――終演――
「――さて、これで今宵最後のお話も終わりとなりました。長い時間、お付き合いいただきまして本当にありがとうございました」
語り終え、ふぅと小さな吐息を漏らすような動作をみせた後に、紅葉はまた観客たちを見回すようにユラリと頭を左右に揺らした。
「こうして全国各地で怪談を語る度、その地域にお住いの方々が足を運んでくださるのは、何かささやかながらの御縁があるからのように感じられて、わたしはすごく嬉しくなるのです。皆様一人一人が色々な事情を抱えているとは思いますが、同じ仲間として例えひと時の時間であっても、こうして一緒の時間を共有できたこと、感謝致します」
喋りながら、紅葉はスッと立ち上がり、深々と一礼をする。
観客たちは、それでもまだ誰もが無反応を決め込み、帰り支度をするための準備を始める気配すら漂わせることをしていない。
本当に、訳のわからない連中だ。
「……これにて、わたしの怪談会は終演となるわけですが、実は一つ、ずっと気になっていたことがありまして」
ゆっくりと頭を上げた紅葉は、改まった口調で再び言葉を紡ぎ始めると、徐に俺の方へと真っ直ぐに身体の向きを変えてきた。
背後の客たちへ意識を傾けていた俺は、いきなり何だという思いで戸惑うように身体を硬直させる。
「……そこの、貴方」
紅葉の右腕がスッと伸び、白く細い人差し指がこちらを指し示す。
誰のことを指しているのか、俺は咄嗟に和香や後ろに座る無表情な男へ視線を飛ばすも、誰もが人形のように微動だにせずジッとしたまま姿勢を固定しているだけ。
いったいいきなり何なんだと焦りつつ紅葉へ顔を戻すと、それを待っていたかのように、コクリと小さな頷きを返されてしまった。
「そう、最前列にいらっしゃる男性……貴方ですよ。可愛らしい浴衣を着た女性とご一緒されている」
浴衣を着た女性と一緒……間違いない、俺のことだ。
「な、何でしょうか……?」
ここにきて、ついに会話を交わすことになった。
何故だか妙に心臓が引き攣るような緊張感を抱きながら、俺は乾いた喉からどうにか声を絞り出す。
「実は、ずっと気になっておりまして。貴方、こちら側の住民ではありませんよね? どうやって、ここまで来られたのですか?」
「え?」
言われた言葉の意味がわからず、間抜けな反応を返してしまう。
こちら側、とは何だろうか。まさか、これは会員限定のイベントで、俺たちはそれを知らずに入り込んでしまっていたとか、そういうことか。
しかしだとすれば、俺だけではなく和香だって同じく指摘を受けなくてはおかしいはず。
「この会場へは、どうやって入られました?」
俺が逡巡している間に、紅葉はもう一度ゆっくりとした喋り方で問いを重ねてくる。
「どうって……普通に、入口の赤いドアから入りましたけど」
何が聞きたい? 何が言いたい?
相手の意図が読み取れず、俺は記憶を必死に巻き戻しながら慎重に返答を口にする。
「赤いドアから……ですか。貴方に、あのドアが見えて開けることができたと、そういうことでしょうか?」
「見えて……まぁ、はい。普通に見えましたけど。あ、でも開けたのは和香、俺の彼女です」
説明をしながら、隣に座る和香を指さし同意を求めるように視線を向けるが、相変わらず中空を見つめたままの姿勢を保ったまま、微動だにせずに前を向いている。
こんな時まで何なんだと内心で思いながらも、俺はひとまず紅葉へ視線を戻した。
「えっと、このイベントにも和香が参加してみたいと言って足を運んだので、正直俺もよくルールみたいなものを理解していないと言いますか……。あの、何か俺たちに問題がありましたか?」
「ああ、彼女さんが。なるほど」
俺の問いかけの部分は無視するかたちで、紅葉は何かを察知したように一度大きく頷いてみせてくる。
それから、微笑を湛えた口元を手で擦るようにしながら、
「失礼ですが、貴方のお名前は?」
こちらの名前を訊いてきたので、素直に答えを返した。
「目黒です。目黒徹」
「そう、目黒さんとおっしゃるのですね。では、目黒さん。お連れの恋人の方……和香さんが、今どういった状況かは、把握なされているでしょうか?」
「は? どういう状況って、何がですか? 何か、さっきからぼんやりしてる感じで、様子がおかしいなとは思っていたんですけど、和香がどうしたって言うんです?」
紅葉から見ても、様子がおかしいのがわかり心配でもしてくれているのかと都合の良い解釈をしそうになったが、どうにもそんな気配ではない。
訝しく思いながら紅葉と和香を見比べていると、紅葉の口からふぅっという小さな吐息が漏れる音が微かに聞こえた。
「そのご様子だと、何もお気づきになられていないようですね。……木京和香さん、貴女にお訊ねしますけれど、どうしてここへ目黒さんをお誘いしたのですか?」
俺に固定していた視線を僅かに横へずらし、紅葉は和香へと問いを放る。
「……彼と、一緒に来たかったんです。一人は心細くて。徹と、離れたくないから」
真っ直ぐに前を向いた状態のまま、和香は口だけをモソモソと動かし言葉を吐き出した。
せいぜい二時間ぶりくらいに聞いた和香の声は、何だか数年ぶりに再会した相手の声を聞いた時のように、ひどく懐かしく感じられた。
「離れたくない……お気持ちはわかります。それに、ここへ来ないかと最初に木京さんへ声をかけたのはわたしですし、こちらにも幾分責任はあるのかもしれません。しかし、それでもルール違反には変わりなく、許されることではないのですよ。ここには、貴女だけが訪れる資格があったのですから」
「……はい、すみません。でも、あたしはまだ徹の側にいたいんです」
二人は何を話しているのだ。
内容にいまいちついていくことができず、俺はただおろおろと二人の声を耳に入れながら成り行きを見守ることしかできずに座っている。
「わかります。大切な方と共にいたいのは、当然のことです。ですが、貴女はもう駄目なのですよ? ご自身でも、それは理解されているでしょう?」
「…………」
紅葉のかけた言葉に、和香の横顔が僅かだけ揺らいだ。
そしてまた、中空を凝視する瞳はそのままに、形の良い小さな唇だけが小刻みに動く。
一瞬、震えているのかと疑ったが、実際にはそうではなく何かを呟いているのだと、間近で見つめて理解した。
「……お、おい。和香?」
やはり様子がおかしい。紅葉と交わす会話の内容も意味不明だし、俺は胸中に蠢く焦燥感がむくむくと膨らんでくるのを自覚する。
「なぁ、和香。本当にどうしたんだよ? あからさまに様子が普通じゃないぞ。具合悪いのか?」
もはや我慢して黙す必要もないと、俺はそっと和香の右腕に手を添え声をかけた。
――刹那。
弾かれたような勢いで和香の首がこちらを向き、華奢な女性とは思えない異様な握力で添えた手を掴まれた。
「徹は……あたしと一緒にいてくれるよね? ずっと一緒にいるって、約束したもんね?」
大きく見開かれた和香の両目が、俺をジィ……ッと従える。
今まで一度も見たことのないその和香の変貌に、俺は一瞬言葉を失いそうになった。
「……の、和香? お前、落ち着けよ。いきなりどうしたんだよ」
場の雰囲気に感化でもされ、テンションがおかしくでもなっているのか。そう考えたいが、残念ながら当たっている自信はない。
「目黒さん。木京さんは、そんな姿になって尚、まだ貴方と共に未来を歩めると思い込んでいるようです。ですが、そんなことは到底叶うはずのない願望。未練は断ち切らねばなりません」
近くからかけられた声に振り向けば、困惑している俺のすぐ側に、いつの間に移動してきていたのか紅葉が立ち、見下ろすようにしてこちらへ顔を向けていた。
その表情は今も髪に隠され全てを窺うことはできないが、漆黒の髪の奥からチリチリとした視線を感じる。
「そんな姿って……和香は別にいつも通りでおかしなところは――」
どこまでも意味がわからないことばかり言ってくる。
さすがに少しイラつきそうになりながら俺が言葉を返そうとすると、それを制止するみたいなタイミングで、紅葉は俺の横――和香の方を指さした。
「本当に、いつも通りでしょうか? 今一度、木京さんをご覧になってみて下さい。それが……今の彼女の、本当の姿なのですよ」
「え?」
言われるまま、俺はまた和香へ顔を戻し――そして、絶句した。
「……徹。あたしたち、ずっと一緒だよね?」
ほんの数秒、紅葉へ顔を逸らしただけの間に、こちらを真っ直ぐに見つめる和香の顔面が、真っ赤に染まっていた。
乱れたようにひしゃげた毛髪の奥から、ダラリと血液が流れ出し、顎からボタボタと太腿へと垂れている。
顔の一部、右のこめかみ付近は肉が抉れて裂け、赤黒い内側が捲れて露わになっていた。
「……のど、か?」
何が起きたのか、わからない。わかるわけがない。
「目黒さん」
思考が停止し、動くことも忘れたようになった俺に、紅葉が驚きも何もない平静な声音を落としてくる。
「もしよろしければ、わたしが真実を語りましょうか。貴方の知らないところで、木京さんに何が起きたのか。どうして、彼女がここへ貴方を連れてくることを考えたのか。ついでに……今いるここが、どういった場所なのか」
スゥゥ……と、紅葉が上体を屈め俺の耳元へ口を近づけてきたのが、声の移動でわかった。
「この怪談会が始まる少し前、実はわたし、木京さんをお見かけしていたんです。すぐ側で、彼女の身に起きた出来事の一部始終を目撃しておりました。まぁ、もっとも、その原因を作りだしてしまったのはわたしのようでしたので、お詫びのつもりでこの場へご招待しようとお声をかけたのですけれど」
一方的に喋る紅葉の言葉は、やはり何を伝えようとしているのか把握ができない。
しかし、そんな俺の胸中など構うつもりがないように、紅葉は淡々と和香の身に起きた異変の真実とやらを語り続けてきた。
「短いお話です。ことの発端は――そう、この怪談会が始まる少し前、ここからすぐ近くにある交差点での悲劇でした」
俺から目を逸らそうとしない和香を直視したまま、俺は嫌でも耳の奥へと這い進んでくる紅葉の話をただされるがままのように迎え入れた。




