極地(前)
時は遡り霎時下弦。
半宵、エリカ・フォルダンは糸杉の林にある溜池で泳いでいる。黒く塗り潰されたかのような闇の中、ざぶざぶという音だけが聞こえていた。
水泳は鍛錬の一環だった。何分、大白亜に入ってから剣を振るう機会がない。このままだと体が鈍ってしまう。あと水泳をすれば病気にならないらしいし、辺境伯が言うには水薬要らずの体になるとか。まあそれは程々に信じておき、こうして体を動かしていれば無心になれる。エリカにとって、それが一番だった。
実は今、心にぽっかりと穴が空いている。飯を食べていても寝台に横になっていても、虚無感が付き纏う。端的に言えば、寂しい思いをしている。
──大白亜に入ってからキャロルと顔を合わせたのは片手で数える程度だ。
しかも巫女や下男下女に囲まれていて、碌に言葉を交わすことも出来ない。一言二言が精々。
エリカは心配している。このままではいつか、キャロルに忘れられてしまうのではないか。2人は赤の他人に戻るのではないか。それを思えば、ぎゅうと胸が苦しい。
キャロルは忙しい。況んや、宮殿や大聖堂を抜け出して私の前に現れる事など期待できない。もう、立場が違うのだ。いや、元々立場が違っていて、本来あるべき壁が現れたに過ぎないのかも。
だったら、それでも良い。輝聖の聖務を支えたい。
巫女とやらはキャロルの世話係も兼ねるらしいから、己も巫女になれば良いのではと思った。が、星を見ても綺麗だとしか思えない。風を読んでも、清々しい気持ちになるだけだ。そもそも霊感がないからだめか。キャロルに近づく為に聖人の列伝を読んでみたが眠くなってしまって、これもだめ。気づけば同じ文章を5回も読んでいた。
ああ、気付かぬ間にまたキャロルの事を考えている。無心になれていないではないか。もっと真剣に泳がなくては。そう思った時──。
「……人?」
エリカは気がつく。声がした。
誰かいるのだろうかと闇を凝視。すると、池の淵にうっすらと人影が見えた。どうやら、2人組が淵に座り、話し込んでいるようだ。男女、だろうか。1人は神官に見え、もう1人は下女に見える。
「うわ。まさか逢瀬じゃ……」
だとしたら、話の盗み聞きは悪い。静かに去ろう。
「君の故郷は南方だろう?」
男の言葉に、女は頷いた。
「何やら、魔物の大発生が起きていると聞くが」
去るつもりだったが、エリカは縦泳ぎでその場に留まる。──魔物の大発生?
時に魔物は度を超えて群れるが、その現象を大発生と言う。発生の機序は分からない。だがそれが起きると、高い確率で惨事となった。
「君の故郷は大丈夫なのかい?」
「あまり情報が入ってこないの。だから、唯の噂かも知れないし」
「それでも君は故郷には帰らない方がいい。万が一があってはいけない。王都がああなってしまった今、この世界で一番安全なのは大白亜なんだ」
「でも、お母様が危篤なのよ」
「そうだ、カタロニアから面白いものが届いている。駝鳥の卵だ。とても大きいのだぞ。特別に見せてやろう。だから、大白亜に留まるんだ」
「どうしよう……」
男女が接吻を始めたので、エリカはその場を後にした。
エリカの脳内、忙しい。──大発生が起きたとは本当か。母と天秤にかけて迷う程度には、駝鳥の卵とは素晴らしいものなのか。南方と言っていたが、どこの領で魔物が群れているのか。壮年の神官が少女と逢瀬など、教義的に問題ないのだろうか。大発生した魔物の種類は? それとも噂は噂? 煩雑極まる。
□□
エリカは林の中で枯れ枝を組み、燐の粉と燧石で火を起こした。炎の揺らぎを見ていたら、脳内がすっきりしてきた。すると、やっぱりキャロルが恋しくなった。
夏虫の声を聞きながら、2人で火に当たっていたのが懐かしい。飯の匂いも思い出す。牛骨を煮込んだポタージュ、立ち上る玉葱と原茸の香り。生姜がぴりりと効いていて、美味しいのだ。
「きっとキャロルさんの事だから、狗惨みたいな事が起きたら悲しむ。キャロルさんが悲しい時は、私まで悲しい」
キャロルは2日後に法王になる。今、目が回るくらいに忙しいに違いない。魔物の大発生の話は耳に届いていないはず。届いていたとしても、下山なんて出来るはずがない。
でもエリカは違った。大白亜に入ってからは復興作業を手伝っているに過ぎないから、自由に動くことができる。石材や木材を運べる者など、自分以外にも沢山いる。
──エリカは南方に行ってみようと思った。
噂は噂かも知れないが、確かめるだけでも良いだろう。離れていてもキャロルの為に何かしたいし、キャロルが悲しむ事は全て払いたい。それにキャロルの為に動いていれば、いつか絶対に、また一緒にいられるようになる。確証はないけど、そんな気がした。
エリカは『よし!』と鼻息荒く、焚火に枯れ枝を投げ込んだ。ぽふんと火の粉が巻き上がる。そして、投げ入れた枝と炭になった枝とが交差して、十字の形を作った。
「凄い。奇跡かも」
この決断を神が祝福してくれている気がした。それもそうか。輝聖の為に動くのだから。
動き出すと決めた瞬間、心と体が軽くなった気がした。1番の薬は、行動する事。それをすっかり忘れていたようだ。
「うーん。駝鳥の卵。そんなにいいものなのかな。いつかキャロルさんに会えたら、聞いてみよう」
□□
翌朝、エリカはカレーディア大聖堂へと行った。大きな扉を開けると、咽せ返るくらいに百合が香った。
正面、塔の如く巨大な主祭壇。それはステンドグラスから漏れる光を浴びて照り輝く。神リュカの馬裂きを主題とした巨大な彫刻が組み込まれているのが最大の特徴だった。主祭壇の周りは下女によって花々が盛られていて、仰々しい銀の燭台も並べられ、粛々と戴冠祭儀の準備が進められている。
エリカは会衆席で気怠げに祭壇を眺めていたクリストフ五世に、南方へ行きたい旨を話した。
「なにぃ〜?」
クリストフ五世は露骨に嫌な顔をする。
「ならんならん。下山など以の外よ」
エリカは『なんで!?』と目をまんまるにした。手放しで褒められると思っていたのに!
「魔物の大発生を噂に聞かないのですか? ちゃんと調べたほうが良いと思います」
クリストフ五世は耳穴に小指を入れて掻いた。まるで無関心な態度。
エリカは不審の眼差しでじっと見つめる。出会った時から思っていたが、この男、中々の適当人間。権力闘争に敗れて捕縛されたと聞いているけれど、もしや単純に怠慢が積み重なってそうなっただけではなかろうかと疑ってしまう程に。これがあのキャロルの師匠筋だとは、到底思えない。
「何ぞ疑うておるな」
見透かされたように問われ、エリカはぶんぶんと首を横に振る。焦った。表情を読み取られたらしい。
「噂は知っておるし、しかと考えておるわ。が、もしそれが本当ならば、大白亜にも早馬が現れよう」
エリカは口を尖らせる。
「それでもちゃんと調べたほうが良いと思います」
「何を焦っておるか、だらしがない。キャロルに会えんのが寂しいのか?」
また見透かされた。
「焦ってなどいません!」
「淑女たるもの品性を核に行動すべきものと存ずる」
「だから焦ってませんってば!」
エリカの意固地になったような顔を見て、クリストフ五世は眉尻を下げた。そして祭服の衣嚢から水筒を取り出し、火酒を飲む。──さてさて、どうして己に関わる女子共は、こう、一癖も二癖もあるのだろうか。
リトル・キャロルは言わずもがな、跳ねっ返りで喧嘩腰。言うことは聞かないわ、憎まれ口を叩くわで面倒この上ない。
マリアベルは表面こそ繕ってはいるものの、腹黒さが見えて不穏である。言質を取られることもあるので、話しかけられても迂闊に返答できない。
ローズマリーは全く会話ができない。聾唖なのかと思ったが、そうでもない事が後にわかった。そのくらい喋らない。
ニスモなどは論外である。あれは熱した刃と変わりない。彼女の前にいると、自分が牛酪のように思う。近づくだけで良からぬ事が起こるだろうと思い、萎えるのだ。
メリッサは、まあ、高圧的ではあるものの、話は出来る。彼女くらいである、まともな女子は。
そしてエリカもまた癖が強い。飼い犬は飼い主に似ると言うが、キャロルに似て言う事を聞かない。心根は素直ではあるのだが、自分の意見を曲げることを知らない。つまり今日に於いては説得が難しいだろう。クリストフ五世はもう一口、酒を飲む。
「強いお酒、やめた方が良いですよ」
「我慢をしているとヤツが囁く」
「誰がですか?」
クリストフ五世は空に向けて指を刺した。つまり神が囁くと言うこと。果たしてそれは本気なのか冗談なのか、エリカには分からない。
「聞けエリカ。ワシはな、とっても忙しい。お前のような小娘に構っている暇など、これっぽっちもないのよ。しかもだぞ、今から時祷書を作らなくてはならん」
時祷書とは日毎の祈りと儀礼を記した暦である。礼拝の手引書も兼ねる。正教会の定めたものは数多くあるが、大白亜派としての時祷書が必要だった。
「忙しいって、お酒飲んで準備を見ているだけじゃないですか」
「しかと監督しとるわ。下女を見つめるこの厳しい眼差しがわからんか」
クリストフ五世はわざとにキリリとした眼差しを作ったが、エリカは無視をした。
「それに私は輝聖の従者です。ただの小娘ではありません」
「ほー。偉うなったのう」
「囚われていたあなたを助けた時、『輝聖の従者として扱うぞ』と言ったではありませんか」
「従者なら側にいるべし。お前が下山すれば、キャロルが悲しむぞ」
「キャロルさんの為に出来ることをしたいです。大白亜にいても、私は何も出来ない」
「ええい。ならば一度キャロルと相談させよ」
「いえ。行かせてください」
「だから相談させよと言うておるに」
「いえ。きっと私が山を降りたことを知れば、キャロルさんが心配すると思うから」
「ワシもそう言うておろう。ならば行くな」
「役に立ちたいんです」
クリストフ五世は顔を歪めた。なんて頑固な小娘!
「い、一度キャロルと相談させよと申しておろう。そのようにさせて頂いても宜しいでございますか、エリカ・フォルダン嬢」
「なんでダメなんですか! 神様は褒めてくれたと言うのに!」
言うと、クリストフ五世は驚いたように目を見開いた。そして、ややあって、
「──其は誠に重畳。歌でも聞こえたか」
「焚き火に枝を投げ入れたら十字になったんです。あれは絶対、何か意味があります。神様が祝福してくれたんだと思います」
「ほー……」
□□
クリストフ五世は態度を一変。その日のうちに下山の許可を出した。ただし、幾つかの条件がついた。
一つ、下山は他言無用である事。
特にキャロルには知らせてはならない。法王としての責務を果たさなくてはならないので。
一つ、1人で赴かざること。
クリストフ五世は6人の騎士をエリカにつけることにした。この騎士たちは元正教軍で、大白亜に投獄されていた神に熱心な勇士であった。
エリカと6人の騎士とで隊とし、クリストフ五世はこれを『銀鴉の騎士団』と名付けた。銀は輝聖の従者エリカ・フォルダンの髪の色、鴉は神の御使である事を意味する。なお銀鴉の騎士団は輝聖の私軍という名目になった。
一つ、目的は魔物の大発生の有無の確認であるべきこと。もし大発生が確認できた場合でも戦闘せざること。援軍を要請し、領軍と待機すること。
これはエリカを危険に晒さない為だが、当のエリカにとっては不服なものであった。魔物が群れて街を襲っていたら、見ている事しか出来ないわけで、これは流石に疑問である。
そして最後の条件は『異議を唱えざること』。エリカにはこの条件を飲むことしかできなかった。
□□
霎時暁月。戴冠祭儀が厳粛に行われた。聖女の命が狙われた鶺鴒一揆終結から日が浅い為、参加者は大白亜に詰める神官に限られた。
戴冠祭儀にて、輝聖は金の三重冠『大いなる聖冠』を受けた。また、祝詞を上げた後に、使徒ザネリの鼻骨と紫石英で作られた指輪『紫輪』を左手の人差し指に嵌めた。最後に法衣と宝珠、錫杖を授かる。
エリカは祭儀を見届けた後、6人の騎士たちと共に下山。隊は将をエリカ・フォルダン。副将をフリッツ・カッセルとした。
天候快晴、秋麗。風向き南南東。風速10海里。風の香りは清々しく、肌に心地よい。高い空には巻雲が真っ白な筋を作っていた。
7つの騎馬が、秋風と共に原を駆けていく。エリカの乗る『スーヴェニア』という馬は汗血馬だった。名前の意味は『自分用のお土産』であるが、誰が名づけたのかは謎だった。
□□
同日、銀鴉の騎士団は教皇領『嘆きの丘』の関所に到達。税と布施を払って通過。
その後はレディベリー街道を南下し、2つの関所を通過しマーシア公爵領に入る。楓の並木で燃えるように色付くドレン川を沿って行き、陽が落ちる前に馬宿に入る。そこで一夜を過ごす事にした。
エリカは宿の主人に大発生の噂を知っているか問う。
「ああ、聞いているよ。何でもアスコットの方面だとか」
アスコット伯爵領はマーシア公爵領より東に位置する。
「でも、北の方でも似たような事があったと聞くなあ」
北の大発生は初耳だった。詳しく聞くに、リンカーンシャー公爵領で起きているらしい。
「この程度の噂は一年中あるさ。一々気にしてたら商売なんて出来ないね」
翌朝、騎士団は馬宿の裏にあった朽ちた女神像に旅の安全を祈り、出立。一旦はアスコット伯爵領を目指すため、東に進む。
□□
進む事2日、騎士団は王国南部ゴドウィルソン侯爵領に入り『トマス・バンクス』という街に到着した。
トマス・バンクスは言わば門前町であり、ウィリアムズ大聖堂を中心に、四方に広がるようにして街が形成されていた。大聖堂は使徒ザネリが生まれた厩に建てられたとされ、礼拝者も多く、宿屋や飯屋が生業を始めたのをきっかけに自然と成った街だった。
エリカは騎士団を一旦別行動とした。手分けして大発生の具体的な噂を探す。この街には各地からの旅人が集まっているので、情報を掴めるだろうと期待した。
陽が落ちる前に、エリカは冒険者組合『磨り硝子の会』の会館に入る。そこで、掲示されている依頼を確認した。が、あっても亜人などの弱い魔物の討伐依頼が殆ど。あとは薬草の入手、荷物運び、恋文の代筆。割高なものだと死体運びや、魔除けの依頼、水薬の納品。なんと飼い猫の捜索まであって、平和なものだった。大発生に纏わる依頼はない。
□□
エリカは日暮れまで調査をしたが、虚しくも手掛かりは掴めなかった。
やはり噂は噂だったのだろうか、と肩を落としながら街を歩いていると、副将フリッツとばったり会ったので、そのまま合流して酒場に赴いた。そして2人は南部の名産である檸檬を使った『兎肉の葡萄酒煮込み』を頼む。
「お伺いして良いですか?」
フリッツは眉を顰めて、エリカを見る。
「駝鳥ってわかりますか?」
「カタロニアに生息する鳥に御座いまする。しかも人が乗れると聞きます」
「駝鳥の卵って、価値があるんですか?」
「大きいのではあるまいか」
大きいだけの卵見たさに下女は危篤の親を捨てたのか、悩ましく思った時、ふいに背後から会話が聞こえた。
「大獣の群れが出たと聞いたか?」
「どこで?」
「リューデン公爵領だ。イステドの街を滅ぼしたのだと聞くぞ」
エリカとフリッツは目を合わせた。──初めて手に入れた具体的な情報。
大獣とは高さ6呎7吋(約2m)横幅16呎(約5m)ほどある巨大な魔物である。およそ河馬のような見た目で、巨大な牙が2本。色は黒か茶色で、怪力。牛の体を簡単に食いちぎり、体当たりで木々を倒す。
「本当か? 俺はそんな話を聞いたことがないぞ」
「南から来た旅商人がそう言ってたんだ。話振りからするに、嘘だとは思えなかったが……」
行き先は決まりだ。この街から南下して、リューデン公爵領を目指そう。
□□
翌朝。街の宿屋、その中庭で井戸の水を汲んでいたエリカは、気がついた。
「鳩……?」
まだ仄赤い東の空から、1羽の白い鳩が飛んできた。その鳩は書簡を持っており、エリカの眼前でバタバタと羽ばたいて空中で静止する。書簡には金の封蝋が押されていた。
エリカが書簡を受け取ると、鳩はまた東の空に帰っていった。
「──聖女隊の紋章」
近くで洗濯をしていた副将フリッツに寄り、封蝋を見せる。
「なんと。これは確かに聖女隊からの書簡に相違ない」
その紋章、第三聖女隊。即ち、風の聖女からの文である。
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