月(前)
自らに向けられた前装式銃の中に魔弾が込められている事は、海聖マリアベルも分かっている。それで急所を撃ち抜かれれば、聖女とて只では済まない。
「──これは何のつもりですか? まさか、また私に歯向かうつもりですか?」
「何の罪もない民を殺してはいけない。もしあなたがそうした行動に踏み切るならば、僕は迷う事なくこの引き金を引く」
パトリシアやロック卿、ホルスト卿、他騎士達、兵達、みな固唾を飲んで2人を見守っていた。凄まじい緊張感だった。何かのきっかけ一つで、取り返しのつかない事態となることが容易に想像できた。
「あの汚らしい民と輝聖とを秤にかけるべきではないと、そう言いたいのですか?」
マリアベルは下馬し、静かにリアンに寄る。
「今に正教軍はマール伯爵領軍との戦いを終え、輝聖の部隊に攻撃を仕掛ける。その後、大白亜に詰める禁軍との挟撃に遭ったらどうなるか。魔弾を頭に受けたらどうなるか! そうなる前に簒奪者を討ち、大白亜を手中に収めなくちゃならないのに! こうして話している時間も惜しい!」
ついに銃口はマリアベルの胸に当たった。
「──命は平等なんかじゃないッ‼︎ 輝聖はこの世界を救うッ‼︎ 決して失ってはいけない存在だッ‼︎ あんな民なんかのせいで、あんな騎士なんかのせいで、世界は滅びてしまうんだッ‼︎ であれば、あれは輝聖の敵ッ‼︎ であれば、あれは人に非ずッ‼︎」
リアンは青い瞳でマリアベルをじっと見ている。
「なんだその目はッ‼︎ 無礼なッ‼︎ これ以上、軍の動きを鈍らせるならば、お前をここで斬り捨てるッ‼︎」
マリアベルは帯刀していた聖ノックス市の石剣を抜いた。聖骸布がはらりと落ちて、陽炎のような刃が露わになる。
周囲の騎士達は目を瞠った。こんな霊妙な刃は見たことがない。そもそも、これは刃で正しいのかも分からない。そして、陽炎の剣を腰に下げた人間など、ただの冒険者な訳がない事にも気がつく。パトリシアにも騎士達と同様の疑念が過ぎった。──マリアンヌ・ネヴィルとは一体、何者なのか。
「そこ退けッ‼︎ そして詫びろッ‼︎ お前に意見する権利はないッ‼︎ 私の指示は最適解だッ‼︎ 今すぐに突撃を──」
「最適解ならば何故。──何故、あなたは涙を流しているのです」
マリアベルは言葉に詰まった。
「何故、その涙は止まらないのです。僕に怒りをぶつけながら、押さえつけようとしながらも、決して涙は止まらない。さらさらと、止めどなく出ている」
「う、うるさいッ! 黙れッ!」
肩で息をしていた。
「あの日も今日のような朝だった。朝日が東の空を染めていた。僕は……、あなたの涙の理由を聞いていない。だから、あなたについて来たんだ」
「今は関係ない。やめて! やめないと、本当に斬る……!」
そうは言いながらも、マリアベルは剣を振り上げない。ぎゅうと力強く柄を握るだけで、殺気も放っていない。ただ、不安と恐れを怒りに変えて、自分を否定する人間を屈服させようと怒鳴っているだけだった。
「何で退かないの? リアンは私に殺されてもいいの? 何とか言いなさい。ねぇ、言って……」
だからリアンは銃を下ろした。
「もうやめましょうよ。あなたは、どうして泣いているのですか?」
風が吹いて、2人の髪がふわりと舞った。マリアベルの涙で濡れた顔に青い髪が纏わりついて、張り付く。あの涼やかな夏の朝よりも幾分か伸びた髪が。
「わからない。わからないの。涙に理由なんかない……。感情の昂りがそうさせるだけ。怒りがあって、悲しみがあって、それでも前に進まなきゃと思うほどに、涙が出る。人間なんて、そんなものでしょう?」
鼻を啜りながら、マリアベルは続ける。
「私の前に立ち塞がるのは何の罪もない民と、私のお父様、そしてあなた。どうしたら、この窮地を脱せる? 分からないよ、こんなの」
ロック卿はハッと顔をあげて、民の前に出た騎士の姿をもう1度見た。確かに、髪の色が海聖と似ているようだった。
「そうか、あれは貴殿の父上であったか……!」
遠く、どうどうと地響きが聞こえる。三の城から出撃した騎馬隊が徐々に近づいて来ているようだった。もう間もなく、彼らはローズバレーに現れるだろう。
時間がない事はこの場にいる全員が理解していた。だが今は静かな時が流れていて、誰も彼と彼女の間を侵略する事は出来なかった。
「リアン。胸を貸しなさい」
マリアベルは跪き、その平たい胸に頬を当てた。リアンも銃を手放し、あの夜と同じように優しく頭を抱く。
「どうしてあなたは、私に殺されるかも知れなくとも、私の暴走を止めるの?」
「理由が必要ですか?」
「出来るなら」
「胸の中に納まったあなたの香りも、温もりも、息遣いも、全てが忘れ難いものだから。狂気に囚われてしまって、その全てが消え失せてしまうくらいなら、僕はあなたを殺してしまうつもりです。世界を敵に回したって良い」
マリアベルはリアンの腰に手を回し、ぎゅうと締め付けた。
「私ね、キャロルちゃんのことが大好き。助けたい。リアンのことも、クララのことも好き。公爵領のみんなのことも好き。本当は手駒として利用するだけだったはずなのに、逞しく変わっていくみんなに、私は特別なものを感じて、もう、手駒とは思えなくなっている」
続ける。
「でも、どうしたらいい? あの民らとお父様を殺さずに、あなた達も護って、輝聖を助けたい。どうしたら、私のやりたい事が全て達成できるの?」
「もう1度、落ち着いて考えるんです。あなたになら、この窮地を脱するやり方が見つかるはず」
マリアベルは小さく首を横に振った。
「今、僕の胸の中で孅く震えている少女は、僕たちのような常人とは違う。きっと、あなたの額には神さまが住んでいて、とびきり冴えた最高の方法が、そこから生み出されるはずなんだ」
ぎゅうと目を瞑った。そして、度々現れる6本指の持ち主や獣達に、その答えを教えてもらう事にした。だが、答えは返って来ない。頭の中に物事を考えるための空白もない。焦燥だけでいっぱいになっている。
そういう時は、どうしたら良いのだっけ。何度も焦りの瞬間は訪れてきて、その度に何かをして、私は変わり続けた。
ふと、傍に気配を感じて、目を開ける。その方を見ると少女が立っていた。いつか鏡の中で見た美しい少女だった。朝の涼風に髪が靡いていて、暁の光が石黄の髪をさらに輝かせている。そして、燃える金の瞳で西の空を見ていた。
──私は、迷う度に星を見ていた。
星座の物語に勇気を貰い、星々の煌めきに心を癒された。大切なことは、いつも星が教えてくれた。
少女はゆっくりとマリアベルに顔を向ける。
──あなたは何者?
『あなたの願いでもあるし、私の願いでもある』
──それは、私の敵? それとも味方?
『あなたの敵も味方も、あなた自身の中に。願いは神の姿をしていて、時に獣物の形をしている』
そして、少女はうっすらと笑みを湛えたまま、自らの腹を指差し、右から左へとなぞった。切り裂くようにして。
『愛しい子。そしてあなた達もまた、人の夢。だから、神にも獣物にもなれるというのに』
マリアベルが瞬きをした瞬間、その少女は忽然と消えた。まるで、初めから存在しなかったかのようだった。
「リアン」
「はい」
風が吹いて、マリアベルは問う。
「──月は出ていますか?」
リアンは西の空を見上げた。
「僕から見て11時の方向、大白亜より少し左に逸れる形で白い三日月が残っています」
「雲は」
「ありません」
残月は大白亜の後ろ、遠くの山々の上で白く輝く。
「ならば、月の附子を使用します」
聞いていた騎士達の何人かが呟く。
「月の、附子……?」
パトリシアもまた眉根を寄せた。魔術書を含めて様々な本を読んできたが、そのような言葉は聞いたことがなかった。答えを知りたくてロック卿を見上げるが、彼も首を横に振る。
「生贄はどうなさいますか?」
マリアベルはリアンから離れ、西の空を見上げた。
「私の体を使用します」
それを聞き、パトリシアは血相を変えてマリアベルの腕にしがみついた。
「生贄なんて、ダメ! マリアンヌは死ぬべきではないわっ!」
「大丈夫です。生贄と言っても必要なのは処女の膵臓と肝臓。私はそれを失っても問題ない」
「問題は大有りよ! だって、臓器なんか失ったら……」
「本当に大丈夫。私の場合は、また元に戻ります。まあ、かなり痛いでしょうけど。心配してくれてありがとう」
マリアベルはにこりと笑んで、パトリシアの頭を撫でる。
「私の、場合は……? どういう意味なの、マリアンヌ……」
呆気に取られる彼女を離し、転がっていた聖ノックス市の石剣を手にした。その切先を原に沿わせ、足元に魔法陣を描き始める。
その時、東の方角に多数の騎馬が出現。街道から怒涛の勢いで、こちらに突撃して来る。地響きと共に喇叭の音と太鼓の音が、寥寥たる原に響き渡った。
ロック卿が声を上げる。
「敵が来たぞ。我らはどうするべきか、マリアンヌ」
「私を守ってください。リアンは私を手伝って」
マリアベルは魔法陣の中央に正座をした。
「月の附子とは一体、何ぞ。その術が当意即妙の計となり得るのか」
「ええ。──天の毒にて、朝敵を跪かせる」
次いで、マリアベルはこう説明する。
月の附子とは、月の引力を乱す魔法の総称である。引力が乱れれば、人間を含む動物の体内にある水の巡りが狂う。具体的に言えば中風のような症状が出るとされ、眩暈で立ってもいられず、人によっては手足も麻痺する。魔法が解ければ元気にはなるが、発動している間は永遠にそれが続くとされ、逃れるには術の核である魔法陣から離れるより他ない。
なお、附子とは鳥兜の毒のことを言う。毒は朔に近いほど効果は絶大であり、望に近いほど効果は薄まるとされる。また、この魔法は敵のみに効果があるわけではなく、魔法が及ぶ範囲内なら誰をも苦しめる。
月毒は死に至るほどではないし、魔物に対しては効果があったりなかったりと安定しない。その上生贄まで必要とするから、この魔法は廃れた。古い戦記などを読めば『月の附子』の文字が出てくるものの、学者か余程の魔術好きくらいしか、この魔法を知る者はいない。
「成程、我らも毒に苦しむと申すか!」
リアンは短剣を取り出し、銀の水差しに入った神酒を刃の表と裏に垂らす。マリアベルは粛々と軍服を脱ぎ始める。
「腹を割くのだな」
「はい。聖奠で行きます」
聖奠とは教会魔術の中でも古い様式で、さらに儀式を伴う術のことを言う。元々は神が与える恩寵を目に見える形で表す儀式の総称を言った。
「暗唱できる者は十字を切って『畏き神よ我が王よ、哀れなる我らを大いに祝福し、我らが地境を広げ、禍いを遠ざけ給え』と繰り返し唱えなさい」
襯衣1枚となったマリアベルは、自らの腹をぎゅうぎゅうと押し、どの臓器がどの場所にあるか確認。本当は菲沃斯でも噛んで痛みを鈍らせたかったが、生憎持ち合わせていない。麻酔は無しで、そのままいく。
ロック卿が叫ぶ。
「聞いたな! 熱心に、ひたすらに、唱えよ! 守備準備ッ! 方陣、備えーッ!」
喇叭隊が音を鳴らす。ピピン公爵領軍及び連合軍は合図を受け、一斉に動き始めた。方陣は大将を中心に据え、四角形に兵を固める陣形。
そして兵も騎士も十字を切って、祈りの言葉を唱え始めた。アルジャンナの壁になる民達は未だ聖歌を歌っている。2つの祈りが調和し、マリアベルの儀式に力を持たせる。
敵騎馬は先発隊の旗を掲げながら迫る。彼らは騙されていた事に怒り狂い、どうも死なば諸共の覚悟らしい。先頭を走る騎士の槍の先には、忍ばせた間諜の首が刺さっていた。怒りの騎馬が自陣に突っ込んでくるまで、凡そ50秒といった所。突っ込まれれば陣は乱れる。その後、個々で戦闘している間に歩兵がやってきて、数で押し切られて敗走するだろう。その事は全員が理解していた。
陣の中央、マリアベルは十字を切って、深く息を吸い込む。
「行きます」
マリアベルは自らの腹に短剣を深く、ずぶりと刺した。
「──ッ!」
そして、ゆっくりと横に割く。
リアンは十字を切り、他兵と同じく祈りの言葉を唱えながら、聖女に聖水を撒いた。これは洗礼を模す。
「銃! 放てッ!」
パトリシアの号令で銃兵が発砲。敵騎馬の幾人かを倒す事に成功するが、勢いを止めるには至らず。
一方、マリアベルは顔を歪ませながら自らの腹に手を突っ込み、先ずは素手で膵臓を掴んだ。それを腹の中から出し、リアンは短剣で管を切る。次いで、肝臓を摘出。同じように管を切る。2つの臓器が、ごろりと魔法陣に転がった。これは聖餐である。
敵兵が迫る緊迫感からか、兵達の祈りの声が大きくなる。応じるようにして、マリアベルの描いた魔法陣が赤黒く光り始めた。
マリアベルは十字を切って詠唱。方法は多々あれど正教の魔術を選んだから、神に願って取次を頼み、精霊の力を拝借するための祝詞が呪文に当たった。
「我賢き乙女の臓を捧ぐれば、神の御名にて精霊への取次を願い奉り、円に記す願いを聞きやり給い──」
2つの臓器が赤く燃える。炎の中、子供達の影が輪になって踊っている。精霊は時に子供の姿で人の前に現れると古くから言われる。何人かの兵や騎士が不安げな表情で空を見上げた。魔法を学び、霊感を強めた者の耳には鐘の音と子供達の笑い声が降って聞こえるが、これは正しい現象である。パトリシアはこの場にいる全員の影が子供の影に変わり、互いに手を繋ぎ、輪になって踊っているのを見て青褪めた。
敵騎馬隊、残り5秒で到達。盾を構える兵らが『備え』と力一杯叫ぶ中、マリアベルは顔の脂汗も、鼻から垂れる水も拭う事もなく、痛みで震える手で再び十字を切って詠唱を続けた。
「──罪人なる我を憐れみ給う事を聞こし召せと、畏み畏み申す」
そして聖ノックス市の石剣を握り、2つの臓器を陽炎の刃で、丁寧に、静かに、1度ずつ触れる。
術の発動である。月が熟れて真っ赤に染まった。同時、月から波紋のようなものが広がって、原の緑を揺らし、空を赤黒い血の色に染め上げた。
敵騎馬隊、その馬達が地を蹴り損ねてバタバタと転げる。そして滑り込むようにして盾を持つ兵らに衝突、倒れた騎士達はみな立ち上がることも出来ずに脚を掻く。天地が分からなくなっているようだった。後から来る騎馬も同様に倒れるから、滑ってきた馬や槍に当たり、そのまま死ぬ騎士もあった。
「うっ……!」
パトリシアは片膝をつく。凄まじい耳鳴りがした。鼓膜が張る感じがあって、目の奥が強烈に痛い。顔も痛い。頬骨の当たりが特に痛む。唾を飲み込めばみしりと耳の奥が鳴った。視界が左へとふわりと回転している。他の兵も騎士も立っていられない。各々武器を落としてしゃがみ、もしくは倒れ込んだ。
原は静寂に包まれた。馬が地を叩く音も無く、人の声も歌も祈りも聞こえない。見渡す限りの赤、音のない世界。風は死に、空は腐る。まるで、終末の光景であった。
マリアベルは裂いた腹を圧迫するために木綿の帯を強く巻いた。途中、嘔吐する。月の附子は術者に対しても有効であった。また、魔力を使いすぎたのだろう、真っ赤な血が帯を染めている。回復魔法も使用しているが、いまいち効き目が薄く出血が止まらない。魔力の減少も月毒の症状である。
「リアン、急ぎましょう。大白亜に行き、簒奪者を討つ」
リアンもまた、口から涎を垂れ流しながら何とか立ち上がる。
「簒奪者も苦しんでいて動けないはず。月が出ている内が好機です。正教軍の坊主どもに雨乞いでもされたら終わる」
マリアベルはふらふらと大白亜に向けて歩み始める。リアンはそれを追いかけて肩を貸した。2人、味方を踏まぬよう気をつけて越えてゆく。
アルジャンナの手前に構えた守備隊も、盾に利用された民達も、みな一様に倒れている。
エドワードだけは立ち上がって剣を握ろうとしたが、やはり眩暈がしてまた倒れた。だが、今度は剣を杖にして立ち上がる。また倒れても、何度も立ち上がり続けた。その必死になって民を守ろうとする父の姿に、マリアベルは涙が出そうになった。
「馬鹿な……」
朧げな意識の中で、ふとエドワードは気がついた。そして我が目を疑った。死屍累々の原を渡ってこちらに向かってくる乙女、娘であるまいか。何度目を擦っても娘に見える。これは夢か幻か。それとも、王都で斃れた娘が黄泉を渡って迎えに来たのか。
マリアベルも父の困惑を察する。だが、説明をしている暇もないし、その余裕もなかった。ただ静かに、父と娘がすれ違う。
「ご立派でした。今しばらくの休息を」
そして、2人は倒れた民と守備隊を乗り越えてゆく。マリアベルはモラン卿が倒れていないかと探した。しかし、あの下劣な男の姿は見当たらない。既にこの場所にはいないらしい。
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