出会い
船が揺れるものだということを僕は今日初めて知った。船酔いに気をつけてね、ということをいろんな人から口を酸っぱくして言われていたけれど、そうは言ってもこんなに大きなものがグラグラと絶え間なく揺れ続けるなんてことを想像することができなかったのだ。港の発着場から見上げた時には、自分がいる建物よりも大きく重たい物体が自力で動くと言うことにすら疑いを持ってしまったくらいだったのだから。けれどそれすらも、この星の七割を覆う海に比べたら小さく揺らいでしまう程度のものでしかないということなのだろう。
海の手のひらの上で弄ばれるように左右に動く揺れに加えて、一日中絶え間なく突き上げるような揺れが船のどこにいても感じられていた。特に自分のキャビンに横たわっていると(僕のキャビンは二等洋室だったから与えられているのは二段ベッドの上の段ひとつのみだ)おそらくは下の方から、全身に響き渡っていた。それについて乗組員の方に聞いてみると、彼はこう答えた。「それはフェリーの心臓の音ですよ」僕は驚いた。てっきりフェリーというのはエンジンで動いているものだと思っていたからだ。そう言うと「よくある勘違いなんです」と彼は笑った。
船の中で唯一携帯の電波が届くラウンジに座って、僕はフェリーについて調べた。なんでもフェリーは南極圏に少数生息する生き物で、発見当初乱獲の危機にさらされたため、現在では厳重に保護され、野生の姿は写真を取ることも難しいという。海底から湧出するメタンハイドレートを食べ物とし、身体の大きな生き物の例に漏れず非常に寿命が長いそうだった。
その日の夜、僕はベッドの壁に頭をぶつけることで目を覚ました。乱雑に放り出していたものがバラバラと床を滑って行く。フェリーが揺れているのだ。今までよりもずっと強く。気づけば鼓動も昨日より不規則に早く刻まれていた。
僕は展望デッキに足を運んだ。ようやく空が白みはじめた頃だった。その間も揺れは続いており、手すりに身を預けなければ転んでしまいそうな程だった。実際船内にはひどい揺れに転倒している人も散見されていた。デッキに上ると昨日の乗組員の方がいた。彼は深く頭を下げて謝罪した。「大変申し訳ありません。非常に珍しいことなのですが、野生のフェリーと鉢合わせしてしまったようで、運航が乱れております」しかし反面少し嬉しそうで、僕が昨日話を聞いた客だと言うことに気づくと、嬉しそうに海を指さした。
「りつりんがメスのフェリーを見つけたんです。ちょうど繁殖期でしたから、興奮してしまったようです。こう言ったことはできるだけ防ぐようにしているのですが、野生のフェリーがこんなところにいるのは流石に予想外でした」
指の先にいるのは一隻のフェリーだった。ただ、よく見られる側面の船名は記されていなくて、甲板の上はほとんどなにも設置されていない。この船よりもずいぶん大きいように見えた。どうやら僕の乗っているフェリーはその船を中心にしてぐるぐると回っているようだった。「恋のダンスです。求愛行動ですよ」とやけにフェリーに詳しい彼は興奮気味に言った。
ぐるぐると船は回る。人間たちを乗せながら、それを意にも介さずに恋のダンスを踊る。足元にはどくどくと強い鼓動が伝わっていた。メスのフェリーが止まる。それがOKの合図だったように、僕らを載せたフェリーは一直線に彼女を目指した。乗り込んだ時、あまりに巨大だと思ったその体と比べてさらに巨大な船体が僕らの目の前を通り過ぎていく。すれ違うように逢引きした二人の船体後部がそっとぶつかる。どおんどおんと立っていられないほどの揺れが何度も続く。海面が大きく波立つ。どれだけ続いたのかもわからない時間が過ぎたのち、不意にそれは終わった。まるでなにもなかったかのように、メスのフェリーは元いたところに戻っていく。そして、僕たちの乗る船も予定通りの運航ルートに戻った。船内に降りると、次の港への到着時間がいくらか遅れること、早朝から大きく揺れたことを謝罪し、これが珍しいフェリーの交尾だったことを告げるアナウンスが流れていた。
僕はドクンドクンと規則的な鼓動に揺れるベッドの中で、流氷が浮かぶ中をのんびりと散歩するフェリーの家族の姿を思い描きながら再び眠りについた。