プロローグ〜マタイによる福音書
〜* イエスはパンを取り、これを裂き、弟子たちに与えられた。「これは、あなたがたのために与える私の体である」 杯を手にこう言われた。「この杯は、あなたがたのために流す私の血である」 *〜
日本のとある海辺の街。卒寿を迎えた白髪の老人が、一人、乗用車を走らせている。正確に言えば走らせているのは老人ではない、AIだ。かつて、彼くらいの年齢になれば、運転免許証を返上したらしいが、今や人がマニュアル運転をすることは、法律で禁じられている。
フロントガラス越しに見える住宅の庭には、向日葵の花が揺れている。坂道を登れば、遠く水平線に血糊のごとく紅い夕日が沈もうとしていた。
「便利になったのか、不便なのか……。どうやっても法定速度以上では、走れないな」
独り言を呟いた彼、鈴木琉海は、無二の親友、夏江涼、危篤の知らせを受け、彼の入院するホスピスへと急いでいた。
海を望む木造二階建てのホスピスは隣接するフェーレス教会が経営している。白い十字架が沈む日の光を受け柿色に輝く中、米国テセラ製の自動運転車は静かに駐車スペースに止まった。
カチャリ、シューーン
水素エンジンのイグニッションを切った琉海の左手のドアが音もなく開く。
「イタタタ……」
去年から患っているヘルニアで痛む足にも構わず、琉海はホスピスの玄関へと走った。