死兆星
ローズバレー東部に位置する『葉長樫の森』は文字通り葉長樫が生い茂る森で、周辺には2つの小さな集落があるだけだった。パトリシア率いるピピン公爵領軍100名はその森に潜む。各々銃を手にして腐葉土の上に座り、前中後の三列に分かれる。
「恐らく、敵将はこの林道を通って逃げます」
リアン、もといアビゲイルは森の中の坂道を指差しながら続ける。これは長い歴史の中、大白亜へ向かう巡礼者達によって踏み固められて出来た道であった。
「敵の姿が現れたら、盲撃ちとします。まず、前列が撃ち方はじめ。すぐに中列が前に出て、撃ち終わった前列は最後尾へ。そして中列、撃ち方はじめ。同じように後列と中列が変わって、撃ち方はじめ。交代は10秒で行います。即ち、装填は20秒程です」
兵達が不安そうに互いの顔を見渡した所で、パトリシアが問う。
「私たちに20秒で装填なんか出来るのかしら? みんな銃の扱いには慣れてないわ」
ここにいる兵の殆どが徴収兵で、普段は庶民である。パンの焼き方や洗剤の作り方は分かっても、銃の事は詳しくなかった。
「そう難しくはありませんよ。リズムよく、体で覚えれば良いのです」
リアンは1、2、3、4、と声で拍子をとりながら実践してみせる。まず火皿に点火薬を入れる。次に銃口に火薬と弾を入れ、槊杖で押し込み、鶏頭を引き起こして構える。
「そして引き金を引いてズドンです。ね、簡単でしょう?」
兵達は眉根を寄せた。簡単そうに見えるが、果たして上手く出来るだろうか。
「大丈夫。5、6回と練習すれば、誰でも出来るようになります」
リアンは少女のように、にこりと笑む。その優しい微笑みに殆どの兵が安堵し、そして殆どの男がこの少女──であろう者に恋をした。
一方でパトリシアは手に持つ銃をじっと見つめている。それを持つ手にも力が入っていた。
「怖い、ですか?」
リアンに問われ、ハッと顔を上げる。
「大丈夫。覚悟はしているわ。……でも、今から人を殺すんだと思うと、少し震える」
「初めは怖いものです。罪悪感も付きまとうと思います。夢にも出るかも知れない。でも、きっとあなたならそれを乗り越え、自分の力にできると確信しています」
瘴気の迫る世界で、汚れのない生き方は難しい。人の上に立つ者なら尚更、臓物のこびり付いた手で民を優しく抱きしめ続けなくては、無限の威光は生まれない。
「ありがとう。やるわ。ピピン公爵領の領主として手柄を立てる。簒奪者に与する敵の首は、この手でとる」
□□
暁の空の下。朝靄のローズバレー、リューデン公爵領軍は方円の陣を敷いている。ずらりと並ぶ兵の中、禿頭の兵が愚痴を垂れた。
「これは何の時間だ? 何を待っている?」
隣に立つ髭面の兵がそれに答える。
「さあな。この戦、俺たちには分からねぇ事だらけだ。興味もねえ」
「騎士殿の考えている事はわからん。……なあ、それより聞いたか?」
「何を?」
「北さ。北に集落があるだろう。そこにめっぽう可愛い女子がいてよ、天下の禁軍が納屋に押し込んで犯したらしい」
教皇領ローズバレーには幾つかの集落があった。禁軍はそこを占領し、略奪をしている。
「行って俺たちも1発やりにいかねえか?」
「やめとけ。畜生以下に成り下がるつもりか?」
「お堅い男だ。1人じゃ苦労するから、お前も手伝えと言っているんだぜ、俺は」
「……待て。何だか騎士殿が慌ただしい。馬で駆けて、別の騎士と直接話をしている。火急の要件かも知れん」
「そうか? 気のせいじゃないか? 俺にはそうは感じないが──」
突如、見張り櫓の方から、ぼうと角笛の音がした。次いで、別の櫓からも角笛の音が鳴る。連鎖する音が山々にこだまして、原はこもった音に包まれた。角笛は戦闘準備の合図。
「な、なんだ……?」
禿頭の兵は冷や汗を垂らし、ぎゅうと槍を握り直した。他の兵たちも口々に不安を発しながら警戒する。後ろの方で騎士が何かを叫んでいるようだが角笛の音が各所で鳴っていて、何を言っているのかよく分からない。
次いで、角笛の音を押し上げるようにして、どどどという地響きが聞こえ始めた。僅か、地が震え始める。
「な、何か来る……」
禿頭の兵は、地響きの聞こえる西側の原をじっと見た。10秒ほど観察していると、わあと声をあげる多数の騎馬が朝靄から現る。
時刻にして午前4時。無風、天候は晴れ。ローズバレーに突如として現れたピピン公爵領連合軍は、烈火の勢いでリューデン公爵領軍に突撃、驚いたリューデンの兵たちが声を上げる。
「旗……、旗を見ろ!」
「あ、あれは、アルベルト二世の王旗ッ!」
「バカなッ! じゃあ、あれは禁軍なのか? 禁軍は俺たちに味方しているはずだから、味方? ど、どうなんだ! わからん!」
連合軍は事前に用意していた王旗を掲げていたので、リューデンの兵達は大いに困惑し、逃走する者も多かった。だが禿頭の兵は足が震えて動けない。
「な、なんだよ、いきなり。俺はまだ女も抱いてないんだぞ……」
禿頭の兵は隣を見遣るが、先程まで話していた髭の兵は既に逃げてしまっているようだった。俺を置いていくな、と叫びたいが上手く声が出ない。目の前に髪の長い大柄な騎士が迫っている。その騎士──ロック卿は朝星棒を掲げていた。それは暁の空の色を映して文字通り、星の如く輝いている。
「俺は死ぬのか? 死ぬのか⁉︎ ひいっ!」
兵の脳天に朝星棒が振り下ろされる。頭がパンと弾けた。後にこの戦は『教皇領の戦い』と命名されるが、一番槍はピピン公爵領軍デュダのロック男爵と記録される。
ロック卿の率いる騎馬は獅子奮迅の勢いで兵を蹴散らしていく。リューデンの陣は一気に押し込まれ、瓦解を始めていた。
「我こそはデュダのロック男爵也! 出会候えーッ!」
ロック卿は馬上で朝星棒を振う。何人かの勇敢な兵が果敢に攻めたが、まるで歯が立たず頭を潰されていく。次第に気骨のある兵は減っていき、雑兵は次々に逃げていった。
恐怖が伝染して兵は散り散りとなる。それを踏み止ませるべく1人の騎士が駆けつけた。人馬双方に黒い鎧を身につけた重騎士である。
「逃げるなーッ! 男子たるもの最期まで闘うべしッ!」
しかし、雑兵は背中を向けて逃げていくばかり、もうこうなったら止めようがない。騎士は焦った表情で名乗りを上げた。
「我が名はマシュー・エバンス! 火竜ワーコダを信頼なる友と屠り、神の祝福せしウォンラッドの地を護りたり! いざ尋常に勝負!」
ロック卿はそれに応えた。
「相手にとって不足なし! 勝負!」
騎士マシューが突撃、剣を振るう。だがロック卿はその剣に朝星棒を叩きつけて弾いた。ロック卿は怪力、衝撃でマシューの手が痺れ、剣が手から滑り落ちる。大きな隙が生まれ、マシューの顔面に朝星棒が直撃、落馬。頭は潰れた蕃茄のようになって、顔と呼べるものはなくなった。
周囲で様子見をしていた他の騎士達はマシューの亡骸を見て震え上がっていたので、ロック卿は騎士たちに向かってわあと吠えた。それで騎士たちは悲鳴を上げながら散って行った。その様、まるで雑兵である。
ロック卿は辺りを見渡した。自軍の奇襲により、敵部隊のほとんどは敗走。味方が切り込んで行けば切り込んで行くだけ敵軍は崩壊、しかも狼狽の挙句、実際に戦闘に及んでいない兵でさえ敗走しているように見えた。
「さてもさても。こうも上手く策が嵌まるか。マリアンヌ──いや、海聖マリアベル。恐ろしい女よ」
言って、ロック卿は馬の足元を見た。そこには、ロザリオを握りしめて泣きながら蹲る一人の兵がいた。
「命は取らぬ。どこへなりとも行くがよい。人買いには見つかるなよ」
兵はよろよろと立ち上がると、一目散に逃げていった。大抵、戦があると人買いや盗賊がやってきて、傷ついた兵を攫って売り物にしてしまう。
「お優しいことですね。生かせばまた楯突くかも知れないのに」
背後、白馬に乗ったマリアベルが寄る。
「海聖か。見事な手腕。恐れ入った」
「雑兵には領主の旗幟のために死ぬ覚悟がなかったのでしょう。普段の生活の方が幾分も大事で、だから、そもそもの士気が低かった」
「さて、そのリューデン公爵は森へと向かったであろうか」
ロック卿は目を細めて遠くを見る。ここからでは公爵の馬印は確認できない。
「お嬢様、ご武運を。儂は心配しておりまするぞ。離れてから、飯も喉を通らなんだ……」
□□
リューデン公爵家の馬印を持った隊は撤退を余儀なくされ、葉長樫の森にある林道へと入り込んだ。
隊は軽騎兵20と、戦場にまで連れ出した公爵お気に入りの侍女が3名、それから信の置ける騎士が2名と、残りは雑兵であった。他にも優秀な騎士が本陣に詰めてはいたものの、ピピン公爵領軍の進撃を食い止めるために戦場に残り、戦闘中である。
騎士が言う。
「急ぎカーマイン城に入り、籠城する他ありませぬ。敵方が攻め倦ねた隙に逆転を」
カーマイン城とは『四の城』のことである。
「息が……、息があがる……」
馬上、羚羊の変わり兜を被った男が、はあはあと苦しそうに息をしている。面頬で覆ったその下には、汗に塗れた老人の顔があった。白鬚を蓄え、垂れた白い眉と、彫りの深い面相。齢70、リューデン公爵その人である。
その背にはホルスト伯爵領軍の弓騎兵に射掛けられた矢が3本刺さっていた。回復術師を兼ねる侍女が処置を施そうとしたが、公爵の老体に合う魔法を知らず、そのままにしてある。彼女らはモラン卿によって顔で選ばれているから、知識に乏しい。
「何故だ、何故思うように体が動かぬ……」
齢67までは日々の鍛錬を欠かさず行なっていたが、ここ数年で体力が落ちて思うように体が動かなくなったのをきっかけに、女遊びと将棋に耽溺していた。これらは心身の健康を理由に、モラン卿が勧めた。
「モラン卿は何処へ行った……。主人の一大事に、助けようともしないのか……」
「卿は王と行動を共にしています。恐らく安全な場所にご案内しているものと存じまする」
「彼奴が勧めた事であるぞ。前王を見限り、聖女を敵として、地位を固めよと言うた。だのに何故だ。何故この儂が苦労を強いられ、彼奴が王の側に仕えている。モラン卿を呼び戻せ」
「はっ。まずは、城へ……」
「──そうだ。ロミオ。私を慕ってくれていたロミオは何処だ。あれは兵法に長ける」
その言を聞いて、みなが沈黙した。
騎士ロミオは約2年前、モラン卿を奸臣だと主張したことをきっかけに謀反の罪で捕らえた。モラン卿の巧みな言葉に公爵が騙され、捕縛を命じた形だった。その後、騎士ロミオは処刑された。
どうやら公爵は、今は騎士ロミオの末路を忘れているようだった。心労があると耄碌する瞬間があり、ここ最近はそれが長く続いた。
「ああそれから、アルフレッド。勇敢な騎士アルフレッドは何処にいる。我が軍を30年に亘って鍛え上げてきたのだ。やつならば魔法と剣技とで、何人もの敵将を屠れよう」
騎士アルフレッドも同様である。モラン卿と対立し、罪を着せられて処された。
彼らに限らず、リューデン公爵が信を置いていた騎士や貴族達はみな消え去った。首を落とされなかった者は永蟄居となり、2度と人目に触れることもなかった。
モラン卿は自身の敵となり得る人間を金と嘘で潰した。公爵には甘い言葉で近づき、今では忠臣の代表であるという顔をしている。
領の貴族達も阿呆ではないから、モラン卿の横暴には辟易としていた。モラン卿が『聖女など迷信』『王は狂った』などと老いた公爵に吹き込むから混乱して、耄碌が加速したとも思う。だが貴族達もモラン卿から賄賂を受け取って今の地位にいるわけなので、彼を否定することが出来なかった。
「儂は……、儂は間違えたのだろうか……。何処からだ。何処から間違えた。鷹狩りからか」
1年前、リューデン公爵は第一王子エリックから、鷹狩りの誘いを受けた。そこにモラン卿を含め、何人かの家臣を連れて行った。狩が終わり、宴があって、そこで内々に謀反の用意がある事を知った。
「儂は、ずっと夢を見ていた。誇り高きリューデンの地が、決して挫けぬ、決して侵されぬ土地となることを……」
ぼそぼそと独り言を続ける。何を喋っているのか、周囲の者にはよく分からない。
「だが儂はアルベルト二世の覚えもめでたからず、モラン卿の言う通り、これ以上尽くしても振り向いては下さらぬ」
そうは言うが、アルベルト二世がリューデン公爵領を軽んじていた事実はない。モラン卿が自らの地位を築くために、王を仮想敵にして公爵の疑心を強めていた。
「新たなる王の覚えがめでたければ、我が領は神の国となる。これ以上、誉ある我が領がアルベルトに切り取られてゆくのを、黙って見ているわけにはいかぬのだ。分からぬか、儂の気持ちが。聞いているなら返事をせい、ロミオ。何処にいる、アルフレッド」
「お気を確かに、お気を確かに。まだ負けてはおりませぬ」
「リューデンは永遠だ。儂の代でこれ以上土地を減らしてはならぬ。先祖の御霊にこれ以上無様な姿をみせてはならぬ……」
さらに公爵の息が荒くなる。心労で不整脈も出ている。
「モラン卿を呼べ。儂の背中を押したのは奴じゃ。奴だけのうのうと生きることは許されぬ。儂が死ぬるなら奴も死ぬるべし」
「閣下にお水を一口差し上げよ」
侍女が急いで錫の水筒を取り出し、公爵に渡す。が、公爵は受け取らずにぶつぶつと言うばかりであった。
「何処で間違えた。何がいけなかった。モラン卿はどうした。説明せよ。何処からやり直せば良い。儂は老いて、何が何だか分からぬ。お前が教えてくれねば分からぬ」
──その時、ドンという音が連続で鳴って、木々の影が火を吹いた。そして、前方を歩いていた騎馬や兵達が一斉に倒れる。次いで、侍女が悲鳴を上げた。彼女達の乗っていた馬が驚き暴れた。騎士が緊迫の表情で叫んだ。
「な、なにが起きた!」
さらにドンという音が鳴って、次々に兵馬が倒れてゆく。
「撃たれている! 一気に駆け抜けろ!」
「いや、引けっ! 引けっ!」
「だれか助けてくれ! 脚を撃たれた!」
兵たちは混乱し、弾の嵐の中を右往左往している。もう逃げられないことは誰もが分かっていたが、それでも生きようと必死に何かをしようとした。でも、何もできなかった。
美しい侍女達が撃たれて馬ごと倒れた。ついに騎士も喉元を撃たれ、血反吐を吐いて落馬した。四方八方からの血飛沫を浴びながら、リューデン公爵は落ち着いた様子で黎明の空を仰ぎ見ていた。
「やはり迎えが来たか。見よ、輔星が暁に輝いておるわ」
輔星は死兆星とも呼び、死を暗示した。本来は北斗七星の脇で輝く星だが、時期が違う為に空にはない。公爵だけに見えていた。
「モラン卿を呼べ──」
放たれた銃弾の一つが、公爵の鎧を貫いて脇を貫通。落馬し、倒れる。
銃兵による一斉射はその後も2度、3度と続き、ついに立っている兵がいなくなって、ようやく森は静けさを取り戻した。
森の影から、少女が出てくる。ピピン公爵パトリシア・ヒンデマンであった。
「硝煙と血の臭い……。目が回りそう」
肩で息をしながら倒れた者達を見る。何人か、まだ動いている兵もいた。
「これを、私たちがやったのね……」
震える声で十字を切り、寂寞とした血の川を渡る。そして羚羊の変わり兜を被った将の下に寄った。面相を確認するために面頬を外すと、そこには目の玉を真っ赤にした老人の顔があった。
「そんな……」
それを見て呆気に取られる。──簒奪者に与する者は、悪の顔をしているのだと、勝手に決めつけていた。だが面頬の下に隠れていたのは、何かに後悔しているような、或いは何かに打ちひしがれているような、非力な老人だった。
「儂はただ、決して侵されぬ強い土地を……。民に誉と繁栄を……」
背筋に悪寒が走った。それは、聖フォーク城の露台で民に対して言った言葉と、同じ。
「まさか、あなたも、領の為に戦っていたの?」
リアンがパトリシアの隣に立ち、言った。
「斟酌しては危険です。敵に良いも悪いも無いと思ってください。ただ、乗り越える事だけを意識して」
そして、短剣を渡す。
「もし、仮に。どうしようもない悪があるとしたら、それは大概、安全な場所で甘い汁を吸っているものです」
パトリシアは震える手で短剣を受け取ると、意を決したように刮目し、それを老人の喉に這わせた。
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