庶子
篠突く雨。地に叩きつけられた雨粒が、怒り狂うかのように弾けている。
20秒に一回ほど、切り裂くような風が吹いた。それは荒々しく巻いて、リアンの体に雨を打ちつける。ひどく痛い。こんなに強い雨は今まで経験した事がなく、陸で溺れそうになる事なども初めてだった。
雨風に耐えながらリアンは顔を上げ、朧げな王の姿を追いかけた。大聖堂の裏にある、ミッドランドと呼ばれる庭園に続く小道を、ふらふらとした足取りで進んでいく。
『リアン、リアン……』
王の声が頭の中でこだましている。違う、王の声だけではない。様々な人の声がリアンを呼んでいた。恐らくは王の霊が、雑多な霊を呼んでいるのだろう。
風が木々を激しく揺らす。空に稲光が走り、影が浮き出る。正確に言えばそれは、影──のようなもの。夜の海の色をした、ねっとりとした靄が、木々の動きに反するようにその場に残ったり、少しばかり浮いて揺蕩ったりしている。
音が降りてくる。琵琶の音。風琴。葦笛に角笛。これは王室直属の室内楽団の演奏、王が好きだった静かな子守唄。それが鳴り止まない。
『儂はお前を愛していた。そして儂はお前を守り続けた。あとはお前が、お前を守れ』
月桂樹の前に王が佇んでいて、リアンはそこに辿り着く。触れようとすると王は消えた。そして、道の先にまた王の姿が現れる。リアンはそれを追って、再び歩き出す。
『──次なる王は必ず殺せ』
あの時と同じ、呪いの言葉が聞こえる。
『これはこの国の為。そしてお前の為』
何度も繰り返される。
『次なる王は必ず殺せ。次なる王は、必ず……。必ず……』
リアンは舌打ちをして、呟く。
「煩い。わかったから。一度でいい……」
ついに庭園へと辿り着く。自然の野を真似た様式で、人工の泉が見えた。植物園を兼ねているから、要所にさまざまな色の花が咲いている。
飛燕草と立葵の茂る場所を踏み越えて、麻黄や牛繁縷の生える薬圃を越える。
そして、リアンは見つけた。庭園の中央にある巨大な樫の木の下、力無く幹に靠れる男を。リアンに似た金の髪の男だった。それは雨に濡れて雫を滴らせている。蓬髪の下には、氷のように澄んだ藍緑色の瞳。これも、リアンとよく似ている。
肩と右脚に小さな矢が刺さっている。これはボウガンに使用する短矢であるが、それにしたって小さい。恐らくは、連射式などの特殊な機構を持つボウガンから放たれたのだと、リアンは思った。
「第一王子エリック。そこで何をしているのです……」
呼びかけられてエリックは顔を上げた。月が雨雲に隠れても、毒がまだ体の中に残っているのだろう、体に力が入らないようだった。
「誰かと思えば、リアン。お前か。運命とは数奇なものだな」
白く煙る雨の中、周囲には誰もいない。王子を守るはずの近習も、雑兵でさえも。矢を受けている事といい、背後に聳える大聖堂の中で何かがあって逃げてきたのだとは思うが。
「あなたが、王を弑したのですか……?」
狂ったように稲光が空を走った。けたたましく鳴り響く雷鳴の中で、エリックはくつくつと笑い、苦しげな表情をそのままにリアンを見上げる。
「──リアン。お前は自分の人生が変わった日を覚えているか?」
痰を吐いてから、続ける。
「俺はよく覚えている。それは4年前の今日、鶺鴒の節、朏だった。お前もそうだろう?」
リアンに心当たりはなかった。
「そうか。覚えていないか。ならば仕方がない。俺にとっては重要な日でも、お前にとっては何の変哲もない、ただの平凡な1日だったという事だ」
そう淡白に言って、エリックは幹を背を預けながら、ゆっくりと立ち上がる。
「さて。何をしに来たんだ? 聞きたいことでもあるのか? 思えば、直接お前と話したことは無かったな。もっと声を聞かせてくれ。お前のことを知りたい」
リアンは念の為に長劔を構えた。
「あなたは王を殺して、その座を簒奪した。違いますか」
エリックもまた腰に下げた剣を掴もうとするが、附子の影響か手が震えて、それを上手く抜く事が出来ずに落とした。その刃は青く輝いている。
「そうとも。狂った王より、俺の方が国を正しく導く事ができる。誰よりも迅速に、この国を正常に戻す事ができるんだ。だからそうした」
「やはり」
エリックが剣を拾おうと、ゆっくりと地に手を伸ばす。だがリアンはそれを拾わせまいと、刃を足で踏みつけた。剣を掴もうとした手は雨に滑って、それで均衡を崩し、エリックは顔から倒れ込む。土がべしゃりと跳ねた。
「なんだその足は。まさか俺を殺すのか。俺はお前の兄だぞ。血を分けた兄弟を殺すのかっ」
確かにリアンとエリックは血を分けた兄弟である。だが殆ど面識はなかった。エリックの言う通り、直接話したこともない。
しかし一切の関わりが無かった訳ではない。エリックは離れた場所からリアンに対し、様々な命を下していた。それは公務と称しての雑用が殆どで、時折、エリックの幼い頃からの侍従、例えばクランシーやシモンなどを鍛える為の稽古に駆り出された。
雑用は多岐に渡る。例えば下男下女が行うような倉庫整理であるとか、書類整理であるとか、上げていったらきりがない。
稽古に関してはそう称しているだけで、その実態はリアンを痛めつける事が目的であった。侍従達は卑怯な手段を用いて急所を打ち、リアンが動けなくなった所を袋叩きにする。その行為に意味はない。特に後頭部や背骨を頻繁に木剣で打たれた。再起不能にしてやろうという考えが、リアンには透けて見えた。
一度、袋叩きの瞬間をエリックに見られた事があった。倒れて血反吐を吐くリアンに何か声をかけるでもなく、エリックはそれを冷たく見下した。リアンはその青い瞳に強烈な悪意を感じた。恨まれていることは疑いようもなかった。
正直に言えば、エリックに何故そこまで憎まれるのか分からない。今でもよく分からない。他兄弟からも軽い仕打ちを受ける事はあったが、エリックのそれは異常であったと思う。
「答えろ。リアン、お前は俺を殺すのか……っ?」
があという雨音が、王の言葉を蘇らせる。
『──城から追い出し、学園に行かせたのも本意に非ず。無用な争いを避ける為、延いてはお前を死なせぬ為であった』
月毒が脳に作用しているのだろうか。ぐわんぐわんと響きながら、王の言葉が続く。
『学園は正教軍が作った学びの園。神に帰依する者には手を出せまい。田舎で暮らしていたお前を引き寄せたのも、お前の命を守る為』
幻聴は示す。リアンの命を狙っていたのは第一王子。殺したいほどに憎まれていた。でも、何故。
「リアン。お前は、お前は、俺を殺すのかぁッ! そうやって俺から全てを奪うのかぁッ!」
息を荒らげ、エリックは叫ぶ。
「僕が、あなたから全てを奪う……?」
「そうだ、そうだとも。お前は俺の全てを奪っていく! お前はそういう存在であり、俺は奪われる存在として生まれてきた!」
「何を言って……」
「お前にはそこまでする権利があるのかぁッ!」
異様な怒りだった。顔は赤らみ、体は震え、歪んだ口は今にも火を噴きそうであった。
「あなたは王を弑した。報いを受ける必要がある。それを『奪う』と表現するだなんて、それはおかしい。悪には、必ず罰が下るのです」
「お前、今、罰が下ると言ったか。俺に罰が下るのか? それは誰が下す。まさか神か? 神リュカが罰を下すのか?」
エリックは怒りのままに土と芝を掴み、這い寄って、リアンの足首を掴んだ。
「滑稽だな! 何も救いはしない神が、罰だけを与えるのか! この俺に!」
リアンは長劔を振り上げる。エリックの肩に刃を突き立ててやろうと思った。だが、躊躇する。病的なまでに怒れるその顔つきに、怖気ついた。
「俺は祈った! 神に助けを乞うた! 毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩、寝台の上で祈った! だが神は何もしてくれなかった。だからだよ、リアン。だから俺は、俺の力で俺を救おうとした。そして俺が天下を手にし、同じように打ち拉がれる者を救おうと、心に決めたんだ!」
続ける。
「この俺が悪なのか⁉︎ 俺から全てを奪っていくお前こそが悪なんじゃないのか⁉︎」
「僕があなたの何を奪ったと言うんだ……!」
「お前がいなければ、こんな事にはならなかった! それだけが確かな事実なんだ。お前が存在していなければ父は王であり続け、俺は急いで王になろうとも思わなかった! 俺が悪である以上に、お前は悪であり、そして王は悪であった!」
「何が言いたいか、分からない!」
「なあ、リアン。悪ってなんだ⁉︎ 悪は誰が決める! 世の悪とは何か! お前は俺を悪だと言ったが、俺は世の中を良くしようとしている。聖女という騒擾の根元をいち早く断じ、人が人の足で立ち上がる時代を模索しようとしている。これは、悪か⁉︎」
エリックはリアンの服を掴み、体を起き上がらせる。
「俺にとってはお前こそが、絶対的な悪なんだ。悪は、自分では悪とは気がつく事が出来ない」
そして抱きつくような姿勢となって、エリックは耳元で呟いた。
「なあ、リアン。──鶺鴒の朏は、お前が王都に来た日だよ」
風が強く吹き、稲光が走った。樫の木、揺れる葉の影に、王の姿。その青い瞳がリアンを見つめている。愛に満ちた目を見て、閃く。
何故第一王子エリックが王を弑し、神に裏切られたと宣い、聖女すらも敵と定めて、今ある世界を力で変えようとしたのか。そうせざるを得なかったのか。その答えが降りてきた。
「まさか」
その声はひどく震えていた。
「──まさかあなたは、庶子である僕を王にするつもりだったのですか?」
背後にモラン卿が忍び寄るが、リアンは最後までそれに気が付かなかった。豪雨のせいだった。
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