聖女(後)
「もうやめてッ──‼︎」
叫んで、両の目から涙が溢れた。
あの時と同じように、もう手に力は入らない。立っているのもやっとだった。呼吸もままならない。──ニスモは剣を下ろした。
「そしてお前は神に代わって、姉の願いを叶えた。それがお前の罪滅ぼしだ。その為に罪のない赤子が無惨にも床に叩きつけられ、幼子も水に沈められた。だが、聖女だからそれで良いんだ。それがあったから、ヴィルヘルム・マーシャルがお前の存在に気がつき、聖女と認めるに至った。そういう運命だった」
エリックは腰に下げた剣に、手を添える。
「運命の力だ。これが聖女の運命の力だよ。死んで行った罪のない彼ら彼女らは、お前のために存在して、お前のために不幸になり、お前のために命を奪われた。それがこれからも続く。お前達が聖女として覚醒するまでに、何人もの人間が不幸になり、死んでいく。お前にとって近しく、大切に想っている者からだ」
エリックはゆっくりとニスモへと近寄る。
「やがてお前らの運命は全土を巻き込む。全てが貴様ら聖女のせいで破滅していく。──俺はその運命を断とうと思う。聖女と密接に関わった全ての者を抹消し、聖女を信じる者の教えを正し、正常な世の中に戻す」
聖女と関わった全てを抹消する。混乱の脳内でも、クララとの日々が蘇った。
──私のせいで、クララが死んでしまう。
どうしよう。まだ、涙が止まらない。
「世界を綺麗に戻そう。聖女などは初めからいなかったことにして、正教会の作り話ということにしよう。聖女などはいなくとも、瘴気は払える。俺は人間の可能性を信じる」
エリックは剣を抜いた。その刃は青く澄んでいた。聖女の体を蝕んだ青い弾丸と同じ宝石でできていた。
「聖女こそ真の悪なのだ。悪は己を悪だと気付けない。だから悪であり続ける。不幸の連鎖はもうここで終わりにしよう」
キュッと靴を鳴らし、剣を構える。全く隙のない型だった。
「丁度良い。貴様らリンカーンシャー公爵領には汚名を被って貰おうと計画していた。奴らは叔母上を殺すなど、王室に対して忠誠がないからな」
エリックは地を蹴り、ぐんと迫った。完膚なきまでに心を乱されたニスモは、反応を遅らせてしまう。下ろしていた剣を持ち上げるも、青い刃の一振りで剣が弾かれた。無詠唱の魔法で反撃しようとするが、やはり心が乱れていて不発。隙を突かれ、膝で胃を打たれた。屈んだ所で髪を掴まれ、投げられる。
「さあ、ここに首を置いていけ。王殺しは俺が始末した事にする」
倒れたニスモに青い刃が降りかかる。それを転がって避けるが、ロザリオの紐が断ち切られて落ちた。姉の形見だったが、落ちた事に気が付かない。そしてニスモは近くにあった背丈ほどの燭台を掴み、振るう。
「……ッ!」
その時、奇跡的に熱された蝋がエリックの左目に入る。それで、隙が生まれた。
ニスモは逃走した。とても戦闘を継続できる精神状態では無かった。遮二無二走って、窓を割って外に出る。
エリックは左目を押さえながらその割れた窓に寄ったが、すでに焔聖の姿は無かった。
───
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白山聖エルダーの中腹には、岩肌をくり抜いて作られた廟が存在していた。正式に名はなく、人によって『山の廟』であるとか『岩屋の廟』などと呼ばれている。この場所は聖エルダーで修行をし、志半ばで命を落とした僧や信心深い騎士、冒険者などが祀られていた。
暗く寒い廟の一室、ずらりと並ぶ石棺の上に聖書が置かれている。どれも使い古されていて、中には劣化が進んで崩壊しているものも存在した。第一聖女隊のジャン・セルピコは聖書の内の一つを手に取り、パラパラと捲った。紙が送る風を鼻から吸い込んで、この地で果てた者たちに思いを馳せる。
「首尾はどうなんだ、ジャン・セルピコ」
声が岩屋の中で反射して響いた。セルピコは本を閉じて、振り向く。
入ってきたのは無骨な男だった。艶のない黒髪は後ろで結かれており、苦労をしているのであろう、そこには白髪も束となって目立つ。一番特徴的なのは、左腕が存在しない事。
男の名はコナー・スタッブスと言う。後から合流した第一聖女隊の兵で、普段は王国南部、特に沿岸地域にて正教軍の将として働く。元は冒険者であり、その為か粗暴な物言いをする癖があった。
「到着したか、スタッブス。久しいな。茶でも淹れてやりたい所だが、茶器を持ち合わせておらぬ」
「質問に答えろ、セルピコ。馴れ合いに来たわけじゃない」
スタッブスは呆れ気味にため息をつく。
「首尾か。そうさね……。王都では、暗に焔聖が王を弑したことになり始めた由」
「それはマズいんじゃねえのか」
「某などは機と捉えるがな」
セルピコは聖書を棺の上に戻して、十字を切った。この本の所有者が栞として使用していた髭撫子の押し花が、頁の隙間からチラリと赤を見せている。
「機だと? 状況は悪くなっているように思えるが?」
「良く考えてみよ。焔聖を犯人にするつもりなら、初めから制札に『驚き桃の木、なんと火の聖女が犯人で御座候』と書けば良い。だが彼奴等はそうはせなんだ」
「確かに。何故だ?」
「奴らは統率が取れておらぬ。簒奪者の側近、もしくは禁軍中枢部には、まだ聖女を信じている者もいるのだろう。……だから、機は今ぞ。奴らを磐石にさせてはならぬ」
スタッブスは寄って、セルピコに1本の煙草を渡す。
「で、簒奪者の正体は分かったのか」
そして呪文を唱え、魔法で火をつけてやる。
「焔聖は大白亜で第一王子エリックと戦った由。状況については、詳しくは聞き出せなかったがな」
「何? 押して聞き出せ。重要だろう」
「話したがらないのだから仕方あるまい」
「またそれか。あの赤ん坊は1人で生きていると思ってやがるんだ」
スタッブスは焔聖に良い印象を抱いていない。愛想がなく、可愛げもなく、いつも不機嫌なように見えた。戦闘でも仲間と助け合おうとしない。常に周りをいないものとして扱い、その人の世界を築き上げている風である。
仲間と協力して危険な仕事をこなしてきたスタッブスには、それは我慢ならなかった。特に幼少の頃に魔物に襲われた事で隻腕として生きているから、助け合うことの大切さは身に染みている。セルピコから彼女の背景や境遇は聞いてはいるものの『だからどうした』という思いがある。可哀想かもしれないが、今関わりのある人間を蔑ろにする理由にはならないだろう。
「さて、簒奪も一朝一夕には成せぬ。水面下で長い間、準備が進められていたものと思う」
「その準備とやらも王子一人では厳しいな。味方はどれだけいる?」
「某が調べた所、リューデン公爵らが大いに関わっている。特に、海聖の首を持ち上げたモラン卿などは勇んで関わろうとしているらしい」
スタッブスは眉根を寄せた。
かつてスタッブスは、正教軍としてモラン子爵領の魔物を討伐した事がある。そこで何人かの仲間が犠牲になったが、弔いの場に子爵が訪れなかった。熱血のスタッブスは我慢ならず、領軍に物申して子爵に謁見したが、そこで罵詈雑言を浴びせられた。まるで犠牲になった仲間が悪いような言い草であった。それ以来スタッブスは、モラン子爵をこの世界で一番下品な貴族であると認識している。
「公爵が関わる目的としては……、まあ、利が大きいと言うことか」
己らの唾がついた者が王になれば、当然恩恵がある。瘴気で狭まる世界、いつ自分の土地がそれに飲み込まれるか分からない。特にリューデン公爵領は瘴気に面してしまっている。
「あと1つは、私怨であろう。リューデン公爵はアルベルト二世を恨んでいた」
スタッブスは目を丸くした。
「恨んでいたのか? 何故?」
「所領を奪われたからと存ずる。どこぞの騎士が魔物相手に手柄を立てて、南部沿岸がサウスダナンとかいう領になった」
「ああ……。確か、海聖の故郷だな」
「騎士が手柄を立てたからと、ほいほい土地を切り分けられたら、とても敵わぬ」
スタッブスは話を聞きながら、モラン卿が公爵にそう吹き込んだ可能性もあるとも思った。あれはどうも下品が過ぎるし、自身の利益の為なら何でもする。
元々リューデン公爵は素朴で知的な貴族だと聞いた。だがモラン卿を迎え入れた日を境に、奢侈に耽溺し始めたと聞く。何らか吹き込まれていても不思議ではあるまい。そして、公爵領は緩やかに綻び始め、田舎では既に荒れ始めているとも聞く。
「──で、どうすんだ?」
「はて?」
「火の聖女だよ。さっき顔を出したが、崖の上でベソをかきながら占ってやがった。あんな腑抜けた面で、大白亜を奪還出来るのか?」
セルピコは答えず、遊ぶように煙を輪っかにして吐き出す。
「輝聖に会いに行かせたと聞いたぞ。それが失敗だったんじゃねえか。心が乱れたんだ。俺ならば絶対に近づけない。セルピコ、これはお前の手抜かりだ」
「失敗ということはあるまい」
「何故そう言い切れる?」
「──光の聖女であれば全てを受け止め、焔聖を混沌から救い出す。それが出来ねば光の聖女ではない。或いは光の聖女として未熟である」
揺蕩う煙の輪っかに、セルピコは小さな輪っかを通そうとして失敗した。
「他の聖女も同じく。聖女が聖女同士を尊く思わぬのなら、聖女として未熟である」
「良い哲学だが、今はそんな悠長な事を言ってる場合じゃねえ。ピピン公爵領軍やマール伯爵領軍は、既に動き始めてるんだろう。それに乗じるのが得策だ。とっととあの赤ん坊をシャキッとさせて、俺たちも大白亜に向かおう」
「行くか行かぬかは焔聖が決めるべし。彼女は大人にならねばならない」
「大人だと?」
「大人になるには、己の考えで、勇気をもって、様々な選択をしなくてはならぬ。その選択を間違え、それで挫けようとも、歯を食いしばって立ち上がらなくてはならぬ。焔聖に必要なのは、そうした経験である」
「あの赤ん坊が大人になる姿が思いつかん」
「思いつかんでも、そうなって貰うしかあるまい。──まず我ら人類が見るべきは、瘴気のない平和な世界に非ず。憎しみや苦しみ、迷いや恐れ、そして強さと愛の塊である少女5人が、全ての過去と未来を受け入れ、肩を寄せ合い、頬をくっつけ、心から笑い合う姿であると、某などは思うのだ」
スタッブスは少しのため息をついて、2本目の煙草に火をつけた。かつては第一聖女隊に配属されて神のために働けると喜んだが、蓋を開けてみれば3年前からずっと赤ん坊のお守りである。
□□
太陽が西の稜線に蕩けてゆく。その赤黒い陽を浴びながら、ニスモは白い崖の上で箱のようになって蹲っていた。卜占に使用した羊の亡骸には蠅が集っていて、ぷんという羽音が鳴り続けている。
──全てが裏返った。
クララのために変わろうとした事も、クララが教えてくれた道筋も、喜びも、希望も、全てが黒く塗りつぶされてしまった。
──聖女のせいで不幸になってしまう。
認めたくないのに、認めざるを得なかった。
エリカという子も、私のせいで怪我を負った。いや、少し違う。私と関わる以前に、輝聖と関わったから、怪我を負ってしまった。何故なら、聖女は周りを不幸にしていくのだから。
──罪のない人が聖女の運命に巻き込まれる。
これからどうすれば良いのか。このまま塞ぎ込んでいて良いわけはないけれど、何をしたら良いか分らない。全てが怖くて、金縛りにあったように動けなくなった。
きっと、どんな哲学書を読もうとも、1歩の踏み出し方も、前を向く方法も、書かれていないだろう。書いてあったとしても、頁を捲れば、肝臓の癌のように黒く塗りつぶされているに違いない。
どうしたらいい。弱くて惨めで、変わりたくても変わろうとした瞬間に、その資格のない人間だと分からせられる。
──聖女がいなければ誰もが幸せになれるのだろうか。クララは幸せになれるのだろうか。
ニスモは聖女を殺める銃弾を衣嚢から取り出し、これを見つめた。ひどく陰鬱な気分にさせるそれは、西陽を吸収して摩訶不思議な虹色となっている。綺麗だった。暫く眺めて、力無く地に転がす。……弾を飲み込めばどうにかなると思ったが、その勇気も無かった。
「神さま……」
再び箱のようになって、ロザリオを握って祈る。
陽が完全に沈み、地平線が瑠璃色に染まる。蕭蕭たる夜が来る。
その時、とんとんとニスモの肩を叩く者があった。セルピコかと思い、無視をする。放っておいてくれという意思表示だった。
だが、もう1度肩を叩かれる。しつこい、と思いながらゆっくりと顔を上げた。
すると目の前、失ったはずの聖具『夏の聖墓矢』が垂直に立っていた。
矢の先には、転がした青い弾丸が刺さっている。不思議なことにそれは、布が水を吸うようにしてジワリと聖墓矢に吸収されていった。瞬きを2回した時には、矢の先は青く石化し、妙な煌めきを放ち始めた。
──夏の聖墓矢は焔聖の敵を穿つ。青い弾丸は聖女を殺める。
ニスモは辺りを見回す。誰もいない。静けさだけがそこにあった。
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