――暗澹たる別れ――
創作話を聞かされる心地で、俺は紅葉の語る真実とやらに耳を傾けていたが、その赤く塗られた口が閉ざされると同時に、失笑するようにフッと鼻から息を漏らした。
「何を言いだすのかと思えば、今の話は和香が死んでるってことを言いたいんですか? そんな馬鹿な話があるわけない。今もこうして隣にいるし、触ることだってできてる。最後の最後で、一番興ざめする話を聞かされました。面白さの欠片もない、むしろ不愉快だ」
虚勢を隠すように吐き捨て、俺は髪に隠れた紅葉の顔を間近から睨みつけた。
余裕を見せつけるかのように微笑んだままの赤い唇は、それでも怯む気配を浮き上がらせることもせず、
「お話がお気に召さなかったのでしたら、申し訳ありません。ですが、わたしはただ本当に起きた出来事をありのままにお伝えしただけのこと。目黒さんにはお辛い現実でしょうが、どうか受け入れてください」
そう再び言葉をこぼしてくる。
「それに、信じられないと言われても、お隣に座る和香さんの姿を見れば、もはや生きた人間でないことは明確でしょう。お二人はもう、住む世界が分かれてしまったのですよ」
「……そんな話、信じられるわけがない」
小さく首を振って否定の意を示しながら、俺はまた和香へと首を曲げる。
しかしそこにいるのは、あからさまに普通ではない姿に変容してしまった恋人で、薄暗い室内においてもこれが特殊メイクや仮装でないことは容易に判断ができてしまう。
そもそも、これが何かしらの仕掛け――それこそイベントの最後を飾るドッキリだったとしても、いつ和香にこんな仕掛けを仕込む時間があったというのか。
信じたくはない。紅葉の話したことなど、ただの作り話だと一笑に付してやりたい。
そう本能が望んでいるが、身体はそれを躊躇っている。
どうして、和香の顔は抉れているのか。どうして、和香が掴んでいる手はこんなにも異常な握力があるのか。
そして、どうして触れる和香の手は、骨の芯まで染み入る程冷たく感じてしまうのか。
「……和香、もうやめよう。な? こいつに頼まれて芝居をしてるんだろ? こんな茶番、もういいよ。ここを出て、二人で花火を見に行こう。今からなら、まだ充分間に合うよ」
瞬きをしない和香の目から、ツゥーっと血涙がこぼれ落ちる。
いったい、何なのだろうこれは。俺たちはただ、怪談のイベントを観に来ていただけじゃなかったのか。
「貴方と待ち合わせをしていた和香さんは、本当に楽しそうな顔をしていましたよ。今日の夏祭りを貴方と共に回ること、さぞ心待ちにしていたのでしょう。それ故に、和香さんも貴方と余計に離れられなくなってしまっている。霊体となった後、わたしと離れてすぐに貴方の元へと向かったみたいでしたし」
紅葉の声を耳へ入れながら、俺はふと待ち合わせをしていた時のことを思い浮かべた。
和香が現れるほんの少し前、祭りの場となる大通りとは反対の方向で、何やら祭りとは違う喧騒を聞いた記憶がある。
祭り関係者が騒いでいるのかと適当に考えていたが、ひょっとするとあれは和香の事故を目撃した人たちの騒ぎ声だったのではないだろうか。
あの騒ぎ声が聞こえて、大して時間を置かずして和香が目の前に現れた。
紅葉の酔狂な言葉を真に受けるのなら、タイミング的にはそれほど矛盾はないが……。
俺が逡巡している間も、和香は肉へ食い込むのではと思うくらいの力でがっしりと俺の腕を握り締め、その手を離そうとする素振りはみせない。
ただただこちらを凝視し、毛細血管が破れたように赤く染まり始めた目を見開いているだけ。
頭からは止まることなく赤黒い液体がタラタラと零れ落ち、視線を下げて見れば床に大きな黒い水溜まりができはじめていた。
「――木京さん、いい加減になさい。目黒さんを、貴女が愛した最愛の人を、これ以上困らせてどうするつもりです? 現実を受け入れて、潔く身を引きましょう。これ以上目黒さんを巻き込むことは、許されません」
唐突に、俺を掴む和香の腕へ、紅葉の細い手が伸びた。
骨と皮しかないのではと思えるほどに華奢なその指が、和香を浴衣越しに捉えた瞬間、いきなり電気が走ったかのように和香の手が跳ね、俺の腕から離れた。
紅葉の顔からは、つい数秒前まで俺に向けていた微笑が消え、口元は不愉快さを露わにするかのように引き結ばれている。
腕を掴まれた和香は、赤い眼球をグリンと紅葉へ向けると、敵意を滲ませた形相で髪に覆われた顔を睨みつけた。
今まで一度も見たことのない、恋人の醜悪な顔を目の当たりにして、俺は思わず状態を仰け反らせるようにして距離を取ってしまう。
「……目黒さん。入ってきた入口から、外へ出られます。今すぐに立ち去ってください。木京さんは、わたしが責任をもって対処致しますから。大丈夫、決して悪いようには致しません」
和香の方を向いたまま、紅葉は言葉だけを俺へ放ってくる。
「で、でも……和香を置いていくなんて俺には……」
しどろもどろになりつつ、どうにか返答を口にだす。
こんな訳のわからない事態に直面してなお、俺はまだ和香がまともな存在であることを信じたいと思っている。
あまりに急転直下すぎる展開で、これをあっさりと受け入れて信じろという方がどう考えても非現実的だ。
「ここまで説明をして、木京さんのこの姿を見て、それでもまだ踏ん切りがつかないと? ならば、このまま貴方もここに留まりますか? あの世でも、この世でもない、狭間の空間を永遠に彷徨うこととなるんですよ? 貴方の住んでいた世界では、貴方は行方不明者として扱われ、ご家族やご友人たちは貴方の身に何が起きたのかもわからないまま、残りの生涯を過ごすことでしょう。それでも、後悔はありませんか?」
「…………」
この紅葉という女は、どこまで本気なのか。
自分がこのおかしな空間に一生閉じ込められれば、確かに家族や友人、会社の人たちは困惑することにはなるだろう。
しかし、それはあくまでそうなればであって、閉じ込められなければ起こりえない話だ。
「和香を連れてここを出たら、駄目だと言うんですか?」
「言ったでしょう。もう木京さんはお亡くなりになっているんです。貴方が連れ帰るような真似をすれば、木京さんは成仏のできない霊体となり、ずっと貴方へつきまとうことになるのです。はっきり言うのなら、憑りつくということです。そうなれば、遅かれ早かれ貴方も命を奪われることになりますよ」
感情の起伏もなく、ただ淡々と事務的に語るような紅葉の言葉を聞き、俺は今一度、和香の姿を確かめる。
ただ触れているだけにしか見えないが、そんなにも紅葉の握力が強いのか、和香はまだ唸るように低い声を漏らしながら、赤く染められた紅葉の唇を睨んでいる。
ほんの少し目を逸らした間にも、頭部の損傷は広がり、和香の小さな右耳は中途半端に引き千切られたように垂れ下がりだしていた。
もはや完全に、芝居や特殊メイクで済まされる姿ではない。
「目黒さん、あまり長くこの場に留まることは、生きた存在には害にしかならないのです。長くいればいるほど、貴方の魂は衰弱していきます。無駄に死期を早める必要もないでしょう。さぁ、お帰りになってください」
喋りかけてくる紅葉の顔が僅かに下へ傾き、ずっと目元を覆っていた前髪が揺れた。
それによって生まれた僅かな隙間から、隠されていた紅葉の目が俺の視界に晒された。
鮮血のように赤い唇とそれとは対照的に白すぎる肌。
その肌の先に隠れていた紅葉の両目は、漆黒だった。
見てしまった刹那、何だろうかと訝しみかけたが、すぐにそれがぽっかりと開いた穴だと気づく。
左右共に眼球がなく、ただ丸く開いた眼窩がその中に濃い闇を蠢かせ、和香を凝視していた。
人間ではない。
一目見て、そう本能が納得した。
同時に、俺は怖気に襲われるようにして立ち上がり、紅葉を避けるようにして距離を取った。
立ち上がった際に、椅子が不甲斐ない音を鳴らして後ろの客へぶつかったが、そんなことはもう気にもならない。
ここに集まる者は全員、自分とは違う命を終えた者たち。
それぞれがどのような最期を迎えたのかは知らないが、もう生きることができなくなった存在の集まりなのだ。
「もう二度とお会いすることはないと思いますが、どうかお元気で。よく考えれば、生きた者がわたしの怪談会へ参加されるというのも、なかなか貴重な体験だったかもしれません。このようなかたちとは言え、本日はご参加いただきありがとうございました」
暗い闇を詰め込んだ眼窩は再び髪に隠され、紅葉の赤い唇だけがニィっと不気味に吊り上がる。
それを見て、そして未だ捉えられたまま呻いている和香へ視線をスライドさせ暫し躊躇する気持ちに苛まれた後――俺は目の前の全てを振り切るように入口へと駆け出し、勢いよくドアを開け外へと飛び出した。




