第三十四話:真冬の蠅
当時、神奈川にお住まいだった女性で、曽根さんという方がおられまして。
その方、生まれて初めて借りたアパートですごく嫌な体験をしたことがあったのだそうです。
実家が佐賀県にあると言っていましたか……そちらから仕事の都合で神奈川の方へ出てきたらしいのですが、それまではずっと実家暮らしをしながら通勤をしていたため、慣れないなりに不動産を訪ね、どうにか部屋を見つけることができた。
そこは他に紹介された物件よりも幾分家賃が安く、新しい職場までもそれほど遠くない場所にあったため、曽根さんは即決で契約をしたのだそうです。
季節は一月の半ば。会社側の急な都合で異動を命じられ、仕方なく新しい環境へ身を置く覚悟を決めてきた曽根さんでしたが、配属された職場は特に問題なくすぐに馴染めたものの、借りた部屋の方で、あるおかしな現象に見舞われてしまうことになり、それがどうにも気分の良いものではなかったのだと言います。
その現象というのが、夜布団に入って寝ていると、すぐ耳元でヴゥ……ンという、蠅の飛ぶ羽音が聞こえてきて目を覚ましてしまうというもので、それはどうやら一匹二匹では済まないくらい、何匹もの蠅が部屋の中を飛び交っているように聞こえてくるのだという。
最初は驚いてすぐに部屋の電気を点けた曽根さんでしたが、電気を点けた途端に毎回謎の羽音はピタリと止み、それ以降は朝まで静かになってしまうのだそうです。
そもそも、真冬の夜に窓など開けてはいないし、室内に蠅が寄ってくるような物など置いてもいない。
一月の半ばに、蠅が飛び回ること自体も明らかにおかしい。
己の身に振りかかるこの謎だらけの現象に、曽根さんは引っ越しから一ヶ月経たずしてノイローゼのような状態になりかけてしまった。
そうして、仕事にも支障をきたすようになり始めてしまった頃。
曽根さんの異変に気がついた会社の上司が、どうしたのかと声をかけてきてくれたことをきっかけに、曽根さんは自分が毎晩体験しているおかしな現象を吐露すると、その上司は
「ん? 曽根さんってどこに部屋借りてるんだっけ?」
と、訝しむように問いを口にしてきた。
隠す理由もないだろうと、曽根さんは素直に自分の借りているアパートの住所と部屋番号を教えたのだが、それを聞いた上司はあからさまに頬を強張らせて曽根さんを見つめ返し、こう言葉をかけてきたのだという。
「曽根さん、その部屋は駄目だよ。協力するから、すぐに別の部屋を探すべきだ。俺、地元の人間だから知ってるんだけど、そこの部屋ね……四年前に人が死んでるんだ。殺人事件があって、殺された男が腐乱死体で見つかった部屋だよ」
その事実を教えられ、曽根さんはすぐに理解したという。
毎晩顔の周りを飛び回っていた羽音。
あれは、過去にあの部屋の中を実際に飛んでいた蠅たちの音が何かの力でもって自分にも聞こえてしまっていたのではないか。
そして、確証はないものの、ひょっとしたらその殺されていた男が倒れていたのは、自分が寝室として使っていた部屋だったのでは、と。
不動産は、事故物件であっても定められた条件を満たしてさえいれば入居者にその事実を公表しなくてもよいルールのようなものがあります。
なので、部屋を借りるということに慣れていなかった曽根さんが、何故家賃が安かったのか、自らその理由に疑いを持つことができなかった時点で、いわくつきの部屋を避ける術はなかったのでしょう。
その話を上司から聞いた翌日、曽根さんは上司に付き添われながら不動産へ赴き、無事別の物件へ入居することができ、それ以来見えない蠅が飛び回る音に悩まされることはなくなったそうです。




