月(後)
聖都は真っ赤な空を映していた。擦った血蕪を塗したようであった。目抜き通りには哨戒に当たっていたであろう禁軍兵士らが転々と倒れていて、眼鏡橋を渡った所にある聖サーファーズの公園には、市街戦に備えていたらしい部隊が倒れていた。
マリアベルはぐったりと重い頭を上げ、空を見た。月を覆うほどではないが、雲が出始めている。魔法を発動させる時は晴天であったから、何らかの魔法によって雲が生み出されたことは明らかであった。
「早速か……。急がないと……」
大白亜へと続く坂を登る。リアンは苦しいながらもよくマリアベルを支えたし、マリアベルは腹の痛みに耐えながらもよく歩みを進めた。励まし合うこともなく淡々と足を前に出した。
進めば進むほど、苦しい気がしていた。それは『予感の毒』と言うべきか、月毒とはまた別の性質を持つ苦しさであり、敢えて言うなら心奥で燃え盛る焦燥、それから肌を焼くようなヒリヒリとした感覚が、坂を登るほどに強くなっていった。──山の頂上で何か大きな意思が待ち受けている。第六感がそのように騒ぎ立てている。
だからリアンは妙に会話をしておかなくてはいけない気分になり、重い口を開いた。
「この戦が終わったら、どうしますか?」
まるで別れが来るのを防ぐようにして、未来の話を選んだ。この先、何が起こるかは誰にも分からないのに。何も起きないかも知れないのに。簒奪者を討って一件落着となるかも知れないのに。だけれど、不思議だ。認め難いある種の予知の力が働いて、リアンはつい、未来の話をしてしまった。
「どうするか、とは?」
「忘れがちですが、僕たちは旅路の途中だから。巡礼を続けますか?」
「勿論聖女として巡礼は続けたい。でも旅立つより前に数日だけでいいから、楽しいことをしたい」
「楽しいこと?」
稲妻、空が光る。5秒程遅れて、砲声に似た雷鳴が聞こえた。
「例えば、陽の出ている内は川で魚釣り」
「釣り? 聖女様、釣りがお好きなのですか?」
「ええ。まあ、遊びですが」
「意外です。そうしたものに興味がある印象がなかったから」
「よく女官のエスメラルダと一緒に、城の裏手にあった泉で鱸を釣った。特別な偽餌の作り方があって、簡単に釣れるのです」
「へぇ。それはどのような?」
「匙の頭を切り落として、針を蝋つけしたものです」
「それで、釣れるのですか?」
「面白いように」
ぽつり、と雨が落ちてきた。風も少しばかり強く吹く。まだ月は見えている。
「夜になれば、明かりを灯して賽子の遊び」
「賽子は学園で禁止されていたはずですが」
「貴方は真面目ですね。みな、隠れてやっているものです。こう見えて私、双六ではキャロルちゃんにも負けたことがないんですよ。唯一彼女に常勝できる遊びだった」
大山門を潜ったあたりで、大きな雨粒がぽつりぽつりと降ってくる。遠い西の空、赤い月には限りなく薄い雲がかかり始めている。
「そうだ……。あと、よく晴れた日に茶会を開きましょう」
「それは良いですね」
「お嬢様──いや、閣下との約束を違えているから、今度は私が招待をしなくちゃ」
「覚えていたんですか」
「私はそこまで人でなしではありません。菓子を作るから、貴方も手伝いなさい」
「聖女様の拘りについていけるかどうか」
「ついて来て貰わねば困ります」
「ならば僕の好物を作ってください。であれば最後までついていける気がする」
「好物?」
「バタースコッチです」
「そんなものが? 仮にも王族が、貧乏臭い。飴など、百姓が好む菓子ですよ」
「それを口に放って、砂糖も牛乳も入れない熱い紅茶を口に含み、溶かしながら飲むのです。これがどんなに幸せか」
「愉しみ方まで貧乏臭い」
「僕は百姓に育てられたんです。貧乏臭くて良いんです」
「ご苦労様です」
言って、マリアベルは少し笑う。
「……やれやれ。こんな会話、したことなかった。私たちは知っているようで、知らないことが沢山ある。ずっと一緒にいたのに、変だね。まるでお互いのことを知るのを避けていたみたい」
「どうしてでしょう?」
「さあ。知り過ぎて傷つくのが怖いから、とか?」
2人は立ち止まる。気づけば既に山の頂上。列柱廊に囲まれた広場の中央に立っていた。大理石の床は雨で濡れて、空も聖人達の像も、凡そ全てを反射して映している。鏡の上に立っているよう。
マリアベルは、西の空を見た。まだ月は見えているが、雨も本降りになり始めたことだし、月毒の効力も長くは保たないだろう。
「リアン」
「はい」
「あなたは行きなさい。簒奪者を討つのです」
「聖女様は」
「……私たちは輝聖を巡る衛星。その運命には忠実でありたいと、今はそう、思っている」
一瞬、リアンは彼女が何を言いたいのかを考えたが、すぐにその意味を理解出来た。足元の大理石が空を映していて、何かがふらふらと飛来しているのが見えたから。
リアンは空を仰ぐ。翼竜だ。それを認めると、竜は火花のようなものを幾つか噴射した。それから少し遅れて、パンであるとか、パラパラであるとか、それに似た類の破裂音が連鎖して響く。爆竹のよう。そして、竜の頭には幾つかの鉄杭が刺さって見える。
「焔聖ニスモ・フランベルジュ」
竜から強烈な殺気を感じた。それは明らかにこちらへと向いていて、戦慄く程だった。殺意を向けられる理由は分からない。
「聖女様、その傷では」
「私は大丈夫。あなたも自分の運命に忠実でありなさい」
その時、強い風が吹いた。リアンは風の向かう先を見た。
広場正面に聳えるカレーディア大聖堂の脇、小道の入り口。そこに鎖帷子を身につけ、王冠を被った老人が立っている。その姿、間違いなくアルベルト二世。
耳に蘇る。王の声、──『次なる王は必ず殺せ』。
「分かりました。ご無理はなさらず」
リアンは佩刀を抜き、アルベルト二世の亡霊が佇む小道へと、蹌踉めきながら向かってゆく。
マリアベルは彼の背中を見つめ、十字を切った。もう2度と会えないかも知れないという厭な予感を掻き消すように、無事を願った。何百という火球が広場に降って来ても、マリアベルはリアンの背中を見ていた。大理石の床も列柱廊も、山肌さえも火球が破壊していくが、それでもリアンの背中を見ていた。
炎と土煙でリアンが目視出来なくなったくらいで、頭に杭を刺した四足竜が、自然落下に近い形で広場に墜落した。赤い竜、頭に短い角があり、爪は黒い。地に叩きつけられた衝撃で真っ赤な鱗がぱんと弾けて散った。
竜はしばらくのたうちまわり、長い尾が跳ねたり薙いだりで、さらに広場を破壊した。そして月毒が回っているからだろう、金切り声を上げながら口から血と炎の混じったものをごぼごぼと漏らした。周囲は凄まじい程に鉄の臭いがしていた。
竜の頭から焔聖が降り立つ。彼女も月の毒に蝕まれているのだろう、顔は青く、苦しそうに息をしている。
「まさか、輝聖より先に海聖に会うとは……。あの月はあなたの仕業ね……」
「ごきげんよう。そういえば面と向かって話す事はありませんでしたね。互いに思うことはあるでしょうから、これを機にゆっくりと話し合いますか?」
「その必要はない。私はあなたを殺しに来た」
「私を殺しに? 何故?」
「聖女は人間の敵だから」
マリアベルが意味を図りかねて沈黙していると、ニスモは続けた。
「私たちの運命は、私たちの大切な人を巻き込み、やがて壊してしまう。私たちはいない方がいいのよ、海聖マリアベル・デミ」
マリアベルはふっと息を漏らす。何を言い出すのかと思えば、全くもって珍紛漢紛である。思わず吹き出してしまった。
「聞かせる話ですね。誰の受け売りですか?」
「あなたには心当たりはない? もし自分がいなければ、この人たちは全く別の幸せな人生を送れたかもしれない。そうやって自分を責めた経験はないかしら?」
ニスモは背負っていた弓を手にする。それは彼女が通常用いる事のない一般的な小弓であった。左手に持つのは聖墓矢。切先は青く透明で、美しい輝きを放っていた。
マリアベルはそれを見て、目を見開く。魔弾が聖具と同化していることを理解した。
「……本気?」
「ええ。まさか、冗談を言っているのだと思ったの? あなたも鈍感なのね」
マリアベルは瞳だけを動かして辺りを見回した。何か遮蔽物に隠れようと思ったのだが、途中で意味がない事に気がつく。確か以前読んだ文献によれば『夏の聖墓矢』は敵と定めた者を必ず貫く。隠れたとて意味がないだろう。──ならば、戦うか。
迷いながら、腰に下げた聖ノックス市の石剣に手を添えた時だった。
「──マリアベル」
懐かしい声がした。
その方を見ると、女が立っていた。女は紺色の美しい髪を雨風に靡かせ、猛禽の瞳でじっとマリアベルを見ていた。
「キャロルちゃん……」
ぼそりと呟いたそれは、激しい雷鳴によりか掻き消された。
ニスモはキャロルを睨む。一番憎い、そして殺したい、殺さなくてはならないと考えている女がやって来た。簡単にはやらせてくれないだろうが、敗北する気もさらさらない。クララの為に必ずここで殺す。その並々ならぬ覚悟が、赤い瞳を激しく燃やしていた。
破壊された広場。3人の聖女は互いに同じ距離、美しい三角形を作っている。雨はいつの間にか大雨に変わり、周囲は薄青く烟っていた。
月は雲に隠れてもう見えない。
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