蒭藁
焔聖は大白亜を下山した。
禁軍文官の話だと、輝聖はマール伯爵領を南下中だから、聖都から北に伸びるアメリア王妃街道を辿れば鉢合わせる形になりそうだった。
聖都を出てすぐに雨足が弱まり、外套が要らなくなった。そして強い南風が吹き始めて雨雲が流れる。星々が姿を現し、ニスモは奇妙な体験をした。
夜空につるりと星が流れる。それも大量。10秒に一回1度は流星が観測できた。蒭藁の星々から放射状に星が流れ続け、星の降る夜となった。この現象は1時間近くも続いた。
それから半日を歩いた。教皇領の関所を超えてテンプルバリー伯爵領に入り、そのまま北上を続ける。馬宿や村などで休憩を挟みながら、さらに2日と半日を歩く。食事は適当に買ったパンと乾酪だけで済ませ、たとえば野兎が草を食むのを眺めながら食べた。
街道を進み続けていると、身を隠すのに最適な桂の林があったので忍ぶことにした。よくよく葉の生い茂る健康そうな木を見定め、登り、大枝に座り込む。
そしてニスモは膝を抱えて顔を埋めた。歩きながら景色を眺めていれば気も紛れたが、じっとしていると頭の中の混沌が蘇った。
(……この世に輝聖などいない方がいい。死んでしまえばいい)
不貞腐れたように心の中で唱えるけれど、たとえ殺そうと思ったとて、簡単に殺せるものでもないことはニスモにも分かっていた。聖女の体の神秘については、巡礼を行いながら調べていたから。
これは理屈だが、聖女の魔力を絶ってしまえば殺せるのではないかと思っている。例えば心臓を潰し、血の巡りを途絶えさせた上で、魔力を生み出す丹田を壊してしまえば、体は再生しない。念の為に、体を修復出来ぬ内に消し炭にしてしまえば良いが、それが出来るほどリトル・キャロルは弱くない。
本当にそうするかは置いておき、心の中で殺すための算段を立て続けた。それは暇潰しの一種だったし、心に目的を宿していれば鬱屈に押し潰されなくて済んだ。とにかくニスモは、荒んだ眼をしてキャロルが現れるのを待った。
1羽の白い鳩がニスモの目の前に止まって、ちょんちょんと腿を突いた。パンくずが付いていただけだろうが、なんとなく励ましてくれているように感じて嬉しかった。
「ふふっ、ありがとう」
優しく笑って、そのまま突かせてやる。
「お前が人の言葉を喋れたら良いのにね」
身を隠して5時間が経った。日が高く昇ったくらいで、人の気配がした。道の先をじっと見ていると、柔らかな陽炎の先に馬に乗った集団が現れた。マール伯爵領軍の装備を施した男が5名と、そして──。
(リトル・キャロル……)
茶色い馬に乗るのは輝聖であった。濃紺の髪が風に揺れ、白い肌は陽の光に輝く。学園の頃と何1つ変わっていないその容姿に、何故だか妙な安心感が芽生えたのと、やはりと言うべきか、同時に憎しみのようなものが湧き上がって来た。
キャロルの隣、馬に乗る少女がいる。ニコニコと眩しい笑顔で、キャロルに話しかけているようだった。
(あれは誰?)
その銀の髪の少女は、自分よりも若いか、同い年くらいに見える。学園を追放された後で知り合った者だろうか。装備の色を見るに、東方にある辺境伯領の人間だと思う。
(なんでそんな田舎者が……)
巨木の大枝に座るニスモの眼下、キャロルらは下馬した。そして街道から逸れて林の中に入る。キャロルは聖水と石灰、山羊の血を振り撒き十字を切って聖域を作り、火を焚き始めた。ここで休憩をするつもりらしい。
実の所ニスモは自分が1人で巡礼をし続けたことから、同じくキャロルも1人だろうと決めつけていた。だがそれなりの人数で来たものだから、出ていく間を失ってしまって、木の上で暫く観察を続けた。唐突に戦闘になって無関係な人間に危害を加えるわけにはいかない、と考えた。
近くの泉に行った銀髪の少女が帰ってきて、釣ってきた鯉をキャロルが捌く。そして香味野菜や茸、扁桃や扁豆、少しの大蒜と牛酪などを一緒に煮込んでポタージュを作った。複雑で濃厚な香りが木の上にまで漂う。
(あっ……!)
あまりに食欲を掻き立てる香りなので、腹が鳴ってしまった。ニスモは1人、赤面した。
□□
キャロルらは自分らと馬の食事を済ませて再出発した。日が落ちかけた頃、馬宿に到着。厩舎に馬を預け、キャロルは食事の支度を始める。鍋に水を入れて、たくさんの野菜と茸、牛骨を煮込む。ポタージュである。
(え? また?)
ニスモは薮の中から様子を伺っていたが、それを見て少しばかり驚愕した。昼もポタージュだったと思うのだが。
翌朝、キャロルは朝食を作った。鍋に葡萄酒を入れて数種の芋と大蒜、辣韮、香草などを一緒に煮込んだ。ポタージュである。
(嘘でしょ……?)
銀髪の少女はニコニコと美味しそうに啜っているが、その他の兵は笑顔が少ない気がした。飽きているのではあるまいか。いや、よく考えてみれば、林でポタージュを振る舞っていた時にも兵達の表情は暗いように思えた。──まさか、この道程の食事全てがポタージュだった、とか。
(そんなわけないか……)
キャロルらは食事を済ませて出発。道中の村で小休憩を挟み、キャロルは乾酪と扁桃を使用したポタージュを作った。
夜には廃村に入り、動屍を蹴散らした後は聖域を張って廃屋で休んだ。そして、キャロルは然も当然のようにポタージュを作り始めた。
「ええい、腹の立つ! やはりあんな女、死んだ方が良い! なんで毎食汁物ばかりっ! 私が出て行ってやろうか! 汁物女に代わって、それなりのものを作ってやるッ! 焼肉とか、薄焼とかッ!」
薮から出ていく寸前となって自制する。ふうふうと荒く息をしながらも、気持ちを落ち着けるよう努力し、窓から見える彼女らを眺め続けた。
廃屋から笑い声が聞こえた。誰かが冗談を言ったのだろうと分かる。
半壊した煙突から煙が立ち昇っている。
食欲の唆る出汁の香り。
暖かい灯りに揺らぐ影。
そして、いつもキャロルの側にいる少女の笑顔。彼女は輝聖といる時、ずっと笑顔だった。いつもキャロルについて回って、しきりに話しかけている。それに対してキャロルは気の利いた言葉を返すわけでもないようだが、それでも少女は楽しそうだった。キャロルもどこか、幸せそうだった。学園では見せなかった心からの笑みを時折作る。
「……私、馬鹿みたい」
途端にニスモは悲しくなった。自分から孤独を望んでいるのに、寂しさに苦しんでいることに気がついた。それに気がつくと今度は、自分が世の中で一番蔑まされた人間のようにも感じ始める。
──私は苦しんでいるのに、リトル・キャロルは幸せそうだ。神はどうして彼女に幸せを与えて、私を嫌うのだろう。
ニスモはじっと銀髪の少女を見た。彼女がキャロルに幸せを与えているのだと、なんとなく分かった。今すぐにその幸せを壊してしまわないと、自分が危うくなると思った。何より少女の純粋な笑顔が、幼い頃に姉について回っていた自分と重なった。
□□
夜明け近く、ニスモは櫟の木に寄りかかって座っていた。睡眠は取らなかった。聖墓矢を見ながら考えていたら、寝れなくなったから。
──もし、私があの少女を壊してしまったらどうなるのだろうか。
少女が倒れた瞬間、キャロルはぽろぽろと涙を流す。無力さに押しつぶされて、そして、もう2度と、いい人であろうとか強くなりたいとか思わない。今度こそ挫けるのだ。
「何を考えているの、私は……」
想像するだけで、罪悪感でどうにかなってしまいそうだった。
「あの子は無関係。彼女に危害を加えてはいけない」
結局はキャロルの事が羨ましいだけなんだろう、と思う。私を置き去りにして先に進む彼女が、堪らなく眩しいのだ。本当は、学園にいた頃から気がついていた事だった。
でも、キャロルを認めることは出来ない。彼女を認めると、自分が自分でなくなってしまう気がするから。姉や私の敗北を認めてしまう気がするから。
「負けたからって何? いっそ本当に負けてみればいいじゃない。いつまでも、うじうじと。情けない」
情けなかろうと、キャロルだけが理想を追いかけ、それを手に入れる事を考えれば、辛い。挫けてしまった私や姉は、そこには辿り着けない。虚しいし、悲しい。
「女々しい。生理臭い子供の思考だわ」
濃紺の空が白けてきた。ニスモは立ち上がり、遠い山々から姿を現す朝日を見つめた。
──あの時も、夜明けだった。
リンカーンシャー公爵領、ゴードン川の処刑場で篝火が踊っていた。アッテンボロー家の人間が次々に連れて来られた。民や冒険者に袋叩きにされ、既に死んでいる人間もいた。生き残りの首を刎ねろと命令された。かの家の人間は庭師や使用人までもが死罪となった。
断頭台で歳の変わらない使用人が泣き叫んでいた。姉に会っていることを内緒にしてくれていた子だった。失禁しながら母親に助けを求めていた。その首を刎ねると、民らが歓声をあげた。あの瞬間、誰もが狂っていた。まともな思考をした者は誰1人としていなかった。
今すぐに狂気の刑場から抜け出して、街のどこかに隠れているであろう姉を探し出したかった。そして2人で領を抜け出したかった。焦りと死体から漏れ出た糞尿の臭いで、吐き戻しそうだった。
──朝焼けが嫌いだ。
淡く透ける紫色の空、真新しい純白の太陽。
姉が断頭台に上がった時の、姉の言葉を忘れない。忘れたくても忘れられない。呪いのように耳にこびりついている。それは──。
「……!」
ニスモはハッとして屈む。キャロルが廃屋から出てきたのだ。
(寝ていなかったの……?)
キャロルは煙草に火をつけ、歩き出す。村にあった幾つかの墓に聖水をかけ、軽く十字を切った。そして、ふらりと近くの林の中に入って行った。ニスモはそれに着いて行く事にした。
林の中には浅い川があった。キャロルは河原まで行くと服を脱ぎ始めた。どうやら体を洗うつもりらしい。周りには誰もいない。キャロルにくっついて離れる事のなかった、あの少女も恐らく寝ている。
──話をするなら今だろう。
ニスモは壊れた水車小屋の陰から姿を現した。それで、キャロルは下服を脱ぐ手を止めた。上半身を曝け出したまま向き合う。胸には金色の首飾りが輝いていた。
「ずっと気配がしていた。ニスモだったのか」
それから、暫く2人は沈黙した。ニスモは初めに口にするべき言葉を探していたし、キャロルは言葉を待っていた。
「リトル・キャロル。決着をつけよう」
散々考えて、絞り出した言葉がそれだった。
「いい加減、疲れた。お前という存在に振り回されるのは草臥れる」
続ける。
「私が負けたら焔聖としてあなたに従う。だけれど私が勝ったら、あなたは大白亜に入らないで。そのまま私のために消えて。どこか山か森で、ひっそりと暮らせばいい。あの銀の髪の少女と一緒に」
キャロルは何かを言おうとした。だが、ニスモの瞳がそうさせなかった。迷いでも無い、怒りでも悲しみでも無い、ただ静かな瞳が並々ならぬ決意の色を滲ませていた。それが邪魔して決着の理由は問えなかった。
「分かった。やろう」
「武器は?」
「必要ない」
キャロルは軽く首を鳴らして、手をだらりと下げた。
その瞬間、2人の瞳が冴えた。まるでそこに炎が宿ったかのように、輝きが増して揺らめきを帯びた。周囲の空気はしんと冷え、ごおという小さな、低い、地響きのような音が鳴り始めた。聖女2人の発する気がそうさせた。
川の流れは妙になり、所々ちゃぷちゃぷと跳ねて音を立てる。2人の足元、砂礫がカタカタと音を鳴らし始める。異変を察した鳥たちが、木々から一斉に飛び立つ。
ニスモは考えている。──リトル・キャロルはどう動くか。
恐らくは、近接攻撃を仕掛けてくるだろう。何故なら、己の必殺の武器は『夏の聖墓矢』。当たり前だが、これは弓から放たねばその力を発揮することが出来ない。だが放てば必ず急所に当たる。それは頭か、心臓か、丹田か。とにかく、キャロルは聖墓矢を放てぬよう立ち回るはずだ。ならば、上手く動きに合わせて立ち回り──。
刹那、キャロルの左手が動いた。高速だった。何かを、投げた。
「ッ!」
石である。キャロルは『ずっと気配がしていた』と言っていた。用心して掌の中に石を隠し持ち、直様に投げられるよう準備を整えていた。
「チッ……!」
ニスモは咄嗟に炎の剣を生んで、眼前に迫ったその石を弾いた。予期しなかった攻撃だったから、魔法がやや暴走して、ニスモの視界も炎によって遮られた。その隙を突き、素早い動きでキャロルがニスモの懐に入り込む。そして、右手でニスモの左腕を取った。
距離を取ろうと思ったがもう遅かった。小枝を折るようにして、肘関節を破壊される。
ニスモは苦し紛れにキャロルの腹を蹴り上げた。そして、後ろに跳んで離れた。が、着地できずに川の浅瀬に激しく倒れ込む。足に力が入らなかった。
何事かと思って右足を見れば、足首があらぬ方向に曲がっている。蹴り上げた瞬間に足首を破壊されたらしかった。
(怪物め……ッ!)
ニスモは顔を歪ませ、胸の前で素早く2度十字を切った。魔法を発動させ、周囲を急速に熱した。川の水がパンと弾けて、水蒸気が発生する。辺りは雲の中のように真っ白になった。
次いで無の空間から炎の弾を生み出し、がむしゃらに放ち続けた。キャロルに命中しているかどうかは分からないが、とにかく足止め出来ればそれで良い。
弾は木々に当たって爆ぜて燃える。爆発音や、バキバキと木々が壊れる音が鳴る。
なんとか足と腕を治そうと回復魔法を試みるが、キャロルを恐れて焦り、腕だけを半端に回復させて片足で無理矢理に逃げる。そして川の中央付近にあった苔むした大岩に靠れて、弓を手にする。聖墓矢も矢筒から取り出した。
──キャロルの姿は確認できない。だが、必ずこの弓は敵を穿つ。
痛む腕で弓を引いたその瞬間。体が飛ばされるくらいの激烈な風が吹いて、霧が晴れた。キャロルが魔法を使ったらしい。
礫地に立つキャロルの足元には、魔法陣が出来上がっていた。脚で地を削って作られたようだった。陣からは強烈な冷気が発生していて、キャロルの体や髪にも霜がこびりついている。川を凍らせて、ニスモの動きを封じるつもりだった。
(さっきからそうだ。関節を壊して、力を奪うように戦う。飽くまで戦闘を継続出来なくさせるのが目的で、本気で倒すつもりがない)
ニスモは力一杯に弓を引いた。
(優しいつもりか! 私を穢すつもりかッ! 私がどんな想いで決着をつけようと……!)
放つ瞬間。気がつく。キャロルの背後、燃える森。炎に人影。──あれは、キャロルと一緒にいた、銀髪の少女。
不安そうに胸の前に手をやって、キャロルを見ている。廃屋でキャロルがいない事に気がついて、様子を見にやって来たのか。
ニスモは矢を放った。キャロルに真っ直ぐと向かっていった矢は途中で方向を変え、少女へと向かっていく。そして矢は吸い込まれるようにして、その胸に刺さった。
「あ゛っ!」
小さく叫び、少女は膝を折る。それで、キャロルは振り向いた。
「エリカ……?」
ニスモには何が起きたかわからなかった。確実にキャロルを射抜くはずだった聖墓矢が、少女の急所を貫いた。
瞬きをすると矢は雄鹿の頭に変わっていて、その太い角が少女の胸に刺さっていた。
(なんで? 私、彼女を狙うつもりなんか)
矢筒に戻った聖墓矢が神々しい光を放っている。それはまるで窓掛け越しの太陽のように、優しい輝きだった。
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