彗星
夜半、寝室の大窓から青白い光が漏れた。没薬と蘆薈を練って魔除けを作っていたキャロルは、何事かと顔を上げる。
暫く窓を見ていたが、光は弱まりもせず、消えることもない。ただ均一に照った。光の加減は月光よりも明らかに強く、妙であるから、キャロルは窓辺に寄って空を見上げた。
「彗星?」
──青い尾を引いた星が、燦然と夜空に輝いている。
それは流星とは異なり、つるりと空を滑ることがなかった。銀砂の星屑の中、貼り付けたようにぴたりと留まっている。
キャロルは彗星を見るのは初めてであった。というよりも、歴史書によれば最後に彗星が発生したのは180年前。今日を生きている人間の中でそれを見たことがある者などは法螺吹き以外にいない。
カンカンと短く鐘の音が鳴る。これは火事があったり魔物が現れたりした時に鳴らす警鐘である。流星や彗星は凶兆とされているから、今頃アンなどの巫女衆は慌ただしくしていることだろう。
キャロルは一杯の水を飲んでから、宮殿の外に出た。彗星は天変地異の前触れともされているので、何らかの異変があるかも知れない。少し胸騒ぎがした。
皓皓たる彗星の下、キャロルは青白い夜を行く。注意深く周囲を見るがこれと言った変化はない。風も穏やかで空気も澄んでいる。安閑としていた。
「……考え過ぎだったかな」
睡眠不足で敏感になっているのだろうか、と思いながら歩く。そのまま大聖堂の裏、『ミッドランド』と呼ばれる広大な庭園へ向かった。そして入眠の為の水薬でも作ろうかと薬圃に足を向けた時。芝に隠れていたであろう飛蝗が翅を広げてぴょんと跳ねた。
珍しい事ではない。長く伸びた芝の裏、虫が潜むなどは普通である。だが、違和感があってキャロルは立ち止まった。
「こんな所に飛蝗が……」
大白亜はホワイト=パイク山の頂上に位置する。当然ながら、地上よりも気温が低い。いたとしても、霜が降りる前には産卵を終えて、冬支度をするはずだ。でなくば、寒さで死ぬ。
予感がして、薬圃に向かった。そして膝を立て、石蕗の葉の裏をめくる。
すると、そこに1匹の飛蝗がしがみついていた。大きさは通常ほど。暗いので分かりづらいが、色は緑ではなく茶色に近い。そして、キャロルが知っている飛蝗よりも幾分か翅が長いように思えた。また、痩せてると言えばよいのか体つきが貧相で、脚は若干短いか。
些細な違い、小さな違和感かも知れない。ただの勘違いかも知れない。──だがキャロルには、彗星と妙な飛蝗が無関係とは思えなかった
「……原典が」
気がつけば、胸の原典も淡く光っている。
大聖堂から歌が聞こえ始めた。讃美歌312番「カレーディアの讃歌」、天の守護を乞うための歌。それに混じって神の歌が天から降りてくる。2つの旋律は反発しあい、不協和音となって頭の中で巡り、それらはやがて耳鳴りとなった。
原典の血が、小さな気泡を生み出している。何かを語るようにして、ぷつぷつと、途絶えることなく。
□□
世が明けて、白露破鏡月。朝になって、彗星は空の中に溶けながら、西の銀嶺に消えて行った。今は澄明な青空が広がっている。
午前9時、聖ダービー宮殿。真紅の絨毯の敷かれた謁見室に、大白亜派の重鎮が揃った。
北側の壁に巨大な綴織が飾られていて、これには神が与える3つの恵み『養ひ』『愛』『試練』が描かれる。向かって南側の壁には櫤の祭壇が置かれており、その中央には聖母カレーディアの頭蓋と、その両脇に聖ダービーの乳歯が置かれた。
玉座に座すのは輝聖リトル・キャロルである。その正面にクリストフ五世が立ち、書簡を広げた。そして老眼の為か、目を細めて言う。
「本日早暁。王国南部ハミルトン伯爵領ベッキンセイル山系西ハドリー山が弾けて、火を噴いた由」
壁に並び立つ長老や神官たちから小さく声が漏れた。
「その規模は」
「『尋常に非ざる』だそうだ」
キャロルは顎に手を当てて考え込んだ。以前本で知った、彗星についての記録を思い出そうとしている。
確か、180年前に彗星が観測された際にも変異があった。各地で嵐が起きたのと、その影響で川が溢れたらしい。その後は出水が発生して、死者が出たとか。今回の噴火はこれに相当するものなのだろうか。
もっと前に遡れば、リュカが馬裂きとなった年にも彗星が観測されていたはず。その年は大旱魃であった。当時の詳しい状況は残っていないが、『冬はなく、季節は夏のみとなった』とされるから、余程の事だったのだろうと思う。
噴火の規模は『尋常に非ざる』。もしそうなら、噴煙は乾いた霧となる。やがてそれは王国全土で太陽を隠す。
クリストフ五世は口重に語る。
「太陽が隠れれば今年の冬は厳しくなろうな。寒さで家畜が死ぬ」
「これは例えば、だが。夏まで太陽が隠れれば、どうなるかな」
「豊凶である。麦が育たぬ」
「つまり饑饉──」
神官たちが騒めく。事態は深刻であった。
数百年前、隣国カタロニアでは大饑饉があったとされる。同じく火山の噴火が影響していて、当時を記す文献によれば食べるものが野の草と人の骸しかなく、子供の人肉を葛と混ぜて練り合わせ、商人が犬肉団子として売る有様だった。──それと同じ事が、今の王国で起きようとしているのか。
「悪いが、まだ知らせは続くぞ」
キャロルは目を見開いてクリストフ五世を見た。
「王国北部では、激しい野火も発生している由」
「……それは原なのか、それとも山なのか」
原ならば鎮火は容易い。だが山の火は悲惨である。場合によって炎が下りて、街も田畑も飲み込む。灼熱から逃れた魔物が街に押し寄せるなど、二次的な被害も出た。
「山である、と聞いておる。彗星が出た事を考えると、それも『尋常に非ざる』規模やも知れぬな」
沈黙が続いて、キャロルがそろりと問う。
「……それで最後か?」
「否。まだある」
長老や神官たちが不安げな表情で、一斉にクリストフ五世を見る。
「王国東部では地が揺れたの報告あり。王国西部では類を見ない満潮。双方、被害は定かならず」
「どうする」
「急ぎ被害の程度を確認させる。差し当たってそれまでの間、巫女衆と神官に祈らせ、少年共に歌わせよう。諸領の都市では火を焚き、一心不乱に祈りを捧げよと下知する」
「私は輝聖としてどう動くべきだ」
クリストフ五世はキャロルの面相をちらりと見てから1つ咳払いをし、祭服に忍ばせておいた水筒を取り出し酒を呷る。火酒であった。そして、自らの手の震えがピタリとおさまったのを確認し、それに答える。
「お前にこの天変地異を鎮めることが出来るか?」
クリストフ五世は少しばかり瞳孔の広がった瞳で、キャロルを見つめた。
「──輝聖は玉座に座すべし。決して動いてはならぬ」
謁見室はしんと静まり返り、窓の外、風で楡の紅い葉が擦れるのが僅かに聞こえていた。
「大白亜は聖域にして、堅牢なる山城。いかな天変地異があろうと、この世で最も安全な場所と心得よ。輝聖を失うことだけは、あってはならん」
□□
同日、白露破鏡月。王国北部ジョセフ・スミス山系から発生した野火は樅の林を燃やし尽くし、フロスト=サザーランド公爵領の貿易都市マックールを含む幾つかの街を襲った。やがて大火となり、これを後に『北方大火』と名付ける。
翌、白露九日月。王国北東部で地が揺れた。フロスト=サザーランド公爵領、その隣領パドランド伯爵領に壊滅的な被害を齎した。
同日夜半、プラン=プライズ辺境伯領にて雹が発生。首都ウィンフィールドに被害が出る。
さらに同日深夜。王国西方の一部地域にて、全身から血が出る、あるいは皮膚の下で出血して腕や脚が血袋になる奇病が発生。黄疸が見られることから黄熱の一種と認める。適応する魔法、薬は見当たらず、マール伯爵領などの西部の諸領は関所を封鎖。
翌、白露十日夜。王国南部で舌疽が発生。
同日、王都で鼠が大量発生。地を埋め尽くすほどに現れ、民を狼狽させた。街中にも関わらず魔法で焼き殺そうとする阿呆がいて、王都東部で火災が発生。
同日、王国南部各地で断続的な落雷があった。その影響で山火事が発生、王室領・古セルジーの王室林から火が上がった。周囲の庄を巻き込み、後にこれを『セルジー大火』と名付ける。
翌、白露十日余。再び西ハドリー山が噴火。ハミルトン伯爵領軍は霊感のある美女8人を生贄に捧げたが、意味を成さなかった。
翌、白露扁桃。王国北西部で大嵐となる。川が溢れて出水となり、ヘス侯爵領などで川沿いの街が幾つか流された。
翌、白露十三夜。王都西にあるリンゼの庄で、住民が全滅しているのを旅商人が発見。黒死病と見られる。
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