福音
その日は激しい雨が降っていた。厚い雲が太陽を隠して昼なお暗い。遠雷の音と、雨が硝子窓を打つが絶えず聞こえている。冷えを伴う大颶風であった。
キャロルは巫女も下男下女も書斎には近寄らせなかった。自分で紅茶を淹れて客人を持てなしたいのだと押し通した。
湯通ししておいた茶碗に3分間蒸した紅茶を注ぐ。華やかな香りがふわりと漂う。
茶器は芸術品のようだった。白磁は純白に澄み、そこに描かれる椿の花々は精巧で、生き生きとしている。牛乳差しや湯捨て椀、砂糖入れも卓上で輝いていた。器も取手のない茶碗で、これはかつて存在した遥か東の国の流行。意匠の凝らした骨董品である。
キャロルはジャック・ターナーの前に茶碗を置いた。砂糖と共に番紅花を紅茶に入れるのが流行りらしいので、そうしてみる。
「久しくこんな高級な茶は飲んでいないな」
「私はもっと質素な紅茶を飲み慣れているのだが……。大白亜には献上品が集まるから、嫌でも特別感が出る」
キャロルは自分の茶碗にも紅茶を注ぐ。茶漉しを用いて、丁寧な所作であった。
「しかし、随分と老けたなジャック・ターナー。8節ほどしか経ってないのに、それは異様だ」
「鏡を見て初めて気がついたよ。我が身の変わりように」
「心労か?」
「ここの所、神のことを考え過ぎている。まともに眠れた日は数えるほどだし、尿が詰まって腰も痛い」
「あとで面高の薬を作るよ」
面高は沼地に生息する植物で、小便の出を良くする。
「さて、キャロル。君はささやかな茶会を開きたかったわけでも、問診をしたかったわけでもないんだろう?」
「話が早くて助かるよ」
キャロルは紅茶を一口啜って、ちらりと扉を確認した。扉は閉まっている。誰も聞き耳を立ててはいなそうだ。
「こんな事を話せるのは、貴方しかいない。私が輝聖だと最初に気がついた貴方しか」
やや硬い声色。続ける。
「私はこのままで良いのか。本当にクリストフ五世や神官らの言う通り、玉座に座していればそれで良いのか」
「不安か」
「不安だ。私に何かできることは?」
「相手は天変地異だぞ。出来ることは何もない」
「私は聖女だ。場合によっては鎮められる災厄もあるかも知れない。苦しんでいる人がいれば魔法や薬で助けることもできる。お前まで私に偶像である事を強いるのか?」
ジャックは病んだ瞳でキャロルをじろりと見た。
「キャロル。君はやはり、神が災厄を起こしていると考えているのか」
「肯定だ。世界は神の掌の上なのだろう。ただ玉座に座り続ける私に対して、動けと言っているんだ」
ジャックは顎に手を当て、考え込む。
「ジャック・ターナー。意見を聞かせてくれ。私は今すぐにでも大白亜を下山するつもりだ」
「下山してどうする」
「分からない。やれる事を探す」
「やれる事とは?」
「私の下には情報が入ってこない。山の外がどうなっているのかもよく分からない。兎に角、こうして座っているのはもう我慢ならないんだ。下山を手伝って欲しい」
「落ち着け、キャロル」
ジャックは長考の後、口を開く。
「確かに神は気が短い。いち早く夢を叶える為、世に刺激を加えるのが最良と考えている可能性もあると、私も思う。例えば、家の前で蹲る蚤だらけの野犬を、箒で突いて退かすように、そうする」
神の夢とは『世界を円とする事』である。
「うん。あれは意地悪で鄙劣で倣岸で、しかも厚かましい。井戸を独り占めする老婆のようなものだろう。そいつの機嫌次第で周囲は振り回される」
ジャックは『そこまでは言っていない』と言う風にして、顔を顰めた。自分以外の人間が、神にそのような評価を下すのは複雑だった。
「キャロルの言う通り、世界は神の掌の上だ。とは言えども、果たして神はそこまでの事をおやりになるだろうか」
「と言うと?」
「神は性根が悪いが、愛の人でもある。盲愛するが故に、君たち聖女に試練を与える。だからこそ、乗り越えられる試練しか与えない。流石に山が弾けたり地が揺れたりは、聖女も手に負えないだろう。君は彗星を取り除けるか?」
キャロルは一理あると思い、ジャックから目を逸らした。
「ではジャック・ターナー、お前はこの連続する災厄を、神の意思とは関係ないものとして見ているのか」
「いや、無関係ではないだろう。飽くまで憶測に過ぎないが、例えば、天変地異は副次的なものであるとか……」
「と言う事は、また別に神の思惑があると……?」
「ただ、キャロル。それよりも、私が違和感を覚えているのは、別の事なんだ」
「別の事?」
「──エリカ・フォルダンは君にとって大切な存在か?」
思ってもみなかった問いに、キャロルは目をパチクリとさせる。
「当たり前だ。エリカの事を四六時中考えている」
そして困惑は徐々に不安に変わり、キャロルの表情を険しくさせた。坂を下る車輪のように心が逸る。
「エリカがどうした。言え」
「君の傍から従者が消えた。輝聖を支え、輝聖を輝聖たらしめた、あの少女が君の前から消えたんだ。災厄よりも、その方が明らかな神の意思を感じる」
キャロルはパクパクと口を動かす。ひどく動揺した。
「エリカは。エリカはどこで何をしている……?」
「下山したと聞いているが、詳しくは知らない」
「大白亜にいないのかっ⁉︎」
その時、大窓の外で落雷があった。影が焼きつくような、凄まじい光。同時、パンと激しく弾ける音。部屋が揺れて茶器がカタンと鳴る。部屋の燭台が倒れて火が消えた。
雷は楢に直撃した。木は縦に裂け、炎を上げながら倒れる。それは大窓に直撃して、硝子を破壊し、壁まで食い破った。裂けた幹とその梢が書斎に雪崩れ込む。激しい雨風が室内に吹き荒れる。
「──!」
梢の先に、エリカから貰った耳飾りが引っかかっている。机の上に大切に置いてあるはずなのに、それが、そこにある。有り得ない。
激しい音を聞いて、巫女のアンと兵士が慌てて書斎に入って来た。
「聖下、ご無事ですか……!」
キャロルが軽く手を上げて無事である事を示した時、再び落雷。今度は宮殿から少し離れた楡の木に直撃。小爆発が起きて、雨の中でも激しい炎が上がった。
揺れる炎が、暴れる梢の前に影を作った。妙なことにそれは人の形となって、実体を持ちながら、宙に浮いている。書斎にいる誰もがそれに注目していた。次第に目が慣れて、それが明らかになる。
──浮かんでいるのは多指の少女であった。
外套を羽織り、石黄に輝く髪が、激しく風に踊っている。
ジャックは目を丸くして椅子から転げ落ちた。肌に粟が生じる。背筋に悪寒が走る。神秘は恐怖と表裏一体。恋焦がれていた偶像の出現は甘美なものではなく、それは絶望の色に似ていた。
多指の少女はジャックも巫女も兵も居ないものと扱い、静々と笑んでキャロルを見下ろしていた。
稲光。壊れた窓枠と葉の焼けた枝が交差して、巨大な十字の形を浮かせた。祈りの対象として見慣れたそれは、睥睨するように周囲を威圧し、キャロル以外の全員を恐怖で金縛りにした。
「誰かッ!!」
狼狽した巫女が助けを呼ぶ。外では警鐘と雷鳴が激しく鳴っている。
キャロルは祭服に隠していた煙草を取り出し、咥える。雨に濡れていたが、火の魔法で無理やり火種を作った。額には青筋が張っていた。
「私はお前が嫌いだ。やり方が気に食わない」
脳に直接語りかけて来る声がある。
『──私は全ての人間の福音。無論、貴女にとっても』
煙を吐き出しながら、強く、激しく強く、キャロルは多指の少女を睨めつける。黄金の瞳、憤怒に燃える。
「へぇ。歌わずに喋れたのか。しかも、キツめの北部訛りなんだな。可愛いじゃないか」
『南東へ』
明らかな示唆。絶対的な神秘。
「上等だ糞女。いつかお前の顔を殴ってやるよ」
神はエリカから贈られた真鍮の耳飾りをつけてみせ、『私の方が似合うだろう』と破顔した。
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