別離
教皇の住居は聖ダービー宮殿である。従ってキャロルもそこに移された。
──法王の朝は早い。
午前5時。宮殿の廊下を提燈を持った巫女が輝聖の寝室に向かう。
巫女とはまじないに長ける若い尼のことである。彼女達の主な仕事は、星を見ながら祈祷すること。それから暦の異変を見つけることと、風や虫の動きを読んで天変地異を察知すること。祭日などには式楽も演じる。キャロルが法王になって以降は、侍女のような働きもしていた。
巫女は寝室の前に到着すると、そこで5時丁度まで待つ。5時前に扉を叩くのは非礼であるし、5時を過ぎて扉を叩くのは瑕疵であった。とは言えキャロルは不眠症なので、大抵この時間には起きていて、そもそも一睡もしていないことも間々あった。
「……」
キャロルは毎日困っている。一度、一晩中起きていたことを知られてしまったのだが、えらく心配されてしまった。その後はやたらと体調を気にかけてくるし、寝つきを良くする為に棗の水薬まで渡してくるから、居心地が悪い。以降、仕方なしに布団に包まり、5時まで待つ事にしている。
5時丁度となると、起床を告げるバグパイプの音が鳴る。これは巫女の連れてきた奏者が奏でる。そして、布団の中で音色を聴きながら、キャロルは思う。……法王に祭り上げられて、こんな寸劇を行う羽目になるとは。過去の自分が見たら莫迦だと笑うだろう。
「聖下、ご起床にございます」
扉が開いて祭服の巫女が入って来る。そして、キャロルは手水用の薔薇水の入った杯を受け取る。
杯は面向不背の逸品だった。金と銀で出来ているので、貧民街育ちのキャロルはどうにも落ち着かない。顔を洗うだけなのにこんな杯を使うだなんて、まるで三文小説の悪役貴族である。
□□
口を濯ぎ、顔と体を拭き終えると、巫女は帰ってゆく。
その後キャロルは、大抵絹の寝巻きのままこっそりと寝室を出る。そのまま宮殿の裏手に回って、誰にも見つからないように隠れて煙草を吸うのである。どうやら若い女が煙草を嗜むのは、巫女衆や神官たちにとって望ましいことではないらしい。
「寒っ……」
大白亜は山頂に位置する。中秋とは言え、朝は風が吹けば寒い。キャロルは肘をさすり、足踏みをする。
□□
3本ほど吸ったら寝室に戻り、香を焚いて蓮華座で瞑想を行う。程よい所で終わらせたら巫女を呼び出すのが決まり。すると朝餉の献立を紙に書いて持ってくるから、それを確認する。気に入らない点があれば修正して戻す。
「私はもっと簡素で良いと言っているつもりなのだけど……」
献立、毎度のことながら豪勢すぎる。今日の場合は鹿肉を丁子と煮たものや、野菜を蒸したものなどが出るようだ。
キャロルはそれらに線を引き、ポタージュとパンに改めた。前に『食材まで書いてくれないと困る』と物言いが付いたので、牛骨で出汁を取り、葡萄酒をベースとして韮葱、玉葱、甘藍を煮込めと指定した。
なお、朝餉は相伴衆と共にする。
相伴衆は大白亜に滞在する他領の重鎮である事が多いが、何人かはキャロルが指定できた。言ってしまえば朝餉は外交の場であり、食事を共にし、意見を交換するのが目的である。
□□
朝餉が出来上がる頃合いになると、バグパイプの音が響いて、数人の巫女が来る。着替えである。
キャロルは伝統的な祭服に着替えさせられるのだが、正直言ってこれが苦手である。布が厚いため重く、過ごしずらい。肌触りもゴワゴワとしているし、没薬の匂いが染み付いているし、着るだけで目眩と頭痛がしてくる。普段の格好になりたいと一度言ったことがあるが、巫女に顰め面をされてしまった。ダメらしい。
その後は食堂に移動。朝餉をとる。
今日の場合の相伴衆は以下である。マール伯爵家嫡男ジョッシュ・バトラー、それから盟友のライナス・レッドグレイヴ。2人は大白亜に駐在し、伯爵領軍を指揮して復興を手伝っていた。それから領軍の将が何人かと、クリストフ五世、あと長老が何人か。
(エリカは今回も来れなかったのか……)
キャロルは毎度エリカを相伴衆に指定しているのだが、今まで一度も来た事がなかった。宮殿に入ってからは会えてもいない。何をしているんだろう、とエリカの事を考えながらパンを千切っていると、ジョッシュが言った。
「して、大丈夫なのか。瘴気に近い各所で、変異があると聞いているぞ」
初耳だった。キャロルは聞き返す。
「変異……?」
「そうらしい。魔物が次々に現れると聞いておる。決して大袈裟ではなく、夏の蕺草が如く湧き出るとな。なあ、ライナス」
ライナスは肯定も否定もせず、静かに鹿肉を切って口に入れた。
「もっと詳しく聞かせてほしい。大発生をそのままにしておくと、狗惨のようになるぞ」
狗惨とは隣国ナヴァラ朝カタロニアで起きた、三つ首の魔物、冥犬の大発生である。
「場合によっては私が軍を率いて──」
キャロルが言うと、クリストフ五世が割って入る。
「黙して食え、キャロル。気にするほどの事ではないわ。斯様な魔物など、諸侯が対処しよるわ」
続ける。
「法王たる者がうかうかと動いては『落ち着きがない』『頼りない』と失望されるぞ。場合によっては無礼千万だと罵りを受けよう。騎士の自尊心を甘く見るなよ」
言って、じろりとキャロルを睨んだ。険悪な雰囲気が食堂に立ち込める。
クリストフ五世とキャロルの関係は深い。2人は貧民街を出て学園へ向かうまで、共に旅をした。魔物や野盗を征伐して回り、戦闘技術の助言も受けたが、師弟関係という雰囲気ではない。どちらかと言えば対等の存在、いや、犬猿の仲に近かった。
「法王たるもの小さなことに捉われず、広い視野で物事を捉えよ」
「小さなことだと?」
「左様。お前が考えねばならぬ事は、その玉座にしがみ付くことである。絶対に降りてはならん。輝聖の世である限り、世界は救われる」
暫しの沈黙の後、そしてキャロルは諦めたように小さくため息をつき、食事を再開した。
この険悪な空気を察したのか、そもそもとして空気の読めない質なのか、ジョッシュがケロリと明るい声色で言う。
「なあに、心配無用。万が一はこの俺が兵を率いて凡ゆる戦場に馳せ参じ、自慢の槍捌きで魔物共を一網打尽にして見せるわ。わははは。輝聖の出番など作らせまいて!」
その隣でライナスは呆れた顔でもしゃもしゃとパンを食べた。よくもこの状況で、のほほんとした発言ができるものだ。天晴れである。
□□
朝餉の後、キャロルは図書館に向かった。少しばかり本を拝借しようと思っただけに過ぎなかったが、なんと15人の人間がついてきた。2人が巫女、3人が下男下女、残りは兵である。なんでも警護の為らしい。
キャロルは思う。仮に何者かに襲われたとして、自分1人で立ち回った方が上手く動ける。周囲にこれだけいると守るべき人間が増えて大変。だがそれを説いても、形式上ついて行かなくてはならないと言われてしまった。煙草を吸いたい気持ちを抑えながら、歩く。
キャロルは隣にぴたりと着く12歳程度の若い巫女に問うた。
「王国の各所で魔物の大発生が起きているらしいが、それは本当か?」
「さあ……。私は存じませぬ」
本当に知らないような反応だったので、キャロルは少し肩を落とした。
「不安だな。私はカタロニアにも行かなくてはと思っているのに」
「聖下が隣国へ?」
「メリッサとの約束があるんだ。瘴気を祓い、カタロニアの民達を救いたい」
「ですが輝聖の御身は1つでございます。今、王国を離れる事は……」
「分かっている。でも、何で私の体は1つしかないんだろうな。もし私が2人いれば、一方は王国で大量の魔物を倒して、もう一方はカタロニアに向かうのに。神も気を遣ってそうしてくれれば良かった。中途半端なんだ、やり方が」
「御身は1つ。いくら足掻いても1つにございます。他国にうつつを抜かしていると、我が王国もカタロニアと同じになりましょう」
童に近い女子からの手厳しい意見。槌で頭を殴られたようだった。キャロルは苦く笑ってから、巫女を見る。
「名前は?」
「アンと申します」
「そうか、アン。お前は私に何を求める?」
アンは目をパチクリと瞬いた。まさか巫女である己に、こんな事を聞かれるとは思わなかったから。
「法王聖下の御威光を国家の隅々にまで行き届かせて下さいませ。永久に玉座に座し続けますよう」
「クリストフ5世と同じ意見か。それじゃまるで偶像だが……」
「輝聖も崇拝の対象となりますれば」
「そうだな。私は輝聖、か。変わらなきゃいけないのかな……」
図書館に到着し、幾つかの魔導書や学術書を借りる。借りると言ってもキャロルが手に取るわけにはいかず、本棚の前に立って目当ての本を指差し、下男下女に取ってもらうのだった。我ながら何様のつもりだろう、とキャロルは自分が情けなくなる。
□□
キャロルは書斎に行き、諸々の聖務を始めた。ここ数日行っているのは大白亜派としての聖人を決める事。つまり、列聖させる人物の選定業務である。
聖人とは神のために命を捧げた人間のことを言う。大白亜派の場合は『神と輝聖および聖女』の為に殉死した人間の内、特に徳の高い者を列聖させた。
「アン、居るか」
扉の外で待っていた巫女のアンは、音を立てずに扉を開け、書斎に入る。
「エリカ・フォルダンという少女を知っているか?」
「いえ、存じ上げません」
「銀髪の戦士だ。私の従者として記録されているはずだ。少しだけでも良いから、話がしたいんだ、彼女と」
「私の判断では……」
アンを困らせてしまった事を声色から悟って、キャロルは申し訳なさげに笑んだ。日々の生活に疲れてしまったから、エリカの笑顔を見て、エリカの声が聞ければ、それだけで気力が回復すると思ったのだが。それに、もう7日は会っていない。
「ありがとう。大丈夫。気にしないでくれ」
□□
聖務にある程度の区切りがついたら、夕餉である。夜は1人の事が多かった。
キャロルが指定した通り、ポタージュとパンが食堂に運ばれてきて、沢山の蝋燭が立てられた長卓の上で1人食べる。
食堂は静かである。ぼうと火の音がしているのと、食器と食器の当たるカチカチとした冷たい音がする以外に、何もない。
「エリカは何をしているのだろう。会いたいな。声を聞きたい……」
食事が終われば書斎に戻り、翌朝の相伴衆を指定する。当然のように、エリカ・フォルダンと記した。
キャロルは頬杖を付いて、燈の炎を眺めた。エリカと2人で火を焚いて、料理をしたり語らったりした事を思い出す。すると自然に笑みが溢れて、だけれど会えない事に切なくなって、少しばかり目を伏せる。
──私のことはもう忘れてしまったのだろうか。少しくらい、顔を見せてくれてもいいのに。
机の上には、スレイローの街でエリカから貰った耳飾りが置かれている。法王に相応しくないとして、身に付けさせて貰えない。
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