闘諍
2人は互いに組み合いながら、激しい雨で溶け出した粘土の崖を滑るようにして転がり落ちた。ニスモの手には聖墓矢はなく、マリアベルの手には石剣はない。それら武器も同じように崖を転げてゆく。
「海聖マリアベルッ! 何のつもりだ! 私の邪魔をするなッ!」
苦しく言って、ニスモはマリアベルを振り解こうとした。だが、それが出来ない。海聖の力が強すぎるし、滑りながら転げながらでは、上手く力も入らなかった。
「キャロルちゃんは殺させない! あの子は世界の希望だ! それを絶やさせるものか!」
団子のようになりながら転がる。剥き出しの岩に体を打ちつけても、倒れた巨木に衝突しても、2人は離れない。やがて崖が終わり、粘土溜まりに体を突っ込む。高く泥が跳ね、雨と共に落ちて降り注いだ。
「黙れッ! 聖女が希望なものかッ! あの女は善性を振り翳して、私を破壊していくッ!」
ニスモはマリアベルの顔を肘で打った。鋭い攻撃は鼻を砕く。魔力切れを起こしているからマリアベルは鼻血を噴き出した。
「あの女の善性は私を救ってはくれないんだッ! 正義の面をして私を平気で傷つける! 善の自分に酔いしれて、人を傷つける事に慣れてしまった人間なんて、悪人と何も変わりはないじゃないかッ!」
マリアベルは噴き出る鼻血に構うことなく、ぐっとニスモの前髪を掴み、力一杯に土に押さえつけた。
「分かったような口を利いてッ! 教えてやる! 私が、教えてやるッ!」
そして馬乗りになり、拳で顔を殴り返した。何度も、何度も殴り続ける。
「私はあの子の全部を知りたかった! 全部を手に入れたくて、全部を傍で見てきた! だからわかるッ! ──あの子の優しさは自傷でしかないんだッ!」
ニスモは拳を真っ向から受けることしか出来ない。獣物のような凄まじい気迫に恐怖を感じながら、顫動し、息を止めていた。
「それはきっと、キャロルちゃんも気づいていない! 私だけが知っているッ! 誰よりもあの子を見つめ続けたこの私が言うんだから、間違いないんだッ!」
ニスモの口や鼻、目から炎が噴き出す。これは聖女の血であるが、身を守るために血が凶器となって噴くのだった。その炎がマリアベルを覆うが、それでも臆せず、マリアベルは殴り続けた。
「自分が救われたくて、相手に優しくなって欲しくて、その為に自分が傷つく事に慣れてしまった、本末転倒も甚だしい馬鹿な女ッ! あの子は自分が深く傷つくごとに、もっと優しい人になりたいと思い詰めるっ。思い詰めて、直向きに努力をするっ。こんなにも悲しくて、痛々しい子を、お前はっ……!」
「リトル・キャロルの陰に隠れて、リトル・キャロルを利用していたお前が言う台詞じゃないッ!」
「そうだよ! その自傷を利用して、私は気持ち良くなっていた! 私を苦しめたあの優しい子が、私だけを見てくれる事がたまらなく嬉しくて、安心して、幸せだったんだッ‼︎」
「離れろッ! 離れろッ‼︎」
「でもキャロルちゃんに再会して、私は自分を変えたくなった! 卑怯で、自分よがりで、醜くなっていた自分を元に戻したかった‼︎」
「お前はキャロルによって変われたと、そう言いたいのか!」
「そうだッ! キャロルちゃんは私を変えてくれたッ!」
「でも、私はそうじゃない! 私はキャロルに苦しめられ続けている! お前みたいに、救われた側の意見など、私には苦しいだけだッ!」
ニスモはマリアベルの口の中に右手を突っ込み、頬を引っ張って横に倒した。ようやく馬乗りから解放される。だがマリアベルは全力でニスモの指を噛み千切ろうとしている。
だからニスモは、余った左手で、泥に押し付けるようにしてマリアベルの首を絞めた。
「だったら教えてくれマリアベル。──どうしたら私は私を認められる? どうしたら私は私を好きになれる? どうしたら皆を好きになれる? 今の私を捨てて、変われる方法があるなら、教えてくれ……ッ!」
歯を食いしばり、さらに力を入れる。その目には黒く煤けた涙が溜まっていた。
「その方法は誰も教えてはくれないんだッ! 私だけが悩んで、私だけが苦しんで、誰も助けてはくれない!」
マリアベルは目を見開き、舌を突き出し、顔を真っ赤にしながら、何とか言葉を絞り出す。酸欠で頭が回らない。力も入らなくなってきた。
「輝聖は、聖女たちを導く……。私たちを救い出す……。それが、神が与えたキャロルちゃんの力だから……」
「キャロル、キャロルと、色狂いめ……!」
「──あなたには、あの子に心を揺らされたことはないの?」
言われて、川辺の景色を思い出した。
緑が揺れて影を落としていた。水面は光り輝いていた。聞こえてくる侮辱に耐えながら、キャロルは腹の傷を処置していた。あの、美しい横顔。いつも怯えていて、バーダー家の教えを守る事しか出来なかった自分とは違う人生を歩んできたであろう気高さが、横顔に滲んでいた。
そして、姉と同じ言葉を発した時。激しい嫌悪が胃から迫り上がって来た。だが、その内に潜んでいた、僅か、ほんの僅かながらの、救い。あれは、彼女を心から受け入れる事ができれば、手にすることが出来たかも知れない、喜びの形──。
ニスモは泣き出すかのように震えて、声を裏返しながら叫んだ。
「──私は期待していたのにっ! 期待していたのに、あいつが私を裏切ったんだ!」
マリアベルはニスモの腕を掴み、強靭な力でそれを引き剥がす。みしり、と骨の軋む音がした。怒りで力が戻ってきた。今の発言、聞き捨てならない。
「か、勝手に期待を寄せて、勝手に裏切られて、それで悲劇を語るな、下品な阿婆擦れがッ!」
「お前に、私の何が分かるッ!」
「みんな辛いんだッ! それでも生きていける方法を模索しなきゃいけないと言うのにッ!」
「一緒にするなッ! 私はお前らとは違うッ! 人の気持ちも分からないお前なんか、大嫌いだッ!」
ニスモは激昂して、喉元にがぶりと噛みついた。マリアベルはごぼごぼと血の泡を噴く。
「は、恥を失った獣物が……!」
噛みつきながらふごふごとニスモは言う。
「聖女なんかいなければいいんだ。聖女の運命は多くの人を巻き込んで不幸にしていく……、私が姉さんを殺したように、お前の領が滅んだように、無関係な、善良な人間が死んでいく……っ」
「は、話をすり替えるなッ! ちゃんと向き合え……ッ!」
マリアベルはニスモを離そうと、蹴り上げる。だが、がっちりと組まれて剥がせない。体を跳ねても抜け出せない。焦りが募る。まさか、このまま食い殺される? こんな身勝手な女の腹に収まって堪るか!
「もうキャロルとは十分に向き合った……、あの女は私を救ってはくれない、お前も私を救ってくれない……。それが全てだ、私にとってはっ」
「キャロルちゃんだって私たちと同じ、18歳の女の子なんだ、超人なんかじゃない……! アンタが思ってるほどリトル・キャロルは強くない……!」
「あいつは私なんかとは違う……ッ! 私と姉さんが諦めた理想を、いつまでも掲げられるくらいに恵まれてるんだッ! それがなぜ分からない……っ」
「違うっ! 繊細で、優しくて、真面目で、仲間思いで……! 綺麗で、笑うと可愛くて……! ただの女の子だよっ! 私たちと一緒だっ! ──お前が不貞腐れて拗ねてる間に、勝手にお前を救い出してくれると思うなッ!」
マリアベルは全身全霊を込めて横に転がった。さらに彼女の乳房を思い切り握り、髪を引っ張る。しかしニスモはマリアベルの喉を喰らい続ける。団子のまま転がっていく。
2人の間には、もはや学園で培った戦闘技術も、才能に裏付けられた多彩な魔法も、なにもかもが存在しない。ただただ醜く組み合いながら、もがき、無様に、汚らしく、2人は泥水の上を転がっていった。
そして崖から落ちる。今度は絶壁だった。
垂直落下、2人は激しく地に叩きつけられ、パンと破裂音のような音が鳴った。凡そ人間の出す音では無かったが、ニスモとマリアベルはついに解放され、別々に転がる。崖下はもう山では無く、岳麓にある局所的な痩せ地で、細々とした羊歯しか生えていなかった。
白っぽい泥と水溜りの上、双方激しく体を打って息が出来ない。マリアベルの頭からは夥しい量の血が流れているし、ニスモの体は炎と黒煙を上げるばかりか、頭が割れて左目の目玉が溢れ出たのだろう、四つん這いになり、震える手で顔を押さえ、それを戻そうとしている。
立つことの出来ないニスモの前には聖墓矢と弓が、蹲るマリアベルの前には石剣が転がって来た。まるで見えない糸で引っ張られたかのようだった。
それで、マリアベルは何とか石剣を握り、杖にして起き上がる。左目からは血が流れ出ている。潰れたらしい。ニスモと同じく機能していない。
「ねえ、ニスモ・フランベルジュ……。人を憎んで、人を傷つけて、勝手に苦しんで、勝手に人のせいにして、無意味な方向に踠いて……。そして、ある日突然、嫌いな自分になっていた事に気がついて、涙を流す……。私たちはそれを、何回、何百回、同じ事を繰り返していけばいいの? それで幸せになれるの?」
マリアベルの腹の傷が開いて、大量の血が漏れ出ていた。声は枯れ果て、血の痰が絡んでいる。ぜぇぜぇという息の音と一緒になった声と虚な瞳で、雨の中語りかけ続ける。
「もうやめようよ、こんな事は。人を巻き込んでるのは、貴女自身の選択……。本当は、分かっているんでしょう……?」
そしてふらふらとニスモに寄る。
「これはキャロルちゃんの為でも、世界の為でもない。聖女だなんて関係ない。ただ、私たちの為。私たちが救われる為。自分自身の為に言っているんだ……」
ニスモは這いつくばりながら、聖墓矢に手を伸ばした。飛び出た眼球は諦めて千切って捨てていた。どうせまた復活する。
「綺麗事ばかりだ。私たちは聖女。私たちが聖女であるから、苦しみが生まれるのよ……」
弓も手にする。
「仮に私たちが傷を舐め合う事で幸福に包まれるとして、私たちの運命に巻き込まれる人達はどうするの……? その人達は、私達が存在する限り救われない。救いの聖女なら、その弱い人達を救うべきでしょう?」
ふらりと立ち上がり、魔弾と同化した聖墓矢を手に弓を引く。狙いはマリアベルである。
「そして、私はもう、大切な人を失いたくない。領を失ったあなたには、この気持ちが分かるはずよ」
2人は見つめ合う。互いの瞳は過去へ向けられているようでもあり、今現在、目の前の敵を捉えているようでもあった。言うなれば、無事な右の瞳が今を、失われた左の瞳は過去を映している。
「あなたを殺して、私も死ぬわ。こんな体じゃ輝聖とは戦えない」
マリアベルは言葉を返さなかった。ただ、心の中で、至極淡白に思った。
──私が思ってる以上に弱いんだ、この子。
聖女全員を殺すと宣いながら、それを最後までやり遂げる勇気も覚悟もない。それが今の発言に滲み出ている。
でも、気持ちも分かる。辛くて辛くてしょうがなくて、だから自らが一番憎む事をしてしまうという、人間の愚か過ぎる部分、つまり阿呆の極みとしか言いようのない大きな矛盾が、己の中にも存在していたから。いや、きっと、今だって存在したままだ。人ってそんなものなのだと思う。
自分の場合はモラン卿と同じになっていた事。そしてこの子の場合は、大嫌いな自分のまま、変わることができない事。
それを理解した時、マリアベルは焔聖を救いたいと思った。なんだか、こんな気分になるのは初めてだった。朧げながら、リトル・キャロルが人を救う理由のようなものが分かった気がした。
──焔聖は本当に矢を放つつもり?
こういう時、キャロルならどうするだろう。親愛なる友人キャロルなら、どう彼女を救うだろう。考えて、1つの答えが導き出された。
マリアベルは石剣を手から放す。べしゃりと泥が跳ねた。次いで、両腕を左右に広げた。射るなら射れと、真っ直ぐにニスモを見つめる。
──馬鹿みたい。
心の中で呟く。
答えを言語化するなら、こうだ。
救うというよりは、信じる。
信じてだめなら、その時は。どうしよう。
立ち上がって、また信じるしかない、か。
とにかく愚直であること。馬鹿だが、それが一番気持ちが伝わる。無理に懊悩の関鍵に触れるよりは良い。
それに、狙っているわけではないが、自分の胸に矢が刺さった時に苦しげな表情を見せれば、心に隙が生まれて優しさを取り戻せるかも知れない。人は悪意だけを持ち合わせてはいない。必ず優しさがあって、分かり合える余地があるはず。
リトル・キャロルの純然たる想いとは少し違って打算に近い考えかも知れないが、確かにこれも自傷でもあるし、或いは強い優しさでもあるなと思った。それで笑ってしまう。なんだかキャロルに近づいたような気がして嬉しいのと、本当に馬鹿になったと思ったから。
「お前まで、私を馬鹿にするっ。もう、もう沢山だ……っ!」
ニスモは慟哭しながら、震える手でもっと強く弓を引いた。
「私の聖墓矢は敵とする者を必ず射抜くッ! お前を射抜くッ! 死ぬぞッ!」
「その時は、その時に考える」
マリアベルは息を吸う。雨と土の臭いを感じる。冷静だった。
「──キャロルのような事をッ!」
ニスモは矢を放った。それは真っ直ぐとマリアベルの胸へと向かっていく。
刹那、何者かが颯のように駆けて、マリアベルの前に体を投げ出した。
一瞬だった。その者の腹に聖墓矢は吸い込まれ、それは直ぐに腐った鹿の頭に変わった。そして彼女は金の髪を輝かせて、滑るようにして倒れ込み、起きあがろうと少し泥を掻いて、動かなくなる。
泥に染まった白い鎧、腕には月白の腕輪。
「……クララ?」
マリアベルは目を見開き、ぼそりと呟く。そしてニスモは力無くその場に座り込んだ。
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