第三十八話:観客席に立つ
「最後は、俺の話ですね」
木柳が着席するのと入れ代わるタイミングで、新たな声を発したのは低い声の男だった。
四十代か、若くて三十代後半くらいだろうか。
落ち着いた雰囲気はあるが、どこか棘を含むような声音の男は、能代と名乗り、小さな咳ばらいを一つしてから早速話を語りだした。
今はもう引退しましたけど、俺、三十くらいまでボクシングをやってたんですよ。
テレビで取り上げられるほどの戦績も残してないし、ベルトも一度も触れないで引退しちゃいましたけど、それでも十年近くプロで試合をさせてもらってました。
それで、俺が体験した話っていうのは、先に断っておきますけど、これひょっとしたら怪談とかじゃなくて、俺の幻覚とか夢とか、そういうもんの可能性も普通にある話なんで、その辺は適当に割り切って聞いてください。
でも、俺自身は本物の不思議な体験ってやつだと思ってるんで。
その体験っていうのは、俺がプロとしてのデビュー戦を飾った時のことなんですけど、俺、高校の時からボクシングやってて、そこそこの結果は出してだしてたんです。
だから、デビュー戦も余裕でいけるだろ、なんて思いながら挑んだら……これがもう最低で。
相手の方が、自分より普通に強かったんですよね。
ほとんどこっちばっかパンチ喰らって、俺の拳なんてほとんど当たらない。
そんで、六ラウンドの時です。
カウンターで相手のパンチをもろに頭に喰らって、ダウン取られたんですよ。
で、これ経験しないとわかりにくい話なんですけど、本気で頭に衝撃受けると、記憶が飛ぶんです。
一発で失神することもあるし、そうならなくても、完全に意識ないような状態で、それでも何て言うのか……無意識で立ち上がろうとしたりしちゃうんですね。
後になって自分の試合観たりすると、ダウンした後のことを何にも覚えてないみたいな。
正直言うと、その時の俺が正にそういう状態で、ジムの仲間が撮影してたビデオ後から確認したら、ダウン取られてレフェリーがカウント数えてる間、手足に力入らないのに、必死に立ち上がろうとしてて。
でも、その時の記憶、全くなくて。
だけど、おかしなことに、一つだけこの時のことで覚えてることがあるんです。
こっちが右のパンチ出してカウンター喰らう直前までは、まずはっきり記憶があります。
で、そのすぐ後なんですけど、ダウンして立ち上がろうとしてる最中になるんですかね、俺、観客席の一番前に母親が立ってるのを見てるんですよ。
すっげぇ心配そうな、泣きそうな顔して俺のこと見てて。
それで俺、あ、母ちゃんだって思って、母ちゃんの前でこんな無様な姿見せられねぇなって、立ち上がろうとした。
そんな記憶だけが、ぼんやりと残ってるんです。
でもね、そんなん絶対ありえなくて。
そもそも、俺の母親は俺が中学の時に乳癌で入院して、高校二年の時肺に転移した癌が原因で死んでるんです。
だから会場になんているわけなかったんです。
実際、仲間が撮影してたビデオ確認しても、母親なんていないし似てるような人も映っていなかった。
と言うか、無名のボクサーのデビュー戦なんて、満員になるほど客集まりませんから。
俺の時なんて観客席は空席だらけでしたし。
ただね、映像に映ってた俺、焦点の合わない目でずっと誰もいない観客席見つめながら、必死んなって立ち上がろうとしてたんですよね。
立とうとする度バランス崩して倒れるくせに、俺、ずっと同じ場所見てたんです。
結局、立ち上がることはできないままテンカウント取られて、最後はレフェリーに身体支えられて寝かされちまってましたけど。
そこから先の記憶は完全に何もなくて、控室で目を覚ますまで何も覚えていません。
俺の中にある記憶、あの時俺、死んだ母親のこと見てたんでしょうかね。
母親、もし俺の試合観に来てくれてたんだとしたら、すげぇ情けない姿見せちまったなって、今でも滅茶苦茶後悔してて。
あの試合だけは、しっかり勝って母親のこと安心させてやりたかったって、今でも思い返す度に自己嫌悪になったりしてます。
まぁ、最初に言ったように、わかんないんですけどね。あれが現実だったのか幻だったのかなんて。
ただ俺は、都合が良いだけかもしれませんけど、あの時絶対に母親が俺の試合観てくれてたんだって、そう思うようにしてるんですよ。
その方が、ただの幻覚とかで片付けるより全然、何か、良いですから。
つまんなかったかもしれないですけど、そんな話です。以上です。




