リトル・キャロル
私は神を信じていない。
「──キャロル。君は聖女だ」
私が15歳の誕生日を迎えた日、孤児院に来た神官が神の言葉を教えてくれた。
当時の私は、聖女という言葉さえ知らなかった。
■■
聖女だと知らされた日の夜は眠れなかった。
礼拝堂に出て、黒ずんだ板張りの床を踏み、割れたまま直されていないステンドグラスの側に立った。私は聖女だと宣告されたこの場所で、神官の言葉を何度も思い返していた。
──正直言って、どうしたらいいか分からない。
神官が言うには、聖女として選ばれた者はここから遠く離れた王都に行くらしい。二つ返事など出来るはずがない。孤児院の子供達も、世話役の私がいなくなれば困るし、私も彼らが心配だ。
それに、私は神を信じていない。聖女という存在の説明も受けたが、作り話だと思っている。だが、神官は決して作り話ではないと断言する。確かに自分の目の前に聖女がいるのだと強く言う。その瞳は、嘘を言っている様には見えなかった。
様々な話が一気にのしかかって、私は動揺していた。とにかく色々な事が頭の中をぐるぐると回って、収拾がつかなかった。
背後からぎしりと床の軋む音がしたので、ゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは私を聖女だと言ってのけた男で、黒い祭服に身を包んだ壮年の神官だった。
「君も知っているだろう。年々、瘴気の壁は迫っている。こうしている今も、我々の世界は狭くなっている。時が経つにつれて、人は瘴気に飲まれてしまう。我々に残された時間は少ない」
──世界は『瘴気の壁』に囲まれている。瘴気からは数多の魔物が生み出されている。魔物は、人や家畜を殺していく。
「聖女と定められた乙女達は、世界のために安寧を願い、瘴気を祓い、未来を繋ぐ運命を背負う。そこから逃げることは出来んのだ、キャロル」
神官は目を逸らすことなく、黒い瞳で私を真っ直ぐと見ていた。
「聖女は瘴気を祓える。分からんのか。瘴気が無くなれば、この世界から魔物がいなくなるのだ。君にはそれだけの可能性がある」
一方で私はすぐに目を逸らした。言っていることが、あまりにも大きすぎたからだ。現実的では無い。どうしてそんな夢物語を信じることが出来るのだろう。
「その力があれば、大切な人たちを守れる。もう失わなくて良くなる」
周りで、たくさんの人が死んでいった。魔物に襲われた私を逃がそうとして喰われた人もいる。親しかった大人が突然いなくなったこともある。助けようとした子供を目の前で惨殺されたことだってある。継親も3人変わり、やがて教会から派遣されなくなった。魔物に殺されすぎて、誰もこの地に来たがらなかったんだ。
人が死ぬ度に私は無力感に苛まれた。抗っても、どうすることも出来なかった。悔しくて、虚しかった。どうやらそれを、この男は知っているらしかった。
「神が教えてくれたのだ。君の苦悩を」
薄雲に隠れていた月が顕になり、私を照らした。
「リトル・キャロル。世界のために戦ってはくれんのか」
その時、私は不安だと言った。それを聞いて、今まで笑わなかった神官が少しだけ頬を緩ませて、鼻で笑い、こう答えたのをよく覚えている。
「神が味方だ。これ以上に心強いことがあろうものか」
■■
2日後のこと。私は馬車に乗り、王都へ向かった。過ぎていく田園の風景を、ただ見ていた。
「聖女とは平和の象徴だ。あらゆる邪悪を祓う」
隣に座る神官が分厚い本を読みながら言う。本からは燻した香のかおりがしていた。
「神が書いたとされる原典という本に『5人の聖女が現る時、世界の太平成る』とある」
5人の聖女とは、火の聖女、水の聖女、風の聖女、大地の聖女、そして、それらを束ね導く、光の聖女だとされている。
「君が5人の聖女のうち、どの聖女なのかは、まだわからん。『日の蝕む時、力現る』。つまり、日蝕の時に聖女たる力を授かる、ということだ」
私は景色を見ながら、ぼそぼそとして聞き取りにくい声をなんとなく聞いていた。野焼きの煙が高く昇って行き、青い空を灰色に濁している。強く風が吹いても、濁りは取れない。
「日蝕が起こるその時まで、精進せよ。リトル・キャロル」
王都にある学園が私を預かる事になった。学園での待遇は貴族のそれだった。何ひとつ不自由ない暮らしが突然始まった。食べ物も美味ければ、飲み物に火を通す必要もない。
学園には私の他に四人の聖女候補が選良として集められた。ここで、総合的な知を学ぶ。
──これが、今から三年前の話だ。
■■
私は18歳となった。そして明日、ついに日蝕が訪れる。
「キャロルちゃん……。緊張してる……?」
「ええ……。少しだけ……」
部屋の窓から月を見ていると、同部屋の聖女候補マリアベル・デミが私の手を握って問いかけてくれた。
マリアベルは、いつも仄かな笑みを浮かべている少女だった。青い瞳は凪の海のように静かで、顔には泣きぼくろがあった。薄い青色の長い髪は美しく、ゆらめく燈の灯りを受けて輝いていた。
「きっと大丈夫。私も、キャロルちゃんも、良い結果になる。出来ることは、何でもやったんだから……」
「そうかな……」
「うん……。私は光の聖女になりたい……」
そう言って、マリアベルは私の手をきゅっと握った。いつも通りの優しい声色だったが、灯りで影を落としたその表情は、何か思い詰めているようにも見えた。
「マリアベルが光の聖女になっても、変わらず友達でいて欲しいな。上下の関係なく、友達で……」
「えー! 当たり前だよ! 私たち、ずっと友達だから!」
そう言ってマリアベルが私に抱きついて笑ってくれたから、私はその夜、眠ることが出来た。
■■
翌日。13時40分。世界が闇に飲まれた。空が黒く沈み、あたりが暗くなった。太陽が徐々に、ゆっくりと、蝕まれていく。
私たち聖女候補5人は、学園内にある大教会の礼拝堂にいた。みな着慣れない式服を着用し、一列に並び立ち、聖火の前に立つ枢機卿の言葉を待っていた。
闇の中、聖火の柔らかな揺めきだけが、その場にある灯りだった。その聖火に見え隠れするのは背後にある大祭壇で、そこに立する巨大な女神像がちらちらと炎の色を映して煌めいている。
「ニスモ・フランベルジュ、前へ」
公爵家の令嬢、ニスモ・フランベルジュが言われた通り前に出る。さらりとした赤髪と、鋭い目つき、血のような赤い瞳に、長い手足。彼女には迂闊に他人を近づけさせない雰囲気があった。
枢機卿が灌水棒を振り、ニスモに聖水を振りかけた。
「手を前に」
ニスモが祭壇の女神像に向かって手を翳す。すると手の先に、ぽうと小さな赤い炎が生まれた。その炎は白い光を放ちながら次第に体全体を包み、高く上った。私はその鋭い眩しさと、肌が焼けるほどの確かな熱に、少し顔を顰めた。
「おお……、火の聖女だ」
「素晴らしい」
「伝説は本当だったのだ」
各領から集められた来賓がざわつく。
「火の聖女……」
ニスモは自らの燃える掌を見て呟いた。私は彼女の表情から、感情を読む事はできなかった。
■■
その後も粛々と儀式が進められた。
眼鏡をかけて銀髪を三つ編みにした子、ローズマリー・ヴァン=ローゼスは風の聖女。ウェーブのかかった亜麻色の髪と妖艶な顔立ちをしたメリッサ・サンチェス・デ・ナヴァラは大地の聖女。そして、マリアベル・デミは水の聖女となった。
マリアベルはゆっくりと視線を落とし、輝く水の滴る手を悔しそうにぐっと握り締めていた。
「前へ」
枢機卿が私を見て言った。──消去法だと、私が光の聖女ということになる。
「あの子が光の聖女になるわけか?」
「名前は?」
「キャロル。リトル・キャロルだ」
「ああ、気立が良いと評判の……。それがあの子か」
「成績も良いし、学園でも活躍していたと聞く。恐らく、光の聖女だろう」
来賓が騒めく中、私は背筋を伸ばして枢機卿の前に立ち、胸の前で十字を切る。祭壇の炎を映した赤い聖水が、体にかかった。もう一度息を整えて、手を女神像に向けて翳す。
一瞬、女神像の目にゆらめく光が宿った気がした。
それを認めると、どくんと心臓が高鳴った。次いで体が燃えるように熱くなる。喉にひりひりとした熱い何かが、上がってくるようだ。叫びたくなるような衝動があって、一度目を閉じる。息が荒くなっているのが分かる。なんだろう、これは。落ち着け、落ち着けと心の中で唱え、ゆっくりと目を開けて、気がつく。翳した手がふわりとした煙を立てている。
「煙……?」
枢機卿が目を細めて呟いた、その時だった。
私の翳した手が、瞬時に膨張した。
いや、違う。膨張したのではない。私の手に、何か固形物が纏わり付いたのだ。
──明らかに光の力ではない。
「……これは」
枢機卿が私の手を触る。少し触れると、ボロボロとそれは崩れて、こぼれた。地に落ちた塊は、どろりと溶けている部分もある。
「腐った⁉︎」
「光の聖女じゃないのか?」
「呪われているのでは……」
集められた来賓がどよどよと騒めき始めた。それに混じって、ぴき、という鋭い音が聞こえる。
音のする方を見上げる。木造の女神像に大きなひびが入っている。内側から白い瘤のような塊がひびを押し広げていき、ついには像を腐らせながら崩壊させた。
「神が……」
枢機卿がそう呟いた後、次第に騒めきが波のように引き、礼拝堂に再び沈黙が訪れた。
■■
日蝕の後、聖女たちは神から授かった力の制御に励んだ。
結局私が授かった力の正体はわからない。ただ、聖女の力ではない事だけは確実だった。そして、私はあの日以来、女神像を崩壊させた妙な力を使うことが出来ていない。故に、裏方に徹した。
聖女達の仮想敵となる捕らえてきた魔物を檻から出し、それを訓練場まで連れて行き、その後は、死骸を処理する。それがここ暫くの仕事になった。
学園地下にある檻に向かい、狼型の魔物を出す。今日は魔物が興奮していて、かなり抵抗された。手につけた籠手に喰らい付き、暴れる。何度も振り回され、体を壁に叩きつけられた。いやでも時間がかかってしまう。
魔法さえ使えればこの程度の魔物は何でもない。だが、どこかで、魔法を使うのを怖がっている自分がいた。それに、武器を持って真っ向に対抗しようという気持ちも湧かなかった。聖女でなかった自分は、目の前のこの魔物よりも矮小に思えて、心がそれを受け入れてしまっていた。
しばらく経って、ニスモ・フランベルジュが様子を見に来た。彼女は私を見つけるなり、強く睨みつけた。
「こんなことも出来ないの?」
「……ごめんなさい」
私が謝ると、何の躊躇もなく私に炎を浴びせた。眩い炎が激しい旋風になって迫り、私は魔物と一緒に吹き飛ばされた。壁に激突し、頭を打つ。炎は身を焼く。
「ケホッ……!」
激突した時に、火を吸い込んでしまった。喉が痛い。続けて2、3回咳が出て、血が散った。
「邪魔よ、ゴミムシ」
ニスモは倒れる私を見下ろし、手を踏みつけた。
「いつまで聖女に関わろうとしているの? 虫唾が走るのよ、聖女でもない人間が我が物顔で、ここに存在しているのが」
そして、私の髪を持ち、顔を近づける。
「あなたの考えを言い当ててあげる。聖女を偽り、恩恵を受けようとした。でもそれが失敗した今、せめて聖女に媚を売って権力を得たい。さすが、自己中心的な下民が考えることは汚らしい。反吐が出る」
そう言って私の顔を強く地面に打ちつけてから、顔を蹴った。
「──呪われているのよ、あなたは」
私はニスモが地下室から出ていくのを待って、垂れる鼻血を抑えて立ち上がり、魔物の死骸を処理した。
嫌がらせも加速した。歩けば、忌子、売女や淫売と、謂れのない悪口が学園中の生徒から投げられた。信じられないことに、石や矢が飛んできた事もある。面白半分で殺そうとしてくる者もいるのだ。いや、面白半分では無いかもしれない。聖女と偽った私を殺す事が、本気で正義だと思っている者も、中にはいた。この現状について教師達は見てみぬフリだ。いや、嘲笑ってすらいる。
■■
ある日、私は学園の中庭でマリアベルを見かけた。日蝕の日以来、彼女とは話す事が出来ていなかった。マリアベルは部屋に帰らず、他室で過ごすようになっていたからだ。だから私は、それなりの勇気を出して話しかけた
「マリアベル……」
近寄って手を引こうとした。
「触らないで……!」
マリアベルは私の手を払って、拒絶した。
「ご、ごめん……。呪われて腐るかもしれないから……」
そして手が触れた場所を、ハンカチで拭った。
「わ、私はそんなんじゃ──」
「喋らないで」
マリアベルの冷たい声色に、頭が真っ白になった。
「ほんとは今までずっと、我慢して友達のふりをしてたんだ……。勘違いさせてたら、ごめん……」
そして小さく涙を流し、こう言った。
「この学園から出て行った方が良いと思う。みんなのためにも……」
私には返す言葉が無かった。それで、いたたまれなくなって、出来るだけ早くその場から失せることしか出来なかった。
「ようやく言えた……。貴族じゃないのに聖女なんて、ありえないよね……。穢らわしい……」
背中ごしに、マリアベルの声が聞こえた。胸が苦しくなって、手足が冷える感覚があった。
■■
その翌日。私の処分が書かれた制札が、学園内の広場に立てられた。
内容は、私リトル・キャロルを除籍するということ。理由としては、2つ。まず『聖女としての力を持たなかった者は選良に留めること能わず』。もう1つは、『本来リトル・キャロルは当学園において身分不相応である』。
さらにもう1つ、『学徒は、この恥ずべき処分を園外に漏らす事を禁ずる』ともあった。
私は暫くそれの前で立ち尽くした。集ってきていた野次馬が怒号を投げつけたり、笑ったりしていたが、不思議とあまり気にはならなかった。
「いつまでいるんだね? 文字も読めなくなったのかな?」
様子でも見に来たのか、痩せ細った教師がにやけた顔で私の肩に手をやり、煙草を吸おうと一本取り出した。
「ふぅ──────」
私は長いため息をついた。こうなっては仕方がない。取り繕うのはおしまいだ。
「このクソみてぇなお嬢様しぐさはヤメだ、ヤメ」
生真面目に整えていた髪も解く。そして、教師が取り出したばかりの煙草を盗る。
「な、なんだね君は……!」
火をつける。吸う。生き返るような美味さだ。3年ぶりの煙草なだけある。こんな所だが、まあ、別れの1本くらいは許されていいだろう。
「どけ」
すぐ後ろにまで来ていた野次馬共を睨みつけると、さっと道を開けた。彼らは先とは違う意味で騒めいていた。
「あれがみなしごか……」
「そう言えば孤児院出身だったな……」
「野蛮だわ……」
野次馬の中に、4人の聖女たちもいた。
マリアベルは他生徒と私の悪口を言い、ニスモはただ何も喋らず鋭い眼差しで私を見ている。ローズマリーは下品なものを見るように目を背け、メリッサは冷ややかな笑みを浮かべていた。
私は野次馬に向けて、言う。
「お望み通り出てってやるよ。だがな。いつか、私は必ずお前らの前に現れて、すました顔をぶっ叩いてやる。その事をよく覚えておくんだな……ッ!」
怒号と笑いは変わらず。私の話などは耳に入っていないようだった。
「じゃあな。まあまあ楽しかったよ」
マリアベルを一瞥する。マリアベルも私を見ていた。
「たとえ『友達ごっこ』でもな」
そして半分以上残っている吸い殻を置き土産に、私は正門から出た。
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