極地(後)
その文は空聖ローズマリー・ヴァン=ローゼスの名で書かれていた。しかし右筆、即ち代筆特有の流麗な文字だったので、空聖個人の意思による文と言うよりは、第三聖女隊として書かれたのだろう。以下、内容である。
一つ、貴殿らが、魔物による災の有無を確かめる為、南方に向かったとの文を大白亜より受け取った事。
一つ、第三聖女隊はそれに呼応する事。
一つ、南部地域にて大獣が群れているとの巷談を耳にしている事。
一つ、第三聖女隊はキャザロ子爵領『モヴィンの黒い廟』に巡礼の後、南下の予定である事。まずはリューデンの地に入り、異変が見られない場合はハミルトンの地に入る事。謹言。
以上である。丁寧に血判まで押されてあった。信用せよとの表れ。
それでもエリカは4度もこの文を読み直した。何者かによって作られた偽物でないかと疑ったが、封蝋は確かに第三聖女隊のものだし、鳩も大白亜が管理しているもので間違いない。その証拠に、尾が大青によって青く染められている。
フリッツが問う。
「返答いかがなさる。我々の目的は真偽を確かめるのみ。だがこの文を読むに、第三聖女隊は討伐を考えているのではないか」
確かに、そう取れない事もない。エリカは黙りこくる。
──私は聖女が嫌いだ。
故郷での海聖マリアベルの所業は許せないし、陸聖メリッサの事も好いていない。焔聖のに射られたのも恨んでいる。矢が鹿の頭に変わった時、角が臓物をぶちぶちと破り、めりりと肋骨が押し上げられるような感覚、あれ程の苦しみは世界中探しても、そうない。
聖女が嫌いだ。大嫌いだ。でも、それで突っぱねて良いのだろうか。……相手は協力するという姿勢を見せている。しかも丁寧な態度で。
エリカは目を閉じて深呼吸をした。腹の奥で燃える怒りと嫌悪感を、一先ず鎮めようと努力する。確かに聖女は嫌いだけど、空聖は悪くない。彼女を嫌う理由がない。
キャロルの言葉を思い出す。他人にいい人でいて欲しいなら、まずは自分がそうあること。聖女は悪という固定概念に捉われ、それを放棄してはいけない。
「まずは丁寧にお返事を書いて、私たちが大獣を討伐に参加するかどうかは合流してから考えましょう。向こうの事情も聞きたいです。第三聖女隊に『銀鴉の騎士団と共に解決しろ』という趣旨の沙汰があるなら良くて、無いようなら鳩を飛ばして沙汰を仰ぎます。飽くまで私たちは輝聖の私軍という立ち位置なので、命に反してキャロルさんの顔に泥を塗るわけにはいかない」
冷静な返答に、フリッツは少し驚いた。この娘、優秀である。
大白亜を出る前、噂好きの神官から『輝聖の従者は小娘な上に魔法も使えなければ学もない』と聞いていた。そのせいもあって、正直な所、今回の旅は不安だった。酒場では駝鳥の事を聞いてくるなど意図を捉え兼ねる会話もあったので、妙な娘ではないかと余計に心配した。
その上エリカはパクパクと人一倍食べるから、そこには若干の浅ましさを覚えた。宿の食堂では頬を肉でいっぱいにして喉を詰まらせかけるし、昨日の酒場では5皿もおかわりをした。仮にも輝聖の従者がこんなに天真爛漫で良いのか、凛として勇ましい騎士であれ、とも思う。
だが、どうだろう。然るべき時には毅然とし、殊の外場慣れしている感じがある。判断すべき時には目の色もガラリと変わり、死戦を潜り抜けてきた老将のような雰囲気だ。
「成程、輝聖の従者か……」
「何か言いました?」
「いやいや、独り言に御座いまする」
その後、エリカは騎士団の中で一番筆が上手な者に返答の文を認めさせた。内容としては、空聖の恙無い巡礼に安堵している事と、協力の申し出に感謝する事、大獣はリューデン公爵領イステドに現れたらしい事、それから合流地点と日時の相談。最後に、神と輝聖への倍旧の奉公を誓った。
□□
白露朔日、午後1時。銀鴉の騎士団はトマス・バンクスを出立。肥満王の嫡子街道を南東へと進んだ。
出立から5時間後、再び第三聖女隊からの鳩が届く。
「前のと違う鳩だ。聖女隊ともなると何羽も持ってるんだなぁ……」
「ほう?」
「ほら、顔が違うんですよ」
エリカはそう言うが、フリッツには違いがわからない。
持っていた書簡には1文のみが書かれる。『明後日を目処にイステド付近に到着。狼煙を上げる』。
「どうやら第三聖女隊の方がイステドに近いみたいですね」
エリカらは目的地に到達するまで、順調に進んで3日はかかるといった距離だった。
□□
そして2日後。リューデン公爵領との領境の関所『ウィンダム城』に到着。旅商人に扮した騎士団は、通行料の5倍の賄賂を渡して詰問をやり過ごす。リューデン公爵領は王都派。大白亜から来たことを悟られると面倒だから、金に糸目はつけない。
さらに余分に税を払って、エリカは門番に問うた。
「何か領内に異変はありますか? あまり危険な道は通りたくないので」
門番はややあって、答える。
「いや、無いよ」
それでエリカは軽く礼を言い、そのまま騎士団は門を潜って公爵領に入った。
「何かを隠してましたね」
基本、領内で大きな災害があると軍はそれをひた隠す。内政不安を起こさない為である。災害と同時に一揆が起きるなどは良くあること。民衆の不安が怒りを呼んで、やがてそれが爆発するのだ。平和を演出している間に軍を動かし、内密に対処をすれば何もなかったことになろう。波風は立てないほうが良い。──大獣の大発生は確定だろう。
「よくぞ見破りましたな、エリカ殿。確かに、あれは何かを隠していた」
「彼、目を合わせてくれないので。質問をしたら動きもぴたりと止まった」
「流石は輝聖の従者。鳩の顔の件もそうであるが、良い目をしている。飛耳長目の騎士と心得たり。お見それした」
「へ?」
エリカはもじもじと頭を掻いて赤面した。老兵に手放しで褒められるのは嬉しい。
「大白亜に戻っても益々輝聖に尽くされるよう、願い奉る」
「へへ……。頑張ります」
それから騎士団は街道を進んだ。そして、閑地に着いた所で大白亜に文を認める。文は第三聖女隊と協力して討伐をしても良いかを問うものだった。大発生はあるものと断定し、予めクリストフ五世に沙汰を仰ぐ。
霊木である榧の木で作られた鳥籠から鳩を出し、文を持たせて西へと飛ばす。榧に宿る魔法が鳩の地磁感知系に作用し、帰巣性を狂わせ、特定の磁鉄鉱のある場所に向かわせる仕組みだった。早くても明日の夕方には大白亜に到着するだろう。
□□
イステドは公爵領内東部に位置する。首都ニューカッスルからは遠く離れており、瘴気にも近い。然したる名産もなければ工芸もないので、華のない都市だとされた。
騎士団は古い街道を南東へと進んでいく。寂れた風景が延々と続いた。点々とある廃墟は雨風によって腐り、今にも倒壊しそうである。果てしなく広がる耕地には作物はなく、ただ女日芝や狗尾草などの雑草が絨毯となって、闃としている。その光景が地平線の先、烟る山々まで続いている。
「第三聖女隊はもう到着しているのでしょうか」
フリッツは夕空を見上げた。西に沈む太陽が、空を赤く塗りつぶしている。熟し過ぎて腐った蕃茄のような強烈な色。
「もうイステドも近いはずですが、狼煙など見当たりませぬな。それに、特に変異があるわけでもなさそうだが……。本当に大獣は群れているのだろうか」
エリカも釣られて空を見た。今にも溶けて垂れてきそうな空を見つめていると、自分まで溶けてしまいそうに思えた。存在が希薄となるのを感じる。
「随分と物寂しい土地ですね」
「リューデンは土地が広い。隅々まで領主の威光が行き届かず、地代の支払いもなあなあになっていた由」
地代とは百姓が領に治める土地代である。
「思うに、もはやあの城も蛻の殻ではないか」
進行方向、街道から逸れた小高い丘の上に、寒々と城が聳えている。名はイステド城、近辺を治める貴族の居城である。その城下町がイステドの街だった。
「それに鶺鴒一揆で領主や貴族が討たれ、残された貴族の統率も乱れている。聞くところによると、領主の信頼を得て悪行の限りを尽くした男がいたとか。そやつのせいで未だ足並みが揃わぬ由」
「処罰しないのですか?」
「いや、死に申した。死骸を馬で引き摺り回された後、首と胴と四肢が各地で晒されたとか。首には小便が引っ掛けられたり、四肢は蹴り転がされたりしたそうな」
相当に嫌われていたらしい。
「ただ、忘形見と言うべきか、その男が利権を食い荒らした故、他貴族の利権も破茶滅茶になり、一致団結せぬ。領主を継いだ御嫡男も苦労しておろう」
次第に黄金の大地は色を変え、紫の花を咲かせる四方柏の土地になった。四方柏のない空白地帯には、多種多様な香草が群生する。街道も途絶えたので、一行は花畑を行く。
こうした土地を荒地と呼ぶ。少しの表土と砂しかないから、耕作にも牧畜にも向かない。ただただ四方柏が生えて、ただただ大地を紫に染める。今日の場合は、西陽が紫を銅色に変えていた。
エリカらは古代の環状石籬を見つけた。何もない荒地に13呎(4m)ほどの石柱が幾つも立って、輪を作っていた。日も暮れたので、此処で野営をする。
こうした環状石籬は王国内に複数存在する。古代人が日時計として用いていたとか、星読みの装置として用いていたとか言われるが、最近では古代宗教の斎場だったとの説が有力である。
環状石籬には強い聖が宿っており、聖域のような効果を発揮した。つまり魔物や悪霊を寄せ付けないので、強力な魔物を封じておくのに利用される事もあった。
この遺跡──、名をアシュリー・サークルと言うが、此処には『死者の王』という魔物が封じられていた。中央にある石棺の上には乾涸びた葡萄が置いてある。供物だろうか。誰かがやって来て、魔物が穏やかに眠り続けるよう祈ったのだろう。
死者の王は大鎌を持つ骸骨とされた。夜と共にやってきて、子供の首を刈り取り、自らの首に下げてゆく。古くから封じられているので具体的にどんな魔物なのかはハッキリしない。一説には疫病を振り撒くともされた。
エリカは空を見上げた。恐ろしいほどに冴えた赤い空。現実離れした極彩色の景色。無機質な石柱があって、遠くに城が見えるだけで、あとは永遠の花畑。人影もなく、動物の気配も、魔物の気配もない。風もなく雲もない。
此処は最果てか、終末の地か。侘しくて、恐ろしい。キャロルを助けたいという想いを胸に、或いは自分の存在意義に突き動かされて、こんな所に来てしまった。……この景色を見ていると、妙に不安になる。此処にいてはいけない、そんな気がして。
そして、どこを見渡しても第三聖女隊の狼煙はない。待ち合わせをする場合であれば、火を焚き続けるのは基本であるのだが。
「風の聖女ってどんな人なんだろう……」
呟きに、フリッツが答える。
「物静かで、いつも本を読んでいると聞く」
「大人しい方なんですね」
エリカは空聖を除く全ての聖女と出会ってきた。輝聖、海聖、焔聖、陸聖、その誰もが烈しい女子だったから、物静かだという事だけでも新鮮に思えた。
「しかし、ファルコニア伯爵が寵愛した愛娘ぞ」
「ファルコニア伯爵……」
北方の領主であることは、エリカも知っている。だがどんな人物かまではよく分からない。
「伯爵は人間の頭蓋で酒を飲み、馬を丸齧りにして肴とするとか」
「えっ」
「そんな荒し男の娘が、普通の女子とは思えぬのだが……」
エリカは顔を引き攣らせた。それは物静かな女子であるわけがない。きっと常に耳から暴風が出て、鼻からは稲妻が走り、口から火を吹くのだ。──そのように想像した時。石柱の側に鳩が落ちているのを見つけた。しかも書簡まで落ちている。
エリカは下馬して、それに寄った。
「死んでる。可哀想に」
尾は大青で染められている。顔を見るに、一番初めに飛んできた鳩らしい。
「第三聖女隊の鳩。私達の下に向かっていたんだ」
書簡には第三聖女隊の封蝋。他騎士達も気にして、エリカの周りに集まってきた。
「エリカ殿。書簡には、なんと」
開き、読み上げる。
「大獣は確かに群れていて、第三聖女隊が残らず討伐したらしいです。あと、私たちに挨拶がしたいからイステドで待つ、と。僅かですけど、饗応の準備もあるらしく……」
饗応とは、もてなしの事。
「流石は聖女様。大獣が群れていても屠ってみせたか! 耳が潤うご報告ですな」
大獣は頑丈な魔物である。矢が千本刺さっても死なない。それが群れているのに残らず屠った。フリッツの言う通り、救世の聖女は見事だ。
が、それよりも。エリカは死んだ鳩が気になった。違和感が胸を掻く。これは野性の勘か、それとも幾つもの死線を掻い潜ってきた経験則から湧き出るものか。
「どうして死んでしまったんだろう」
鳩には外傷は無く欠損もない。狐などに襲われたわけではなさそうである。
「珍しいが、無いわけではない。心の臓が弱っていたか、石柱に衝突したのではないか。不吉ではあるが……」
エリカは気がついた。鳩の体、何か妙に柔いような。骨や筋があるのを感じない。
鳩の羽を毟る。そして腹に指を入れ、力を入れて割く。その様子を見ていた騎士達が一斉に後ずさる。──中から大量の芋虫が、ぼろぼろと湧き出てきた。
「これは、奇怪な……」
縞模様の胴、赤い顔の芋虫。腹の中でうじゃうじゃとびっしり、磯巾着のようになって蠢いている。恐らくは青羽挵の幼虫。
これは蝿になる蛆ではない。蛆ならば蝿が皮膚の下に卵が植え付けるから、腹の中で孵ることもあるだろう。だが、出て来たのは蝶になる芋虫だった。腹に入るわけがない。それが腹の中に生み出されたということは。
つまり、芋虫は、虫。虫は生命。ならばこれは──。
「──生命の力。キャロルさんの、魔法」
ハッと気がつく。頭上、白い鳩が旋回していた。書簡を持っている。
見つめていると、鳩はバサバサと羽搏きながら、エリカの下に降り立った。書簡にはやはり第三聖女隊の封蝋が押されている。急かされるように、それを開く。
文には、ただ一言が記されるのみ。しかも雑な走り書きで、送り主の名もない。
『決してイステドに向かうべからず』
エリカの頬に冷や汗が垂れた。
「これ、どういうこと……?」
『危険だから来るな』と、そう言いたい? でも、何故? 饗応の準備があるとまで言っていたのに。
黙していると、傍でカチカチと音が鳴っているのに気がついた。そっとその方を見ると、馬が震えて歯を鳴らしている。
「怯えてる……」
馬の首にそっと手をやる。体温、高い。呼吸も荒い。病的な怯えようだった。戦場で魔物と戦っても臆する事のないよう、訓練されているはずだが。
その時。微かに、ぶうんという低く響くような音が聞こえた。胸の騒めくままに、音の聞こえる方を見る。イステドのある方面。地平線から黒い雲が這い出る。それは徐々に大きくなる。
一瞬、雨雲だと思った。だが、雲は地を這っている。そして膨らみながら、花畑を飲み込みながら、徐々にこちらへと向かって来ているように見える。ぶうんという妙な音も大きくなる。
分からない。あの雲の正体、何だろう。雲というより砂嵐に似ている。エリカは身を固くした。
突如、エリカの頬にバチンと何かが当たった。
「痛っ!」
激しく衝突したので、それは昏倒し、地面でのたうち回った。
「飛蝗……?」
顔を上げた刹那。黒雲──つまり、飛蝗の群れが山津波のように押し寄せて、視界の全てを遮った。騎士達は何かを叫んでいるようだが、わあという羽音で聞き取れない。体に激しく飛蝗が当たって、痛い。
馬が嘶き、立ち上がる。吹雪の如き飛蝗の群れに狼狽し、暴れる。そしてエリカは馬に蹴られ、仰向けに転がった。
寝るように転げたことで、エリカはようやく目を開くことが出来た。上空、飛蝗の大群で黒く煙る中、巨大な生物が翼を広げて飛んでいる。
「竜。いや──」
竜とは違う気がする。首は長くなく、四足も無い。足らしきものはあり、体を覆うのは鱗ではなく毛。口の先は尖っていて、嘴に見えた。これは、鳥だ。帆船ほどの大きさの、巨大な鳥。
その鳥は西陽を全身に浴びて、赤く、燃えるように煌めいていた。いや、日暈が広がっているから、自ら発光しているのだろうか。分からないが兎に角にも神々しくて、血の気が引くほどに畏怖した。
脳裏に過ぎる。──鳥は神の御使。
「エリカ殿ッ‼︎」
フリッツの声がして、焦り、体を起こす。襤褸となった外套を身に纏った骸骨が浮いている。その周りには爹児のようにぬらりとした黒い靄が蠢く。大量の飛蝗のせいでエリカは気づかなかったが、これは蚊の群れであった。そして骸骨は大鎌を振りかぶっている。
「死者の王」
エリカは目を瞠る。封印の獣が復活した。
何がそうさせた? それとも偶然? 飛蝗の群れが影響した? それともまさか、赫赫たる禽鳥が?
剣の柄に左手を伸ばす。三日月型の刃を弾こうとしたが、遅い。死者の王の大鎌は既に振り下ろされている。
その時、フリッツが盾を構えてエリカの前に出た。空の色を映した朱殷の刃が、盾諸共体を裂いた。激しく血が噴き出て、それは遥か高く上がって膿んだ夕空に溶けた。鉄の臭い。微かに、しゅうと空気が抜けるような音。
エリカは援護を求めるために大声を張り上げたが、恐怖で喉が乾燥して声にならなかった。嗄れた、か細い、糸のような悲鳴でしかなかった。歯の根も合わない。手も震える。
早く、剣を抜かなくちゃ。左手で柄を力一杯、握る。既に鎌の刃はエリカの首を目掛けて、飛び交う飛蝗を両断しながら、或いは刃に付着したフリッツの血と脂を迸らせながら、赤黒い線を引いている。
そこから先、エリカの意識は途絶えた。
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