、黙々と食べている。足を置くのは彫刻の残骸、神の顔。潰滅した聖堂には誰もいない。
入口から漏れる陽光が遮られて、クリストフ五世は顔を上げた。天井画の残骸が散らばる身廊を、杖をついて歩いて来る者がいる。ジャック・ターナーだった。
「念無う早かった。行ったか、キャロルは」
「ええ。何も持たずに外套だけ羽織って宮殿を出ました」
クリストフ五世は朱欒の皮を後ろに放って、喫煙具に火をつける。ジャックは瓦礫の上の養父をじっと見上げた。
「しかし何故、エリカは下山を?」
「焦りだろうよ。このままでは自身の価値を見失うのではないかという、青い焦りよ。何処ぞから魔物が湧いて出たと噂を聞いて、とことこ下山したわ。……だが、その大発生は第三聖女隊が解決した」
「第三聖女隊? 空聖の部隊が出て来たのですか」
「ワシが文を出しておいた。何やら東の方をぷらぷらしとるらしいのを聞いてな。場所も近ければ、エリカを助太刀するよう要請した」
「成程。お優しいのですね」
言われて、クリストフ五世は露骨に嫌な顔をする。
「阿呆。輝聖の従者をみすみす殺したとなれば、大白亜の面目いずくにあらん!」
「魔物を倒したと言うことは、エリカは大白亜に戻ってくるのですか。キャロルと入れ違いになる……、というわけでも無さそうですね」
「──不可解なのがそこよ」
クリストフ五世は2つ目の朱欒を剥き始める。これらは庭園にぼろぼろと実をつけていたもので、同じく実をつけていた木瓜と迷ったが、そちらは砂糖を塗さねば食べ難い。砂糖を取りに行くのも面倒なので、朱欒を食べるのだ。
「第三聖女隊曰く、2度に亘って戦闘をしておる」
「2度?」
筒状に丸めた羊皮紙をジャックに投げた。第三聖女隊から送られて来た書簡であった。
巻かれている紐を解き、ジャックはそれに目を通す。内容としては、大獣の群れとの戦闘が行われたことが書かれており、60体近く出現したが、空聖が鎌鼬を吹かせて一網打尽とし、原は満目血の海と化したとの事。その後、エリカ率いる銀鴉の騎士団と合流し、会を催すと書かれている。
そしてクリストフ五世はもう1つの書簡を投げた。こちらにはまず『鳥型の魔物出る』とあり、多少苦戦を強いられたようだが、空聖や他騎士の活躍により倒したようである。鳥型の魔物については『大きさは竜ほどである』と書かれている以外に情報はない。
「大獣も鳥も、双方倒したのであれば不可解な事は無いように思えますが」
「──だがその後、第三聖女隊は敗走。エリカ率いる銀鴉の騎士団も壊滅」
ジャックは眉を顰める。
「先日、早馬が来たわ。第三聖女隊は王都方面に北上。死傷者も出た由」
聖女隊に死傷者が出るのは、5人が聖女候補だった時を含めて初めての事例だった。
「何が原因で……?」
「分からぬ。その伝令もそれだけ伝えて事切れた」
クリストフ五世は続ける。
「翌日になって銀鴉の騎士団からも騎士が1人、山を駆け上って来た。騎士7人の内、5人が重症、2人が瀕死」
「大事ではありませぬか」
「騎士が言うに、無二無三で命辛辛逃げ出したが、逃げ仰たのも奇跡に近いらしい」
「何から逃げ出したのでございますか」
「それが、鳥の魔物よ」
解せない、と言うようにジャックは小首を傾げた。
「その鳥の魔物は第三聖女隊が倒したはずでは?」
「然り。だが確かに、鳥の魔物の奇襲を受けたと言うのだ。流石に嘘は吐くまいし、吐く理由もない」
疑問に思いながらも、ジャックは問う。
「それで、エリカは」
「今はニューカッスルの施療院で療養中との由。既に大白亜から隻眼のフレデリックを向かわせておる」
ニューカッスルと言えば、リューデン公爵領の首都。公爵領は王都派である。少しばかり面倒な事になりそうだと、ジャックはため息をついた。
そして、祭服から煙草を取り出す。キャロルから餞別にと貰ったもので、丁子の香りがしている。
「リューデンの連中は気前良く預かってくれとるらしいが、まあ、場合によっては王都派に人質として使われるやも知れぬ」
「そうなれば、厄介至極」
「第三聖女隊も道程を逐一『魚肚白社』に通達しておるだろうしな。空聖には生真面目な騎士が1人いる」
リトル・キャロルを除く4人の聖女は、大白亜とも通じてはいるものの所属は正教軍であり、組織的にはヴィルヘルム・マーシャルの麾下である。
「やれやれ、骨の折るる事かな。こうなれば、鳥の魔物を含めてキャロルにどうにかして貰うしかない」
「……しかし、良かったのですか。輝聖を行かせてしまって」
「んな事ぁ言われても仕方あるまい。どうしろと言うんじゃ。家出だろう、あれは」
「はあ、まあ。そうですね……」
言って、ジャックは煙を吐き出す。鼻に抜けるのは、力強く刺激的な香り。随分と強烈である。およそ女子の吸う煙草ではないので、軽く苦笑してしまった。
「あーあー、折角の天変地異だと言うのに、勿体無いのう。その対処に追われて王都から兵が減った所を狙って、輝聖を旗印にバシンと1発攻め込もうと目論んでおったが、これでは為せぬではないか」
ジャックはけほけほと咽せた。然して信仰心の厚い方ではないこの男が『原典』だの『輝聖は玉座に座せ』だのしつこいから、何か奸計があるのではと思ってはいたが、えらく物騒な事を考えていたようだ。
「致し方がない。キャロルは基本的にワシの逆のことしかせん。期待したワシが悪かった」
「王都を攻略するなど出来るのでしょうか」
クリストフ五世は悪どい笑みを浮かべて、ジャックを見下ろす。
「王家の調略を急ぐべし。場合によっては王家に御謀反をお勧めすること。同時、人民にも一揆を唆し、攻め込む時には禁軍の御旗を掲げてヴィルヘルムを朝敵とする。最後には、あの老体に楔を打ち込んで引き摺り回してやるわい」
「王家は王家の天下を欲するものと心得まするが」
「ハッ。そう主張し始めたなら、甚だ不都合。同じく朝敵とし、一族郎党皆殺しじゃ。──瘴気の世界では輝聖こそが天下。揺るがぬ事実である」
ジャックは呆れたように眉尻を下げて、煙を吐き出した。この老耄は、若き日に正教軍でヴィルヘルムと対を為した古狸。曲者ぶりは健在である。
「さて、お前も輝聖の栄耀のために働いて貰おうぞ」
「何なりと」
「聖女4人に用意された聖具は既に発見されているが、未だ輝聖の為に用意された聖具は見つかっていない。お前は神名にかけてそれを見つけるべし」
ジャックはクリストフ五世をじろりと見返し、僅か口の端を上げた。そして嵐の夜に見た、多指の少女の恐ろしさに胸中恍惚しながら答える。
「傲慢無礼なる偽神を梟首とする事に繋がるのであれば、血反吐を吐き散らしてでも探し出す所存にごさいます」
□□
キャロルは大山門までの坂を歩いて下る。
身に纏うのは、学園を追放されてから手に入れた旅の服。およそ聖女らしからぬ質素な格好ではあるが、キャロルは法衣よりも自分らしい気がしている。周囲には兵や下男下女の姿はない。巫女のアンが1人だけ、キャロルの隣を歩く。
「思えば、私はアンの事を何も知らないな。故郷は何処だ?」
「ボーフォート子爵領です」
「ボーフォートか! 山の近い良い土地だ。風が吹けば涼と森の匂いを運んでくる。スレイローの街には長らく居たよ」
キャロルは気分良さそうに笑った。心からの笑顔だった。アンはキャロルが晴れやかな顔をするのを見た事が無かったので、少し面食らってしまった。
「ご両親は元気か?」
「私は売られてしまったので、連絡する手段を持ちません」
キャロルは申し訳なさげに言う。
「ごめん、迂闊だった」
少しの沈黙。アンは逡巡の末に口を開く。
「でも、お母様は好きです。お母様の作る蕎麦粥を、もう一度食べたいと思います」
それで、キャロルはまた笑んだ。
「そうか。なら手紙を書くと良い。心を込めて丁寧に書くんだ。想いが伝わって、早く願いが叶うかも知れない」
2人は巨大な門扉の前に着いた。
「アン。少し、頼み事をしても良いかな?」
「はい」
「私が帰って来るまで、クリストフ五世の様子を伺ってくれ。あれは百戦錬磨の古狸。腹の中でどんな悪巧みをしているか、分かったものではない。大人しく軍部に捕えられたのも、膿を出し切りたいという意図があったのと思う。……恐らくアレは王都派の殲滅を狙っている」
アンはきょとんとして、目を瞬かせた。
「良いことかと存じますが。勝手気儘に神を名乗るヴィルヘルムは、屠るべき溢者と心得ます」
キャロルは困ったように笑みつつ、
「何事もやり方ってものがあるよ。もし何か大袈裟なことを為出かすようなら、鳩を飛ばして欲しい。磁鉄鉱は持っていくから」
「承知しました」
「全部、私が良い方向にやってみるつもりだ。出来る限り」
門番がカンカンと鐘を鳴らす。ゆっくりと門が開いてゆく。涼やかな秋風が坂を吹き抜ける。2人の髪がふわりと踊る。
「じゃあ行くよ。あの時、拍手をしてくれて有り難う。心強かった」
「いえ。私は、そんな……」
アンは口籠もる。後で巫女長には叱られるだろうし、良い事をしたという気はしていない。どちらかと言うと『やってしまった』という後悔の方が強い。
「アン」
優しく呼ばれて、顔を上げる。そこで初めて輝聖の顔を、まじまじと正面から見た。
「私が太平を成した時。──その時に、もし故郷に戻ることがあったら、輝聖の背中を支えた1人であることを母親に教えてやって欲しい。蕎麦粥を食べながら」
アンは呆然としてしまった。その暖かい言葉に、力強くも美しい猛禽の瞳に、確かな神威を見た気がしたから。やはり輝聖は神が作り出した救いの聖女なのだと、漠然と思った。──この人こそ、瘴気の世界の王なのだ。
暫し硬直した後、にこりと笑んでから、静々と頭を下げ、アンは言う。
「輝聖の成す太平が、弥栄であることを御願い奉ります」
キャロルにとって、大白亜に来てから初めて見た、巫女の笑顔だった。
「うん。体には気をつけて」
白露小望月。王都王城にて伝統的な教皇宣誓が行われた。是を以って、教皇代理ヴィルヘルム・マーシャルは正式に教皇に就任。名を『ウィレム9世』と改めた。宣誓の場には海聖の新たなる影武者も現れ、海聖の死は第一王子エリックの欺瞞であったと証明した。
そして正教会は原典を公の下に晒した。勿論晒したのは紙葦で出来た複写であるが、内容は書き換えられていた。第41篇は『蝕起きて、5人の聖女現る時、世界の太平成る』とあったが『蝕起きて、教皇の名の下に4人の聖女が集い、世界の太平成る』と修正され、光の聖女は存在しない事となった。
また、第41篇の頁には、教皇が神から冠を受ける図が描かれていた。正教会はこれを『聖女顕現後の教皇は神の化身である』と定める。さらに4人の聖女を選んだのはヴィルヘルムであり、聖隷カタリナ学園を纏めるのも軍部、即ちヴィルヘルムであるから、『神が聖女を生む』という伝承とも合致。これによりウィレム9世は神と同格になり『神殺し』は達成された。
一方で輝聖リトル・キャロルは下山し、聖都アルジャンナを出立。目指すはリューデン公爵領ニューカッスル。巡礼を行いながら、倒れたエリカの下まで街道を行く。
風は北北西、風速5海里。旻天澄み渡る。南の空際、仄かに薄鈍色に烟るのは、火山の乾いた霧か。
広大な大豆の農地、至る所に焚火あり。案山子には赤い蝋、赤は魔除けの色。風が吹いて、肉の焼ける臭い。何処か遠くで、死んだ家畜を焼却している。
街道の水溜りは瑞光を放つ。雨上がり、光の道。匂い立つ土の香。外気温、百分度16度。今日は暖かい。
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