あの人の手紙
バタン
無情にもドアは閉まった。今ならまだ間に合う、秋は追い縋ろうとした自分を無理やり押し留めた。
「とうとう運命の日。もし、もしも、今日一日、一歩も外に出なければ、旦那様との幸せな日々が続く。だけど、それは、一年後に来る旦那様の死を意味する。ごめんなさい、秋、迷っちゃいました。でも、行きますね……」
独り言を呟いた秋は身支度を整えると涼のマンションを出て、いずこへともなく消えた。
昼休み、涼は早速、秋に電話を掛けた。だが、昨日まで確かに通じていた番号は、
「お客様のおかけになった電話番号は現在使われていません……」
なぜだ? メッセージアプリは? 秋のアドレスは友達リストから忽然と消えていた。何か理由があって、秋はスマホを解約したのかもしれない、涼はそう考えた。
ならば、メッセージを自分の部屋に残してくれているはずだ。涼は、矢も盾もたまらず、定時に会社を飛び出した。マンションの鍵を開けるのももどかしく、リビングに飛び込んで灯りを点けた。
「やっぱり」
チーク材のテーブル、蛍光灯に照らされ、その長方形だけ切り取られたように、置き手紙が青白く浮かんで見えた。
嫌な予感がした。震える手で封筒を開け、ヘリオトロープだろうか、可憐な紫の花があしらわれた二枚の便箋を取り出した。そこには金釘流の下手くそな文字で、こう書かれていた。
〜*
最愛の旦那様へ(Dear My Romeo)
黙っていてごめんなさい。私があなたと過ごせるのは一週間だけ。それが神様との約束なのです。
だから、今生のお別れです。だけど、好きで好きでたまらなかった旦那様と、楽しい時間を過ごせました。
無理やりなお願いにも関わらず、私を娶っていだだき、秋は宇宙一の果報者です。前世では私の命を救ってくださり、今生はこんなにも素晴らしい思い出をいただけた。旦那様にはどんなに感謝しても、し過ぎることはありません。
ですので、ささやかではありますが、私、ああ、神様からかな、のプレゼントがあります。どうか、受け取って下さい。運命に従って下さい。
では、またお会いできるのを楽しみにしております。
ありったけの愛を込めて(Lovin' You♪)、秋より。
〜*
今生の別れ? どういう意味だ? 秋は死ぬということか? 何故、何のために? まるで、暴風雨に見舞われた帆船のよう、右に左に揺れる心、思考の海に沈まんとしていた涼の脳髄に、スマホのコールが響き渡った。
プルルルル
「はい、夏江です」
「おお、涼、あのなぁ、落ち着いて聞け」
秋の手紙すらまだ消化できていないというのに、琉海からも何やら思わせぶりな電話のようだ。
「うん? なんだ?」
涼は満足に言葉も出ない。
「実は、実はだな。前にも聞かれたがお前の心臓、本当は相当悪い。このままだと、持って一年なんだ」
何を今更、そんなことは分かっていた! 突然の余命宣告は、むしろ、涼の心を落ち着かせた。
「ああ、分かってるよ……。もう覚悟はできてるさ。そうか……。後、一年か……。ありがとな。あの結婚式も、お前と秋が俺に気を遣って仕組んだサプライズなんだろ?」
「結婚式? 何のことだ? そうじゃなくて、違うんだよ。お前は生きることができる! 移植手術をして! ドナーが見つかったんだ!!」
「ドナーだって! そんな急に?」
涼の頭の中に散らばっていた一万ピースのジグソーパズルは、突如として美しい絵画に変じた。
「まさか、秋からのプレゼントって……。そ、そのドナーって、どんな人だ?」
「知ってるだろう? 守秘義務があるんだ。私にも知らされていない」
当然の返答だ、俺は何をバカなことを聞いている、狼狽えるのもいい加減にしろ! だけど、そういえば、琉海、妙なことを言ったな? 涼は琉海を問い質した。
「そりゃ、そうだな。でも、琉海、お前、変じゃないか? 昨日、俺、秋と、写真館で、結婚式を挙げたよな?」
「涼、いろいろ急展開過ぎて、混乱するのは分かる。だが、気持ちを落ち着けて、な、な。とにかく、早々に準備して病院へ来い!」
何を言ってるんだ琉海は? まるで秋など存在しなかったような言い草だ。
いや、待てよ? 電話番号もアドレスも消えていた秋、もしかして夢を見ていたのは俺の方か? 俺は心の病、妄想に囚われている? ならばあの手紙はなんだ? 今、まさに涼は、混乱の渦に飲み込まれようとしていた。
だが、運命の神は優しく、思慮深かったのではないだろうか。
ウッウウウウウ
突如、涼を襲った心臓発作、彼の苦悶は神の慈愛により中断した。