救済(前)
ニスモは放心したまま呟いた。
「なんで。どうしてクララがそこにいるの?」
金の髪の少女──クララ・ドーソンが雨の中で倒れている。腹に雄鹿の頭、漏れ出てゆく赤い血。白っぽい泥と水たまりが仄かに赤く染まる。
クララは月が熟す中、賢馬ソロモンに跨り、とにかく駆けた。赤い竜に乗った少女に再び会う為、一心不乱に駆けた。
月の附子はクララをも蝕んだ。空が赤く染まった瞬間から、頭が途轍もなく痛んで、体が重くて力も入らなかった。意識まで朦朧として来て途中吐き戻したが、それでも額に汗を滲ませながら必死に手綱を握って、ソロモンを走らせた。
ソロモンも背中から伝わるクララの思いを感じて、一生懸命に応じた。ソロモンは巨馬であるから心肺機能も強い。繊細な作りをしている人間に比べると、月毒の効きが悪かった。
追っている途中で竜が見えなくなった。空が赤く染まって、判別が利かなくなったのだと思う。飛んで行った方向だけは分かっていたから、あとは直感で追った。
その中で不思議な体験をした。妙な歌が聞こえて、それに導かれるような気がしたのだ。何か霊的なものが作用したのだと、クララは思う。
聖都周辺、人のいない集落に辿り着いた時。流石のソロモンも限界を迎えて倒れ込んだ。そこからはクララ1人で駆けた。覚束ない足取りで、時に転げながら、歌の聞こえる方へと必死に駆けた。
泥濘みのある痩せ地をひたすらに行くと、2人の姿が目に飛び込んだ。海聖と焔聖だった。それを認めた時、歌は消えた。
クララが見るに、状況は切迫していた。会いたくてしようがなかった赤い髪の少女が、マリアベルを射抜こうとしている。その理由はわからない。──わからないけれど、体が勝手に動いた。気づけばマリアベルの前に体を投げ出していた。まるでそれは地下墓地ラナで、マリアベルがクララの前に身を投げ出したのと同じようであった。
「クララ。しっかりして」
マリアベルはふらふらとクララに寄り、傷の具合を見る。
鹿の角は背を貫通して飛び出している。血の量も少なくはない。だが角が貫ぬいている割にこの程度の出血で済んでいるのなら、とマリアベルは少しばかり安心した。意識もあるようだし、角が臓器を痛めつけない形で刺さっているのかも知れない。──でも、聖墓矢は必ず敵を穿つはず。それが急所を外した。何故だろう。
疑問に思って、直ぐに気がついた。腕輪に大きな傷がついている。矢がこれを掠めたから軌道が逸れたのだ。
(お母様が守ってくれたんだ)
クララは力無く口を開く。
「聖女様、わたし……」
「喋らないで。あなたが死ぬことは絶対に許しません。仮に死んでみなさい。調伏します」
マリアベルは丁寧に雄鹿の角を引き抜いてゆく。できるだけ臓器を傷つけないように、慎重に、慎重に。
「クララ……。クララ、クララ……!」
泣きそうな顔で座り込むニスモを見て、クララは少し笑った。
「ずっと会いたかった……。探してたの。私、伝えたくて。あなたは、王様を殺しちゃうような子じゃない。もし、世界の誰もがあなたの敵になっても、私だけは、ずっと友達……」
そしてクララはゆっくりと目を閉じる。その後、ぴくりとも動かなくなった。
ニスモは2人に這い寄った。そしてクララの顔を見て、血の気が引いた。それは『認めたくなさ』とでも言おうか、小さな絶望が真っ赤に灼けた針になって、ちくりと心臓を刺した。
クララの顔に化粧が施されている。美しく、見ようによっては妖麗であり、大人びている。
クララの身につける鎧、美しく、精巧だ。ピピン公爵領軍の鎧だろうか、まるで戦乙女である。
クララの掌には、幾つかの血豆。これは手綱を握っていたからか。そして肩には刺さったままの矢。
目を閉じているが、顔つきも、どこか違う。
そこにいるのは、デュダで出会った儚げな少女であって、そうではない。
大人になった、一人の戦士だった。
クララは『会いたかった、探していた』と言っていた。つまり、クララは私に会うために変わったのだ。傷だらけの鎧や矢傷を見れば、過酷な状況に身を投じて来たことも想像できる。
──成長した姿で、クララは再び現れた。
胸が痛んだ。ひどい痛みだった。マリアベルに殴られたことや、崖から落ちて頭が割れたことよりも痛いかも知れない。
「クララ──」
その体に触れようと手を伸ばした時、駆けて来た賢馬ソロモンが現れて、ニスモを後ろ足で蹴り付けた。激しく飛ばされたニスモはべしゃりと泥を跳ねて、力無く倒れ込む。
ソロモンは激しく嘶き、ニスモに対して威嚇をした。これ以上近寄らせるものかと、強くニスモを睨みつけた。激しく敵意を向けられ、それでニスモはクララの敵になったことを理解した。
聖墓矢は必ず敵を穿つ。そしてそれは、クララを貫いた。つまりは、自分にとってもクララは敵という証左に他ならない。
なぜ? こんなに大切に思っているのに?
もしかして、クララがいなければ。クララという少女に出会わなければ、私は心を乱されずに済んだと、私自身が、そう思っていた?
心のどこか、ほんの片隅にでも、クララを疎ましく思う気持ちがあった。彼女が消えてなくなれば、私は私のままでいられて、苦しまずに、足掻かずにいられるのにと、そう思っていた?
──なんて自分勝手な。なんて幼い。
目の前が真っ暗になった。悲しすぎると涙も出ないのだな、と思った。ああ、いつか同じ事を思ったのだっけ。
クララは成長した。己は取り残されている。断頭台の上の少女は少女のままだ。周囲のあらゆる人から置いてけぼりにされていく。
「私、本当にだめね。私は何がしたいの?」
マリアベルは自身の襯衣を脱ぎ、あられもない姿を晒しながら、ぎゅうぎゅうとクララの傷口を圧迫した。そして回復魔法を施しながら、ニスモの問いに答えた。
「変わり方を知りたいって、自分で言っていた気がしましたが」
ニスモは沈黙する。
「今の自分を変えて、聖女が救いの者であることを示したいのではないのですか?」
「私にはそれは出来ない」
「呆れた。まだ言うのですか」
「でも、代わりにあなたが示して。聖女が不幸を呼ぶ存在じゃないと証明して」
思わぬ答えが返って来て、マリアベルは顔を上げてニスモを見た。濡れた髪が顔を覆っていたから何とも言えないが、彼女は少しばかり笑っているように見えた。どこか毒気の抜けた、さっぱりとした笑みだった。だが、涙は止めどなく流れているようだった。それは、肩がひくひくと震えていたから。
「必ずクララを治して。クララを元通りにして。出来れば、傷跡も残さないであげて。そうすれば、私は救われる」
「ニスモ・フランベルジュ……」
「私に教えて。聖女が救いだって事を」
がらがらと音を立て、土砂と共に獄炎竜が転がり落ちて来た。激しく泥を跳ねて、ずしんと地を揺らす。ニスモが彼女を呼んだ。
ニスモは東の方角を見る。なだらかに続く麓の先に、緑豊かなローズバレーが見える。そこでは既に、2つの勢力が戦っている。一方はピピン公爵領軍。もう一方はウィカー伯爵領軍、つまり三の城の勢力。
彼らに向かって、また別勢力の騎馬の大群が突っ込もうとしている。軍勢は燦々と輝く赤い聖鳥章を掲げ、正教軍の旗も靡かせている。
マリアベルは呟く。
「もう正教軍が来たのか……」
不味い。早く行かないと。パトリシアが、ロック卿が危ない。みんなが死んでしまう。だが、クララの傷はまだ塞がっていない。このまま放っておくわけには──。
「クララをお願い。そのまま治療を続けて」
言ってニスモは竜の頭に登り、幾つかある杭の一つをぐいと傾けた。すると竜は金切り声をあげて、口から大量の熱された血を溢す。それに雨が降り注ぎ、水蒸気が音を立てて上る。周囲は一気に霧がかった。
「焔聖、あなたどうするつもり?」
「大白亜を守る。それが元々、私に課せられた仕事だから」
竜は大きな翼を広げ、羽ばたいた。凄まじい風圧、マリアベルはクララが飛ばされないように覆い被さる。
ニスモと竜はローズバレーに向けて飛び立つ。そして迫る正教軍に対し、上空から炎の球を降らせた。これを受けて正教軍は統率を失う。次いで、ウィカー伯爵領軍に攻撃を仕掛け、ピピン公爵領軍を援護した。クララが公爵領軍の装備を身につけていたから、彼女の味方なのだろうという判断だった。
マリアベルは激しい雨の中で竜が炎を降らすのを暫く見て、それからまたクララの傷の処置を再開した。
面白いと思ってくださったら、下部のボタンから★評価をお願いいたします。
作品ブクマ、作者フォローもしていただけると嬉しいです。