聖
エリカ・フォルダンは大白亜を下山した。山を下るには巨大な銀の門、通称『大山門』を潜らなくてはならない。簒奪による騒乱後は常に厳戒であるから、簡単には門扉は開かず、つまり通過には然るべき人物の許しが必要なのだ。
──エリカの下山をクリストフ五世が知らないわけがない。
相伴衆として毎回指定しながらも、エリカが大白亜にいない事は知らされてなんかいないし、南東に向かったこともキャロルにとって寝耳に水。この情報は隠されていたのだ!
キャロルは横殴りの雨の中、法衣の裾を泥だらけにしながらカレーディア大聖堂に向かった。巫女のアン曰く、そこにクリストフ五世がいるらしい。
キャロルが通った後は薇や蕨、芥子の花、区々な茸が生える。激しい風で髪が激しく踊り狂う。暗闇の中、猛禽の黄色い瞳がぎらりと光る。溢れる魔力は電離を起こして体に纏わりついている。怒髪衝天とはまさにこのこと、腑は煮え繰り返って口と鼻と耳から吹き溢れそうだった。
「お、落ち着きくださりませ!」
異様な様子に焦って、兵がキャロルの腕を掴んだ。しかし肘を外され投げられる。次いで3人の兵が止めようとしたが、同じようにくるりと投げられて、庭園の芝の上にばしゃりと転がった。誰もキャロルを止めることなど出来ない。
キャロルは大聖堂への階段を上り、巨大な扉を勢い良く蹴り破る。美しい浮彫の扉は半壊し、描かれた聖人達の物語は虚しく仰向けに寝そべった。
大祭壇に向かって平伏していたクリストフ五世が、立ち上がってキャロルと向き合う。
「もう少しのそっと入らんか、キャロル」
「エリカをどこにやった」
クリストフ五世は鼻でため息を吐いて、無精髭をじょりりと撫でた。
「やれやれ、気づいたな? さては神になんぞ吹き込まれよったか、阿呆め」
聖堂に神官や巫女、兵たちが、バタバタと集まってきた。みなキャロルを宥めようとしたが、息苦しいまでの圧と、魔力が生み出す電離と風を恐れて近寄れない。
クリストフ五世にも魔力が満ち満ちて、それは陽炎のように周囲を歪ませていた。
誰もが思った。──マズい。2人が衝突する。
「エリカをどこにやったと聞いている」
「自分でとことこと下山したわ」
「嘘を吐くな。エリカは勝手に出ていくような事はしない。私が大白亜に居るんだ。私の側に居たいと思っているはずだッ!」
クリストフ五世は小馬鹿にするように笑む。
「おーっ! おーおーおー! 何も解っとらんのう。しばらく一緒に過ごしておきながら、相棒が何を考えているかも察せぬかっ。学園で友の1人もおらんかったのも頷けるわい」
猛禽の瞳が光を携えて燃える。怒りの段階が1つ上がり、キャロルの足元には花々が乱れ咲く。それを見て神官や巫女たちは、あわあわと口を押さえた。
「喋るな売僧。お前をタコ殴りにして、エリカの居場所を吐かせてやる」
「図星を突かれて脅すと来たか。怖いのぉ」
「尻の痛い玉座はもううんざりだ。私は下山してエリカの下に行く。そして、私がこの災厄を治める」
「どうやって天変地異を治める! 歌って踊うて山の怒りを鎮めるか! 遮二無二祈って疫病を鎮めるか! ──輝聖が玉座を離れることは罷り成らんッ!」
ずぶ濡れのジャック・ターナーが聖堂に入ってくる。神の姿を見て砕けた腰を支えながら、よろよろ駆けて来た。キャロルが巫女にクリストフ五世の居場所を聞き、並々ならぬ様子で書斎を出ていったから、まさか、と思ったが。嫌な予感が当たった。ああ、どうしよう。──聖堂にある全てが、歴史的に価値ある聖具! この場所で2人が衝突すれば、それらがどうなるか!
「さっきから口だけ達者だな、爺さん。美味しい焼菓子を作って茶でも淹れようか。思う存分、語ると良い」
神官や巫女たちは『げっ』と顔を引き攣らせた。ヒヤリとする煽り文句。
「黙ってりゃあ付け上がりやがって。お前、ワシに勝てると思うておるな?」
キャロルは鼻で笑って法衣を脱いだ。そして袖で自らの両膝を縛って固定する。即ち『お前などはこの場から動かず倒せる』という挑発。
周囲の者達は全員『げげっ』とさらに顔を引き攣らせた。煽り過ぎである!
「婆娑羅じゃのう。さて、神は何故、お前のような下品な女を輝聖としたのか……」
クリストフ五世も薄い笑みを浮かべてはいるものの、額には青筋が張っていて、明らかな怒りの色が滲み出ていた。
懐から水筒を取り出し、一口酒を飲む。そして舌打ちをして、袖を捲り上げ、バキバキと首を鳴らす。キャロルも首をパキリと鳴らして、睨みつける。
2人同時に十字を切る。魔力がさらに増加。聖堂内に旋風が発生する。
身廊に並べられた銀の燭台の幾つかが倒れ、ジャックは猫のように全身の毛を逆立てた。1つ1つが聖堂の建設当初から存在している宝。今の技術では再現不可能な数々の業が散りばめられている。そんな燭台が、がしゃんと倒れた!
神官も巫女も、老いも若いも全ての者が、まだ倒れていない燭台や聖像に走り寄って、体で押さえた。もうこれ以上、装飾物を傷つけてはいけない。必死だった。
震える瞳でジャックが叫ぶ。
「ここには貴重な聖具が山ほどある! 喧嘩なら外で──」
刹那、クリストフ五世は魔法で赤い光弾を放った。1発や2発ではない。まるで銃兵の一斉射撃のように、雨霰に放った。最早それは、動けないキャロルを殺すつもりの攻撃である。
しかしキャロルは右手を振るってそれらを弾いた。光弾の殆どは上に弾かれ天井画に直撃。それは煙を噴きながらガラガラと崩れ落ちる。
神官たちはあんぐりと口を開けた。言葉が出ない。600年前に描かれた『神リュカの礼賛』。稀代の名画家、聖デュバル渾身の力作が一瞬で崩壊した。
「無傷か。化け物め」
クリストフ五世は勢いよく床を蹴って、キャロルに迫る。とても老人とは思えない動き。豹か獅子のようであった。
そして拳と蹴りを繰り出す。怒涛の攻撃。正拳突き、下突き、鈎突き、蹴り込み、回し蹴り、三日月蹴り。若年の頃、霊峰『聖エルダー』で鍛えた武術の数々。熊や魔物を素手で屠ってきたそれを、18歳の少女相手に全力でぶつける。
だがキャロルは1歩も動くことなく、柔らかい手捌きでパシパシと流して行く。そして袖に仕込んでいた隠し短刀でクリストフ五世の頬を切り裂いた。ぴっと血が飛ぶ。
「卑怯者がッ!」
クリストフ五世はお返しにと言わんばかりに、腰に隠していた芥砲を素早く取り出す。芥砲はいわゆる握り鉄砲。掌に収まるほどに小さな筒で、竿を握るだけで毒弾を発射することが可能な暗器。
額に向けてパンと弾が放たれたが、キャロルは首を傾けて避けた。そして弾は伸びやかに空を切り、聖堂入口にあった聖母カレーディア像、通称『慈愛の像』の眉間に命中した。穴を中心に、ぴしり、とひび割れる。神官たちは口を開いたまま、呆然と像を見た。
次いでクリストフ五世はキャロルの顔面目掛け、全身全霊で拳を叩きつける。同時、キャロルも拳を繰り出し、拳と拳が正面からぶつかった。衝撃波が広がる。それで天井から吊るされていた見事な燈が次々に落ちた。
「生意気じゃ糞アマがッ! このワシに感謝せえッ!」
「何が」
2人の拳、メリメリと音が鳴る。
「忌子とされたお前がなあ! 正教軍に捕縛されそうになっていたのをなあ! 水面下で助けていたのは、このワシよッ! たかだか追放で済んだのはワシのお陰よッ! ワシが教皇として君臨していたから貴様は助かったのだッ! ワシがお前を守ってやっていたのだ‼︎ ワシがッ‼︎」
「そうなんだな、ありがとう」
しかし魔力を孕んだキャロルの拳の方が、固く、鋭い。クリストフ五世の中指を折り、人差し指を折り、拳を破壊して行く。
「ワシがおらねば、今頃お前は晒し首だッ!」
「体が軽くなって良さそうだ」
「軽口をやめんかッ!」
堪まらずクリストフ五世は拳を引っ込めて、左手でキャロルの腕を掴む。そしてへし折ろうと力を入れる。
「じゃあ私からも言わせて貰う。大白亜に入った途端、急に保護者ぶって気持ち悪いんだよッ! 私の行動を縛るなッ!」
「何ぃ!?」
「第五聖女隊を解散させて以降、一度も顔も見せなかった癖にッ!」
キャロルは鋭く息を吐いて、大きく腕を翻す。するとクリストフ五世の体がぽんと浮いた。独楽のように激しく回転して、そのまま会衆席に突っ込む。
巨体が長椅子を薙いで、木屑が舞う。神官たちは真っ白な顔をして、口を開けながらその様子を見ていた。年月を重ねて飴色に輝く樫の長椅子、見るも無惨な有様。
クリストフ五世は体を起こしてキャロルを睨みつけた。
「ど阿呆ッ! ディアボロなんぞに行くからじゃあッ!」
2年前。キャロルは第五聖女隊を率いて、第二王子アンドルーの外遊先であるファーレンロイズ侯爵領ベクレルに向かった。近辺で突如大狼の群れが現れて、被害は甚大だった。
その討伐任務の最中、貧民街ディアボロに竜が出現したとの報が第五聖女隊に入り、キャロルは任務を放棄。隊を抜け出し、故郷へと向かっている。
「お前が問題行動を起こす度にワシの立場は揺らぐッ! なんってワシは可哀想なんじゃあッ! ヴィルヘルムが虎視眈々と玉座を狙うておる状況で、大白亜を離れてノコノコと学園まで行けるか!」
「まるで私のせいで正教会が乗っ取られたみたいな言い方じゃないか!」
「お前のせいだろうがッ! ワシが選んだお前じゃ! お前の評価はワシの評価じゃろがいッ!」
「実力不足を人のせいにするな!」
「何だとこのガキゃあッ!」
クリストフ五世は掌に火弾を生み出し、全力で投げた。キャロルは防護壁を張って防御。火弾は爆発し、黒煙が上がる。
爆風と衝撃でさらに天井ががらがらと崩れ落ちる。爆発は美しい石の床をも砕いた。欠片が辺りに散る。神官たちはもう何の反応も示さない。思考停止である。
クリストフ五世は黒煙に紛れて、死角から仕掛ける。後頭部を狙って手刀を薙ぐ。が、キャロルはそれを見破り往なした。さらにクリストフ五世は追撃、嵐のように拳を浴びせる。だがキャロルはそれらをも往なし続ける。
「分かってるだろう。お前は私には勝てない!」
「じゃかあしい! 大人しく玉座に座せい、キャロルッ‼︎」
──その時、背後からキャロルに寄る影があった。
「もう! もう、やめなさいっ!」
長老の1人、ジェフリー・ブライである。2人があまりに聖堂を破壊するので、老体に鞭打ち駆けてきた。弱々しい声を張り上げながら、必死の思いでキャロルの背に抱きつく。
「──!」
キャロルは咄嗟に振り払う。ジェフリーは尻餅を搗いてしまった。その瞬間、クリストフ五世は大声を上げる。
「あ! あ〜〜っ‼︎ お前、老人を突き飛ばしたな! いけないんだぞっ! 年寄りには優しくしなくちゃっ!」
言って、ジェフリーを指差す。
「見ろ、痛がってるッ‼︎」
ジェフリーは尻をさすって蹲る。心優しいキャロルは、それを見て躊躇した。
「──隙ありッ‼︎」
クリストフ五世はキャロルの首根っこを掴み、勢いをつけて投げた。放られたキャロルは大祭壇に衝突。馬裂きの彫刻もガラガラと崩れ、金銀の装飾も、精巧な硝子細工も、諸共砕けてゆく。この世で最も荘厳だと銘打たれた大祭壇は、いとも空しく崩壊した。
「よっしゃああああああああああああああッ!!」
クリストフ五世は一矢報いた事に歓喜し、全力で勝ち見栄を切った。
砂埃で烟る堂内、神官も巫女も、ジェフリーも、ジャックも、全員が大口を開けて、瓦礫の山になった大祭壇を見ている。誰1人として喋る者はいない。
ある程度砂埃が晴れて、崩れた大祭壇の上でキャロルが仰向けに寝ているのが露わとなった。大理石の粉に塗れて、真っ白となっている。
「何じゃ、戦意喪失か? ワシの勝ちだな。輝聖敗れたり」
「馬鹿言え。冷静になっただけだ。こんなどつき合いを続けてても何の意味もない」
キャロルは続ける。
「だから、もういい。もういいから、状況を。山の下の状況を、包み隠さず教えてくれ」
そして破れた法衣から、隠していた煙草を取り出し、咥えて火をつけた。
「私は嫌なんだ。何も出来ない自分に我慢できない。象徴になっているだけで、何の役目も果たせていない。心の中で『輝聖は玉座に座るべきなんだ』と自分を無理やり納得させて来た。けど、これ以上はごめんだ」
ふう、と塊のような煙を吐き出す。
「私が輝聖として立つ限りは、誰にも苦しい思いをさせたくない」
キャロルの見つめる先、崩れた天井画。小さな破片が、ぱらぱらと落ちてくる。
「瘴気に囲まれたこの世界で、1人1人が懸命に生きているんだ。大切な友達がいて、親がいて、愛している人がいて、子供がいて……。天変地異が起きた今、そうした人たちが大勢死ぬかも知れない。残される人が大勢悲しむかも知れない。嫌だろう、そんなのは、誰だって。消えていく方も、残される方も嫌だよ」
聖堂にいる誰もがキャロルの言葉を聞いていた。
「私は光の聖女なんだ。必ず、何が何でも、世界を救わなきゃいけない。失敗は絶対に許されないし、勝負は1度きりだ。原典に書いてあるからって、必ずできるとは限らないと思ってるよ。でも、私はそれをやるしかないし、やりたいとも思っている」
キャロルは体を起こして、クリストフ五世をじろりと見た。
「できる全力をしたい。後悔はしたくない。だから、手伝え」
そして、太く、強く言う。
「クリストフ五世、いや、ジェイデン・ターナー。──原典の輝聖として命じる。輝聖の聖務を手伝え」
「な、何ぃ?」
「お前は大白亜派等の組織を統括し、世界を太平に導け。私は下山し、諸所の問題に対処しながら、局地的に太平を実現する」
クリストフ五世は目をまん丸にした。
「なっ! なんったる勝手な物言い……!」
「私は光の聖女だ。私を信じろ。必ず救世を成す」
キャロルは白い体をそのままに、立ち上がる。体についた石の粉が、堂内の僅かな光をキラキラと跳ね返していた。見る者には、彼女の体が光を放っているようにも感じた。
「思うに、輝聖は玉座に座すことが役割ではない。全ての人間の上に燦々と輝くことこそが役割なんじゃないか」
「だからこそ、この山の頂に座すのだろうが」
「みんなが下を向いてたら輝きを感じてもらえないよ。前を向いて、そして、天を見上げてもらわなくちゃ。その為にはね、下を向いて苦しさに喘いでいる人たちに、手を差し伸べてやらなくちゃならないと思うんだ」
「お前がそれをやるというのか」
「うん。やる。今、人類に必要なのは触れられる希望だと思う」
少しの沈黙があって、ぱらぱらと拍手が起きた。巫女や神官の多数が、小さく手を叩いていた。彼ら彼女らの中には、光の聖女を大白亜に縛り付けることに疑問を感じていた者も存在した。
アンもまた拍手をしていた。隣で巫女長が驚いているが、真っ直ぐな目をして手を叩いている。彼女には輝聖の選択の良し悪しは良くわからない。強い霊感があると言うだけで親に売られてしまったから、教養がない。でも、キャロルの近くに身を置くことで、彼女の苦悩を知っていたから、その選択を応援したかった。
「ええい、拍手などやめんか……! 下らん理想だ!」
クリストフ五世は振り返って言うが、手を叩く者達はやめる気配がない。
この状況には、ジャックもジェフリーも、目をぱちくりとさせるばかりだった。2人ともまさか下山することが最良の選択とは思っていなかったので、支持する者が存外多いことに驚いていた。それと同時に、確かに今必要なのは『触れられる希望』なのかも知れないと、新たな気づきを得ていた。
キャロルは煙草を咥え直し、首を鳴らす。バキボキと中々に激しい音が鳴った。
「これは輝聖の選択だ。お前に拒否する権限があるとは思えないが?」
「言うたな、キャロル……」
「大人しく輝聖の聖務を手伝え。そして私は、エリカに会いにいく」
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