第八話:ウォークイン
芳沢と名乗った男が、小さく一礼して席へ座る。
「ありがとうございました。滝の中に見た怪異。良い話だったと思います。水辺には霊が寄りやすいと言いますし、そういった場所には、新しい仲間を冥途へ引きずり込もうと待ち構えているモノも、ひょっとしたらいるのかもしれませんね。なかなかに面白い内容でした」
まるで指名した生徒を褒める講師のような口上を添えて、紅葉はスッと首を横へ動かした。
「それでは、次はもうお一方のお話を伺わせていただきましょう。どうぞ、よろしくお願い致します」
告げられた相手は、芳沢と共に指名を受けた若い女性。
その女性は、無言で立ち上がると覇気のない表情でペコリと小さく頭を下げた。
「金北由愛李と言います。よろしくお願いします」
見た目は成人だが、声はまだ高校生くらいに思えそうな幼さを残しているその女性――金北は、顎を引くように若干俯きながら、簡単な挨拶を口にした。
それから、話を始めるタイミングを計るように一拍の間を置いた後、静かに言葉を滑らせ始める。
「あたしは四年前まで高校生でした。長野の小さな町で育って、ずっとその町で暮らしてきたのですが、高校三年の夏休みに初めてアルバイトをやってみようと思ったんです」
語りだす金北の幼い声は、学生時代に何度か経験した朗読会の風景を思い出させた。
「それで、両親と学校から許可を貰って、コンビニで働き始めることができたんですけれど、そのアルバイトの最中に、凄いモノをはっきり見ちゃって、それであたし……二ヶ月くらいですぐに辞めちゃったんです」
静謐な室内で喋る金北以外の観客は、やはり誰一人として物音を立てようとはしない。
その中で、前へ座る紅葉だけが、まるで音楽でも聴いているかのように、微かに身体をユラユラと左右へ揺らしながら、金北の話に耳を傾けている。
「あたしは、基本学校が終わってからの出勤だったので、夕方から夜の九時半くらいまで働かせてもらっていましたが、休みの日は店長と相談して午前中から仕事をしていることもあったんです。……あたしがアレを見たのも、そんな休日に出勤をした時でした。時間は確か、お昼過ぎ。午後の二時半くらいだったと記憶しています」
室内の物音がないのは今更だが、よくよく考えてみると外部からの音もこの部屋には入ってきていないなと、俺はふと疑問に至る。
ビルの近くを通る道路には、いくらでも車が走っているし、少し離れた場所では夏祭りの真っ最中だ。
それにも関わらず、ここまで無音を作りだせるものなのか。
「お昼を買いに来るお客さんの対応に一段落がついて、あたしはドリンクの補充をしていたんです。ウォークインって言うんですけど、あのペットボトル飲料やお酒が並んでるコーナーの裏側から、少なくなった商品を追加する作業です。ちょうど店内からお客さんもいなくなって、もう一人のバイトの人にレジをお願いしてあたしだけで補充をしていたんですけど、ウォークインって売場が見えるんですよ。だから、飲み物を追加しながら店内の様子を確認することもできちゃうんですけど、その……補充してる最中に、入口のある方向から黒い服を着た人が歩いてきて、ちょうど作業をするあたしの正面で立ち止まったんです」
俺が外の雑音が入り込まないことを気にしている間にも、金北の話は淡々と続いていく。
「それであたし、あ、お客さんが来たのかって思って。でも店内は他のバイトがいるから大丈夫だろうって、特に気にしないで作業を続けていたんですね。でも、おかしなことにそのお客さん、いつまで経ってもそこに立ってるだけで動こうとしなくて」
赤いライトの下、紅葉の黒い頭だけが不気味に揺れながら金北の方を向いている。
その髪に隠れた視線を浴びながら、金北は緊張する気配もない声音をじんわりと赤黒い闇に染み込ませていく。
「商品選ぶのに随分時間をかけてるけど、そんなに悩むのかなぁ。そんなことを思いながら、あたしはふっと視線を上げてそこに立つお客さんの顔を見ようとしたら……無かったんです。首から上が。黒いライダースーツみたいな服を着た男の人だっていうのは、体格から想像はつきました。でも、頭がなかったんです、その人。頭のない身体で、あたしの正面に立って、ずーっとこっち向いてたんですよ。それに気づいたらあたし、何も考える余裕がないまま悲鳴上げてしゃがみ込んじゃって。レジにいたバイトの人と事務所で作業をしてた店長が駆けつけてくれたんですけど、事情を説明したら二人ともそれはおかしいって首を傾げたんです。あたしがウォークインに入って悲鳴をあげるまで、お客さんは一人も来店していなかったらしくて。一応防犯カメラもチェックしてもらったんですけど、あたしが首無しの男を見た時間には、飲料コーナーの前はもちろん、店内にも誰の姿も映っていませんでした」
周囲の反応を窺っているのか、一度息を整えたかったのか、金北はそこで数秒言葉を止めた。
「……あたしが見たのは、何だったのか。どうしてあたしの前に現れたのか。その辺の理由は全然わからないままですけど、あれは絶対に見間違いなんかじゃありませんし、本物の幽霊だったとあたしは信じています。…………以上で話は終わりです。ありがとうございました」
背中越しに、金北がお辞儀をするのが気配でわかった。
チラリと振り向けば、ちょうど椅子に座る瞬間を見ることができた。
薄暗くて明確には判断できないが、やはり無表情のままでいるその顔を見て、よくもそんな平然と人まで話ができるものだと改めて感心してしまった。
「はい、金北さんもありがとうございました。コンビニエンスストアと言えば、今の時代最も身近にあるお店と言っても過言ではないと思いますが、そんな場所にでも、怪異は潜み時に襲いかかってくるものなのですね。金北さんが遭遇したモノは果たして何だったのか。過去にそのお店へ来たことのあるお客だった? それとも、どこか近くで事故死をした方が人恋しくなって現れた? 過去に来店されたお客様が、連れてきてしまっていたとも考えることができますね」
感激しましたとでも言うように胸元で両手を合わせ、紅葉は静かに浮かれた声を響かせる。
「さて、お二人から素敵な怪談をお聞かせいただけましたので、ここからはまたわたしがいくつか、面白い怪談を披露いたしましょう。……普段の何気ない日常。その中でふと前触れもなく怪異に遭遇するというのは、よく聞く話ですが。今からお話する四つの怪談も、まさにそんな普段の生活に非日常が紛れ込んできたという、特にそういうイメージの強い、そんなお話です」
そっと胸元に上げていた腕を太腿へ下ろし、紅葉は赤い唇の奥から同じくらい真紅に染まった舌をチロリと出すと、そのまま薄ら笑いを顔に貼り付け、次なる怪異を語りだした。




