花化粧
広場に降った火球は竜の痰である。だからだろうか、熱された鉄のようにどろりとしていて、雨の中でも残って燃えていた。それでも冷やされた事で黒煙が立ち昇るから、視界が悪い。硝煙のような臭いも強烈で、噎せ返りそうな程だった。
竜は静かになった。死んではいないようだが、動く気力もないらしい。
ニスモはキャロルの出方を見ていた。左手に魔弾と同化した聖墓矢を持ち、右手に弓を持ったまま、キャロルを睨む。
一方のキャロルはじっとニスモを見ていた。キャロルが焔聖に攻撃を仕掛けようという気配は、マリアベルには感じられなかった。
──甘い。
マリアベルは心の中で苛立った。焦りに限りなく近い苛立ちだった。
──甘すぎる。
マリアベルはキャロルの事を誰よりも近くで見てきたと自負しているし、この世界の誰よりも、それも病的に意識してきたつもりである。だから、彼女の考えている事が分かる。
──この子、対話しようとしている。
確か、マール伯爵嫡男ジョッシュの私的な手紙によれば、ニスモは身を挺してキャロルを庇った。その事にキャロルはひどく動揺したとされる。
ニスモが庇った理由は、正直言って分からない。多分、キャロルも分かっていない。だからこそキャロルはニスモと対話ができると思っているし、対話する必要があると思っている。
対話のために、敵意を向けられても防衛しようとしない。何なら、受け入れてしまうつもりだ。たとえ、あの聖墓矢に聖女を殺す力が備わっているとしても。あの夏の日の朝、私が抜いた石剣を素手で掴んで、対話を試みたように。
──それじゃダメだ。
だが、今はあの夏の朝とは程度が違う。焔聖が持つのは石剣ではなく、聖女を殺すかもしれない聖墓矢。
──焔聖を斬るべきだ。
腰に下げた石剣に手を添える。……ここは、キャロルと協力して焔聖を倒すべきだろう。その後で対話をすれば良い。それが理に適っている。
マリアベルはキャロルを見た。動きを合わせろと、目で合図を送った。だが、キャロルは小さく首を横に振る。
──馬鹿。馬鹿、馬鹿! 甘すぎる! 反吐が出る! 潔癖であろうとするなよ! そんな場合じゃないのに!
相手は焔聖ニスモ・フランベルジュだ。キャロルに激しい敵意を抱いている事は明確で、その上、何があったのかは知らないが聖女を殺すなどと息巻いているし、不安定な事この上ない。危険すぎる。
ニスモは聖墓矢を手に弓を構え、グググと力を込めて弦を引き始めた。キャロルに狙いを定める。
「くっ……!」
マリアベルは小さな声を漏らして、剣の柄を強く握った。
隙を見て切り掛かるか。いや、だめだ。焔聖に隙などない。ただ弓を引いているだけなのに、まるで彫刻美術のように全方位に気を放っている。痺れるくらいだ。武芸に秀でた所のない私などが真っ向から戦って、勝てる相手ではない。
あの矢を受けたら危険だ。当たり所が悪ければ、私も一撃で死ぬかもしれない。でも、リアンとの約束がある。クララを笑顔で迎えたい。パトリシアと茶会をしたい。巡礼を続けなくてはならない。生きて帰らなきゃならない理由が山ほどある。
ならば放たれた聖墓矢を一思いに叩き斬ろう。それでキャロルを守ろう。……出来るのだろうか、私に。集中して、剣を振るえば何とかなるか。いや、聖墓矢は敵と定めたものを必ず射抜くとされる。叩き斬る自信は、正直ない。私にキャロルやニスモくらいに実戦の能力があれば出来たかも知れないが。
空に稲光が走り、キャロルが口を開く。豪雨と雷鳴の中でも、その声は確かにマリアベルに聞こえた。
「ニスモ。それでお前が満足するなら、撃て」
黒煙の中で光るキャロルの黄金の眼光、その濁りのない宇宙、焼け付くような決意の輝きは、全てを受け入れることの現れ。
対して、ニスモは深く息をしていた。──おかしい。先ほどから、おかしいのだ。キャロルの姿が、姉ジャンヌに見える。月毒がまだ体に残っているからだろうか。それとも雨粒で霞む目がそう見せるだけか。まさか、光の聖女の威光がそうさせるのか。
手を広げて、いつものように全てを受け入れてくれる姉の姿が、見えるのだ。赤い髪、少しの雀斑。優しい微笑みが、見えるのだ。
「ば、馬鹿にしてるのか。姉さんがここにいるわけがない。姉さんは死んだんだ……」
光の中の希望を塗り潰すために、ニスモは憎悪を燃え上がらせる。瞳が赤黒く燃える。
「お前はいつもそうやって、寄り添うつもりで私を馬鹿にする……! もううんざりだ! お前が目の前にいると、私は狂う! 気狂いになっていくッ!」
マリアベルは焦った。キャロルの発言が、ニスモの憎悪を焚きつけたように思えた。本当に矢を放つつもりだ。
「やめて。弓を下げなさいッ!」
言って、今度はキャロルを見て怒鳴る。
「なんで避けようとしないの⁉︎ 何でそんな風にしか接する事が出来ないの⁉︎ 私の時みたいに全部が上手くいくとは限らないッ‼︎ やり方、間違えてる! 間違えて──」
そして矢が放たれた。それは真っ直ぐにキャロルの胸へと向かって行き、すとんと刺さる。マリアベルの中で時が止まった。
キャロルは跪き、口から血を漏らした。胸に刺さった矢は一瞬で鹿の頭に変わる。魔弾と同化した影響からか真っ当な鹿の頭ではなく、膿んで腐って、半分蕩けたようなものであった。
ニスモは肩で息をしている。少しくらいは避けようとすると思ったが、ただ直立しているだけだったから驚いたし、動揺した。
「……これで満足か?」
キャロルはふらりと立ち上がって、またニスモを見る。それで煽られたと思ったのだろう、ニスモもまた聖墓矢を手に、弓を引いた。
マリアベルはわなわなと震えながらキャロルを見ていた。胸からはさまざまな花が溢れて、彼女を美しく、華やかに飾っていた。対して、口と鼻からは真っ赤な血が流れている。腐った鹿の頭が魔力を吸うらしい。これを見て冷静でいられる程マリアベルは達観してない。手足は冷えて、目は泳ぎ、頭もくらくらとした。
──2発も矢を受けたら。
キャロルはニスモから目線を切って、マリアベルを見た。そして、小さく口を動かす。殆ど声に出ていなくて、雨の音でそれは掻き消えたが、マリアベルには伝わった。
『あの時、マリアベルにも、友達だと思っていると、言って貰いたかった』
マリアベルの肌が粟立つ。
「なんで、今、そんな事を言うの……?」
まさか、死ぬつもり?
何故、そこまでの危険を冒すの?
考えて、すぐに分かった。
そうか。大白亜を巡って起きたこの戦争に、責任を感じているんだ。焔聖の怒りを受け入れて、自分で自分に罰を与えようとしている。
自分はいくら傷ついてもいいから、相手は絶対に傷つけたくない。
つまり、一種の罪滅ぼし。焔聖との関係と、戦争の責任がないまぜになっている。その根本にあるのは、輝聖として顕現したことに対する、僅かながらの後悔。
当然だ。キャロルだって、光の聖女だって、私と同じ1人の少女。壊れそうなほどに苦しんでいる。
「ねえ、馬鹿じゃないの、本当に……」
──キャロルちゃんが、死んじゃう。
そう思った瞬間、マリアベルは駆けた。
「ああああああッ‼︎」
躊躇して矢を放ち切れないニスモに対して斬り掛かる。超人的な動きだったので、ニスモは聖墓矢を剣のように振るって応戦するのが精一杯だった。
「──ッ!」
1撃、2撃と石剣を弾いたが、押される。ニスモは弓を手放し、マリアベルの胸ぐらを掴み、組み倒そうとした。が、火事場の馬鹿力とでも言おうか、思った何倍もマリアベルの力が強くて、さらに押される。何も出来ない。
そして2人は、竜が墜落してきて崩壊させた列柱廊、そこに新たに出来た崖から、翻筋斗を打ちながら転がり落ちた。
キャロルはその場に蹲るようにして、花々に埋もれながら倒れた。周囲には香水草の香りが漂っていた。
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