第一話:黒いカラーボックス
自然公園を離れ、祭りの気配に浮かれる人々を横目に見ながら、だらだらと歩くこと約十五分。
俺は眼前にそびえ立つ八階建てビルを見上げ、訝しげに眉を寄せていた。
「……ここで間違いない、よな?」
一度手にしたチケットへ視線を移し、記載されている住所を確認する。
土地勘はあるため、場所を誤認しているというのはあり得ない。
会場として用意されているのは、確実にこのビルの四階だ。
だけど……。
駅の裏側を暫く歩いた先にある、ごく普通のビル。
しかし、現在このビルは解体作業の最中で、外側全体を巨大なネットのような物で覆われてしまっている。
前に職場で聞いた話では、老朽化が進んでいたため一度取り壊し、新しく商業ビルができる予定だと教えてもらった記憶がある。
「よりによって、ここなのか? 隣のビルとかと間違えて記載されてるんじゃないのかな」
一般的に考えて、解体中の建物でイベントを行うなどそう簡単に許可が下りるものだろうか。
「大丈夫、ここで合ってるよ。こっち、入口は裏にあるんだって、チケットをくれた人に教えてもらったの」
疑心暗鬼になり立ち竦む俺を手招きし、和香がビルの横にある細い道へと入っていく。
「あ、待てよ」
慌ててそれに続きながら、落ち着きなく周囲を見渡してみるも、祭りのせいか人の姿は一人も見つけられなかった。
「ほら、ここ。早く入ろう」
裏手に回ると、すぐに白いドアを見つけた和香がノブを回し引き開ける。
「うわ……中はもう結構暗いな」
夕方とは言え、夏であるおかげでまだ外は明るい。なのに、一歩ビルへと足を踏み入れた途端、光が遮断されてしまったのではと思いたくなるくらいにどんよりとした薄闇が身体中へとまとわりついてきた。
それに合わせ、肌に触れる温度も一気冷えたように感じる。
どこか薄ら寒い空気に腕を擦りながら、俺が静寂に包まれたビルの内部を眺めていると、和香がすぐ近くにあった階段を指差した。
「エレベーターはもう使えなくなってるらしいから、会場までは階段を使って来てって言われたから、たぶんそこから行けるはずだよ」
ビルの内部は、剥き出しのコンクリートだけがどこまでも広がり、床には埃や解体作業の際に飛散したのであろう小石のような塊に混ざるようにしてゴミも散乱している。
人の姿も気配もなく、取り外された窓枠の奥からは車のエンジン音や、祭りの場で流されている囃子が仄かに入り込んできている以外何も聞こえない。
こんな所で、本当に今から怪談会など開かれるのだろうか。やはり会場を間違えているのでは。
ビルの前に着いてから抱え続けている不安を急激に膨らませつつ、階段を上がり始めた和香の背を追いかけるよう足を踏み出した俺は、ふと中学生の頃に十歳年の離れた従妹から聞かされたある恐い話を思い出した。
自分には過去に恐い体験をした記憶はないし、普段からそういったジャンルのテレビ番組や雑誌等も読んだりもすることがない。
当然、ネットに転がる心霊動画も観ないし、オカルト系のサイトにも疎い。
そのため、自分の人生において何か披露できる怪談があるかと問われた場合、この従妹から聞かされた話くらいしかレパートリーを持ち合わせていないのが本音だ。
もちろん、口裂け女やトイレの花子さんのような、全国的にも有名な都市伝説くらいは知っているが、あんな話はメジャー過ぎて園児くらいしか真面目に聞いてもくれないだろうから、世間的にはノーカウントになるだろう。
今からもう、十年くらい前に聞いた話しかレパートリーがないというのも情けないなと思うと同時に、和香がこういったジャンルが好きだというなら、少しは興味を持った方が今後のためにも良いだろうかと思案しながら、俺は従妹から聞いた話を具体的に思い返してみた。
「ねぇ、徹。あたしのクラスの子がね、幽霊視たことあるんだよ」
春休みの夜、部屋でゲームをしながら遊んでいた最中に、泊まりに来ていた従妹がそう話を切り出してきた。
いきなり何だと思いつつ、オカルトに興味のない俺は「ふぅん。どんな幽霊?」と、仕方なく話を聞いてやるといった態度で反応を返すと、従妹はそんな俺のリアクションを気にすることもなく話を続けてきた。
「あのね、その子去年の冬休み中に引っ越しをしたの。引っ越しって言っても、同じ市内だから転校とかはなかったんだけど、親が中古で良い家を見つけたから買ったんだって教えてくれた」
「うん」
ひとまず話の核心が見えないため、俺は黙って従妹が喋るのを聞いていようと耳を傾ける。
「それで、引っ越しが終わって自分の部屋の片付けも一通り済ませたのが四日後くらいだったって言ったかな。新しく住む家の新しい部屋だから、その子も何だかんだでワクワクしながら暮らし始めたらしいんだけど、その部屋を使いだしてからね、一つだけおかしなことが起きるようになったって言うの」
従妹はわざとらしく人差し指を立て、僅かだけ俺に顔を近づけてきた。
「そのおかしなことっていうのは、夜になるとね、毎晩コン……コン……コンって、何かを叩くような音が部屋の中から聞こえてくるの。それが毎回夜中で、いっつも同じ時間に目を覚ます羽目になっちゃったらしくて。これっていったい何の音なんだろうなってずっと気になってたんだって」
フローリングの床を自分の拳でコンコンと叩きながらも、従妹は俺がちゃんと話を聞いているのかを確かめるように、ジッと視線だけは固定していた。
「それで、引っ越してから二週間くらい経ってからかな。どうしても我慢ができなくなって、その子、音の正体を確かめてやろうって思ったの。で、もし部屋の中に何か欠陥とかがある感じなら、お父さんに言って直してもらえばいいやって。それでその子、夜になるといつも通りに布団へ入ったんだけど、気が張って眠れずにいたみたいで、例の音が鳴りだす瞬間までずっと起きてたんだって。夜中の一時くらい。またコン……コン……コンって謎の音が鳴り始めたから、きた! って思って枕元に用意してた懐中電灯を持って布団から起き上がったんだって」
それほどの興味はなかったとは言え、ここまで聞いてしまえば、オチを知らないとモヤモヤしてしまう。
俺は相槌も打たず、いつの間にかただ従妹の語りにだけ意識を集中させていた。
「どこから音がしてるんだろうって部屋の中を移動しながら探ってると、その音……どうやら部屋に置いてあったカラーボックスの中から聞こえてきてるのがわかったの。正方形のスペースが縦に四段積み重なったタイプの、扉がついた黒いカラーボックス。その一番下のボックスから、ノックするみたいな音が鳴り続けてる。ずっと壁の中とかから聞こえてるんだろうって思い込んでたらしくて、何でこんな所から音がするのか意味がわからないなぁなんて考えながら、そっとそのカラーボックスの取っ手に手を伸ばして扉を開けたら、その子、夜中なのも忘れて思いっきり悲鳴上げちゃったって言うの」
芝居がかった感じで、従妹の表情が硬くなる。
「そのカラーボックス、中にね、男の人の生首が入ってたって。扉を開けた途端、充血した真っ赤な目で睨みながら、ゴロンってカラーボックスから転がり出てこようとして、それで悲鳴上げて部屋から飛び出しちゃったって」
そこまで言って、従妹はスッと近づけていた顔を離した。
「それで、悲鳴を聞いて起きてきた両親に今見たことを伝えて部屋の中を確認してもらったんだけど、男の人の首なんかどこにもなくて、その子が開けたカラーボックスの中も、自分が片付けた小物なんかが入ってるだけで何もおかしな箇所は見当たらなかったんだってさ。その夜のことがあったせいで、部屋を変えてもらったそうだけど、結局その子が見た生首が何だったのかはわからずじまい。ただ、安い値段で売られてた家を買ったって言ってたから、曰くつきの家だったのか、じゃなきゃ土地に問題があったりしたのかもしれないよね。あたしの想像だけど」
そこまで話し終えて、従妹は「恐かった?」と訊きながら俺のやっていたゲームを横取りして遊び始めてしまい、この話が実話だったのか、はたまた従妹の考えた作り話だったのかは未だにわからない。
俺個人がまともに知る怪談――と呼ぶ程のものかは知らないが――は、これくらい。
後はせいぜい家にいたら乾いたような音が天井から鳴ったとか、その程度のレベルのものだけだ。
「あそこで良いのかな?」
ぼんやりと過去の話を思い返しながら歩いているうちに、目的の階へ到着した。
相変わらず無機質なコンクリートに包囲された薄暗い廊下が目の前に伸び、その途中にある赤い扉を指差し和香が振り向いてきた。
灰色に覆われたような空間で、唯一鮮明な色を生み出しているその扉は、あまりにも場違いな存在に映り、気味悪さを放出している。
恐らくは、イベントに合わせて用意したものであろうが、それでも悪趣味としか呼び方が浮かばない。
「かもね。ひとまず開けてみればわかると思うし、行ってみよう」
「うん」
和香を促し、廊下を進みだす。イベント会場になっているせいか、それとも単なる思い込みか、この階へ辿り着いてから急に人の気配のようなものが濃くなったような感覚がまとわりついてきていた。
廊下を見回しても、誰もいない。
物音や話声も一切聞こえない。
それでも、ヒタヒタと肌へ張り付くように人のいる気配だけが静かに充満しているような、そんな感じがした。
「何かちょっと緊張するね」
赤い扉は、間近で見ると血のように濃い色をしていた。
その扉のドアノブを握り、和香が恐る恐るといった体で手前へと引く。
――瞬間、場の空気が変わった。
赤い扉の奥から流れ出てきた空気は、夏とは思えない冷たさをまとい俺と和香の頬を撫でて逃げていく。
室内は思っていた以上に広く、そして赤黒い照明に包まれていた。
照度の弱いライトに赤いセロファンを巻いたような、遊園地のお化け屋敷より幾分マシに思える程度の明るさの会場には、ザッと眺めただけで数十人の客が用意された椅子へ腰かけている。
躊躇いながらも中へと入り、扉を閉める。
その間、既に集まっている観客たちは誰一人として振り返ってくることはしなかった。
それ以前に、囁き合う声もなければ身体を動かす際に立つ衣擦れの音すら耳には届かない。
人が密集しているのに、無音。
そんな状況が眼前に広がり、俺は怖気づきそうな心地に陥りながら和香との距離を縮めた。
「あたしたちで最後なのかな?」
「さぁ? 開始までまだ少し時間があるし、この後にも来るんじゃないか? それより、どこに座れば良い?」
チケットには、座席の番号などは書かれていなかった。
もっとも、こんな明るさではまともに番号を探すことも難しそうではあるが。
「――ようこそ、おいでくださいました。チケットを拝見させていただいてもよろしいですか?」
「うわっ!」
お互いの顔を近づけるようにして囁き合う俺たちの側に、いつの間にか赤いドレスのような服を着た女が立ってこちらを見ていた。
地毛かかつらかは判別できないが、腰まである長い黒髪が顔の半分を隠すように覆い、薄っすらと笑む赤い口紅の塗られた口元だけが、存在を強調するみたいに視界へと侵食してくる。
「あ、す、すみません。えと……あ、これ、チケットです」
大声をあげたことに恥ずかしくなりながら、俺はポケットからチケットを取り出し女へと差し出す。
それに倣うようにして和香もチケットを渡すと、女は小さく頷きスッと前方――客たちが座るスペースへ右腕を伸ばした。
「……確かに。ではお席へご案内します。どうぞこちらへ」
「あ、どうも……」
声の感じからして、三十代くらいだろうか。落ち着いた雰囲気ではあるが、それがかえってこの空間では薄気味悪く感じてしまう。
チラリと横を歩く和香を見やれば、こちらは特に恐がるような素振りも窺わせず、スタスタと女の後へ続いて歩いていた。
「こちらの席になります。もうすぐ開演致しますので、今暫くお待ちください」
「あ、はい」
案内された席は、最前列のほぼ真ん中。やや左側か。
まさかこんな特等席に案内されることになるとはと驚きながら、和香と並ぶようにして座り、去っていく女の背を見送る。
女は、まるで足を動かしていないのではと錯覚しそうなくらい揺れることなく会場の隅へと移動していき、衝立のような物の裏へと姿を消した。
きっと、あそこで関係者が色々な準備をしたりしているのだろう。
そういった物音も、今のところは聞こえてこないが。
「楽しみだね。どんな感じのイベントになるんだろう」
さり気なく周囲を一瞥し、和香が小声で話しかけてくる。
すぐ目の前には、ベンチのような長椅子が一脚置かれており、この後そこへ出演者が座りながらイベントを進行していくのであろうと推測ができる。
それ以外には、特に何もない。
殺風景と言えば殺風景だが、あくまでも怪談を披露するためだけの場であるのなら、逆にこれくらい質素な方がそれらしい演出を作れるのかもしれないなと、素人ながらに思った。
「さぁ。わかんないけど、ひとまず雰囲気だけは出てるね。これだけでも充分に不気味なくらいだよ」
幽霊や怪現象等を恐がるつもりはないが、そういったモノを信じない人間にも、この空間は畏怖の念を抱かせてくる。
ここで更に盛り上がるような展開にでもなって、吊り橋効果でも得られれば和香との関係もより深いものにできるかもしれない。
これから始まるであろうイベントの内容よりも、またそんな打算を脳裏によぎらせてしまいながら、俺はきょろきょろと会場を眺める恋人の横顔をさりげなく見つめた。