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秋風


 ニスモが次に目を覚ました時、そこは寝台(ベッド)の上だった。


 見知らぬ部屋。僅かに(すす)けた天井。赤い壁紙。(ランプ)硝子(ガラス)は油で(くも)っている。ぐつぐつと、何かを煮沸(しゃふつ)している音も聞こえた。匂いは涼やかだ。これは、(よもぎ)薄荷(はっか)(かす)かに獣油の臭いが混じる。


 見たことのない少女が机に向かっている。金の髪に、透き通るような白い肌、(みどり)の瞳。


 ややあってニスモは自身の胸を触った。包帯が巻かれていた。それで、倒れた所を助けられたのだと理解した。


 どれだけ寝ていたのかは分からない。輝聖はもう大白亜に辿り着いたろうか。第一聖女隊はどうなったか。セルピコは下山したか。ここは何処だ。


 ニスモはじっと少女を見る。誰だろう。優しげな少女、慣れた手つきで薬を調合している。机の上に並べられた香草(ハーブ)や油、立ち昇る香りから考えると、多少、生真面目(きまじめ)な印象を受けた。教本(メソッド)通りの作り方である。


「……君が、助けてくれたの?」


 そう問うと、少女は少し驚いた表情でニスモを見返した。


 少女は沈黙し、言葉を探していた。(うつむ)いたり、またチラリと視線を合わしたりと、落ち着かない様子でもある。


 ただ、姿勢を正すだとか、立ち上がって挨拶をするだとか、(かしこ)まった態度は取らなかった。恐らくこの少女は、ニスモが焔聖であることも、リンカーンシャー公爵家の令嬢であることも知らない。知っていたら、こんなあやふやな態度は取らないから。


 ──初めてかも知れない。私のことを完全に知らない人は。


 ニスモの周りにはニスモのことを知っている人間しかいなかった。どういう生い立ちか、父は誰か母は誰か、過去に何があったか、どんな性格か。それらのいずれか、或いは全てを知る者ばかりだった。


 だけれど、今目の前にいる少女は、きっと己のことを何も知らない。新鮮だった。


「ありがとう」


 自然と笑みが溢れて、礼を言っていた。久しぶりに笑った気がした。


 □□


 少女はクララ・ドーソンと名乗った。所作(しょさ)から良い教育を受けてきたのが分かるから、恐らく貴族なのだろうとニスモは思った。しかし話を聞くに1人で旅を続けているらしく、没落(ぼつらく)したのだと察した。


 クララは全てのことに一生懸命だった。胸の傷を治すのにも必死だったし、合間を見て自身の勉強も行っていた。健気で直向(ひたむ)きだった。


 胸の傷は聖女の治癒力により急速に回復していたものの、それでも夜になると体調が悪くなる日々が続いた。咳も出るし、頭も痛く、悪寒(おかん)が激しく襲って動くことも(まま)ならない。余程悪ければ、食べたものも戻してしまう。


 そんな時、クララは嫌な顔をせずに優しく背中を(さす)ってくれた。体が冷えていると添い寝までしてくれた。その優しさには最初は戸惑(とまど)ったけれど、ニスモは受け入れた。体が触れ合っていれば悪夢も見ずに済んだ。


 彼女の近くにいると不思議と眠くなった。日々の緊張が解れてしまうのだと思った。心安さとはこの事かと気付きを得た。


 2人だけの部屋には、聖女を証明する物は何もなかった。手にしていたはずの弓や、ニスモにとっては不気味な聖具『夏の聖墓矢(せいぼし)』は失せた。どこかに落としてしまったらしい。


 聖女の(あかし)とも言えるものが無くなった事に、初めは焦った。しかし、証が無いことに慣れ始めると、むしろそれが遠ざかったことで安心出来ている事に気がついた。どうせ誰かの手に渡っても、あの骨を矢のように放つことは出来ないだろうし、深く考えないことにした。


 クララがあまりに健気なので、ニスモは自分が持つ知識を惜しみなく伝えた。水薬(ポーション)の作り方も、回復魔法の方法や論も、余すことなく。クララは地頭が良いので飲み込みが早く、教える方も楽しかった。次は何を教えてやろうか、と色んな考えが湧いた。わくわくとした。


 少し体調を戻してからは、一緒に料理を作ったりもした。燻肉(ハム)を使用した煮物(ガルピュール)、丁寧に油をかけて作る羊の焼肉(コンフィ)、ふわふわの卵焼き(オムレツ)。美食家が多いリンカーンシャー公爵領の料理で、古くはリュカのいた国の料理だった。蝸牛(エスカルゴ)があれば食べさせてやりたかったが、残念ながらこの土地では手に入らなかった。


 2人で作った料理を2人で食べる。クララは美味しいと言う。その笑顔に、胸が締め付けられる。食べると少し汗ばむ額を布で拭ってやりたい。流石にそれはしないけれど、そのくらい愛おしい。


 健康にも気を遣いたくて、時には(ひゆ)のポタージュも作った。クララと一緒だと質素な食事でも美味しかった。1人で食べると味気ない黒パンも、嘘のように甘くなった。


 ──見知らぬ街、見知らぬ部屋。2人だけの穏やかな時間が過ぎてゆく。彼女と一緒にいる時は、自分が焔聖であることを忘れる事が出来た。ニスモ・フランベルジュである事を忘れられた。そして、幸せを感じられた。


 □□


 部屋には折れた杖があった。


「旅の途中で野盗に襲われて、その時に」


 クララは窓を開け放ちながら言った。まだ白さを残した夕日が部屋に入って、彼女の影が揺れた。小さな(ほこり)が舞って輝いていた。


「私、ばかだから、不用心で。家出同然で旅に出たから、準備も半端だったし……。心のどこかで期待していたような、楽しい旅にはならなかった。ただ、辛いだけだった」


 風が吹いて、髪が美しく踊っていた。


「でも、(とうげ)から見た景色は綺麗だった。薄い虹がかかってたなぁ……」


「クララは本当に1人で旅をして来たの? 馬車も捕まえずに、ウィンフィールドから?」


「はい。なんだかお金が勿体無くて……」


「魔物には襲われなかったの?」


「それが、幸運なことに。……旅立つ前は、それくらいは退(しりぞ)ける自信はあったんです。でも実際襲われていたら、どうだったのかな」


 ニスモは話を聞きながら、少しばかり(きも)を冷やしていた。多少魔法の心得があると言っても、少女が1人で旅をするなんて危険だ。


「あなたが1人で旅をしているって聞いたけど、まさか、最初から最後までずっと1人だったとは思わなかった……」


 この世界は悪で満ちている。


 親の愛を受けて幸せに暮らしていた子供が、ある日突然魔物に襲われて死ぬ。魔物に限った話ではなく、野盗に襲われて死ぬ事もある。もちろん都会ではそうない話だが、田舎なら珍しい話では無い。


 その野盗だって初めから野盗として生まれたわけでは無い。魔物に親を殺され、或いは瘴気(しょうき)棲家(すみか)を奪われて、生きるために野盗となった者もいる。冒険者や傭兵をやるよりも危険が少ないと思っている阿呆も、ほどほどにいる。


 ──この世界の悪は、大概(たいがい)、瘴気によって生み出されている。


 ニスモは寝台の上で布団をぎゅうと握りしめた。


 不貞腐(ふてく)さって破滅を願う日々があった。こんな世界は間違っているから、めちゃくちゃになった方が良いと思った。瘴気に飲まれて、みんなみんな死んで、それで悲しみも怒りも何もかも無くなれば良いと思った。


 でも、クララが不幸になったり危険な目に()うのは違う。我慢ならない。彼女が悲しむ世界はもっと間違っている。


 思っていると、ふと、脳裏に(よぎ)った。キャロルの側にいた、エリカとかいう少女の事だった。彼女はキャロルにとって、クララと同じような存在なのかも知れないと思った。


 そして、傷ついたエリカに寄り添うキャロルを思い出して、胸が痛くなった。あの瞬間、自分はこの世で最も(みにく)い存在だった。


「もう2度と1人旅なんてやったらだめよ」


「でも、会いたい人がいるんです」


「誰?」


「憧れている人です」


 その答えは、少し切ない気がした。


「そう……。会えると良いわね」


 でもこの儚げな笑顔を守らなければならないと思った。そして、彼女が笑顔でいられる世界を作らなくてはならないと思った。幸い、自分にはその力があった。


 その夜、ニスモは寝台の上で世界の安寧(あんねい)を祈った。そして聖女となったことを初めて神に感謝をした。自身の中に生まれた変化を(かえり)みる余裕はなかった。クララの直向(ひたむ)きさが伝染したように、健気に祈り続けた。


 □□


 ニスモは聖女としてのニスモ・フランベルジュに戻ろうと思った。


 クララと一緒にいる時間は掛け替えのないものだったし、いつしかクララ自体も掛け替えのない存在になった。彼女はニスモの過去を知らない。それが救いになっていた。普通の人間でありたいという心の根底にあった夢が、彼女によって叶えられたのだとニスモは思う。


 でも、もうそれは終わりにしなくてはならない。役目を果たさなければならない時が来た。


 2人で街に出た時、豆屋の店主から顕現日(けんげんび)の祭りが行われることを知った。ニスモはその日を最後にしようと思った。うんと楽しい日にして、一生の思い出にするのだと決めた。幼い頃から救いばかりを求めていたニスモにとって、自ら『こうしたい』と明確に思うことは(まれ)であった。


 そして祭りの朝。クララの髪を綺麗に整えて、少しの化粧をして、街に繰り出した。


 宿屋の扉を開けて外に出た時、秋の風がふわりと(かお)った。陽は柔らかで、肌を包み込むようだ。空は灰色と青色を混ぜて、微妙な色合いに溶け合っている。この時、初めて夏が終わったことに気がついて、胸が切なくなった。


 賑やかな中央通りを二人で歩く。露店で串焼きを買い、揚げた豆を食べた。南方から来た芸人たちの(もよお)しに民と共に驚く。肩を並べて劇も見た。古い喜劇で、劇や踊りが好きなニスモにとっては知った内容だったが、クララと一緒だと新鮮で、とても笑った。それから綺麗だと言って露店の花々を眺めた。お揃いの耳飾りを買って手を繋いで歩いた。本当に楽しい時間を過ごした。


 そして、いつの間にか陽が西に傾いているのに気が付く。こんなに時が流れるのが早いと思ったことは無かった。ニスモにとって時とは、いつもべとべと体に張り付いて、憂鬱にさせる嫌なものであった。


 広場で一息つく。あとはもう宿屋に戻るだけだ。そして夕食を作って、温かい内に2人で食べて、今日の思い出を話し、暫く経ったら、彼女の前から姿を消そうと思う。


 でも、いざそう思うと、離れてしまうことの切なさが重くのしかかって来た。甘い桃色に染まる空がこんなにも綺麗で、クララと離れたくなくなってしまった。


 だから、ほんの少しだけ弱音を吐いた。


「このまま、ずっとここにいようか。何もかもを忘れて。……本当に、全部忘れてしまって」


 悲しく微笑みながら続けた。


「朝起きたら少しのパンとポタージュを食べて、朝市に出かけるんだ。昼は日向ぼっこ、飽きてきたらお散歩。夜にはお肉とお魚があって、エールを飲んで、お話をしていたら疲れて寝てしまう。祭りの日にはこうして出かけて、たくさん遊ぶの。2人の間には、良い時間が流れている。ずっと、ずっと……」


 クララは弱音には感じなかったが、ニスモにとってはやはり弱音であった。


 そして、クララに名を問われたが、それは言わないことにした。言うことで2人の関係が別物になる気がした。後から調べて聖女だと知るならそれも良いが、自分から言うのは違った。


 そしてニスモはクララの前から姿を消した。


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