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永遠に終わらないかくれんぼ

 永遠に終わらないかくれんぼの定義


 鬼がいないこと。

 その通りです。素晴らしい回答ですね。はい、次あなた。

 鬼しかいないこと。

 まさしく疑いようのない結論です。鬼しかいなければ誰も捕まりませんもの。ええっと、じゃあそこのあなたはいかがかしら。

 終わるどころかそもそも始まることがないではないか、うん、いい反論です。永遠に終わらないかくれんぼは、決して始まることもないのですから。

 ではこの議論の意味を考えてみましょう。意味なんてない?そんなこと言わないでくださいな。不毛なトートロジー?滔々と述べないでおくれよ。無為な吐露?みなさん揚げ足をとるのがお上手ですね。

 有名な問いに「たまごが先か鶏が先か」が存在することは知っていますね。万が一ご存知でない方に向けて、簡潔に説明致しましょう。

 たまごの中には遺伝子があります。そこから情報に基づいた鶏が形成されます。つまりたまごが先です。なぜ鶏が先ではないのか、それはたまごが先だからです。意味が分かりませんか。では、あなたは親子丼が好きですか。

 好きなあなたはどんぶりに載せられたトロトロに蕩けるたまごと、出汁に照り映えるぷりぷりの鶏肉を箸でよそって口に運ぶときに、どちらが先に発生したのかいちいち意味を求めますか。それと同じです。意味は知らなくても、何となく美味しければ満足できますよね。

 さて、嫌いなあなたは定食屋のメニューを開いて親子丼しかなかった場合にさっさと閉じますよね。それと同じです。わたくしの説明が嫌ならば、この部屋には扉がついているのでそこから出たらいいでしょう。

 まるで遠回りをしたような錯覚に見舞われましたか。実はわたくしも同感です。永遠に終わらないかくれんぼ、それと「たまごが先か鶏が先か」論争には少なからず共通点があることを初めに申し上げていなかった。失念しておりました。

 みなさんのもっとも身近な遊びに代表されるかくれんぼ。こちらは知らない人はいませんね。万が一ご存知でない方に向けて、簡潔に説明致しましょう。

 あくまで一例ですが、基本的にじゃん拳などで一人鬼を決めます。他の人たちは逃げます。火のなか水のなかスカートのなかでもいいでしょう。ある程度時間が経過したら、鬼がもういいかいと訊いてきます。すると隠れたあなた方は、そわそわ嬉々としながらも鬼気迫る状況に身悶えしつつ息を殺すのです。見つかるか、見つからないか。この綱渡りがもたらす刺激は、第三者からすると頭が壊れているのではないかと訝られないはずはありません。だってゴミやホコリだらけの倉庫でじっとしていたり、普段人の寄りつかない茂みに潜ったりするのですから無理もありません。

 そんなことを日常的にするのはもっぱら空き巣みたいな犯罪者なのですから。だけどかくれんぼと分かればあら不思議、誰も咎めません。むしろそれがこどもの健全な遊びであると信じて疑わない大人たちは、微笑ましく、懐かしさすら胸にこみ上げるはずです。

 今更ですが、もういいかい、などと訊いてくる鬼に対して、いいわけなかろう、と宣言したい欲求にかられませんか。鬼とは角や牙をその身に宿した恐るべき権化です。昔話ではとったら食うがモットーの鬼にわざわざ大声で居場所を知らせるわけですから、自信過剰にもほどがあります。立派な韋駄天であっても、鬼に見つけたと指差されればゲームオーバー。

 だからかくれんぼと「たまごが先か鶏が先か」の関係性の説明をしているんですが。えっ、脈絡がないですって。そう思う人は、この部屋には窓があるので、ぜひ開けて地面を覗いてみてください。そのときに絶対後ろを振り返ってはいけませんよ。なぜかって?世の中には知らなくていいことがあります。わたくしの手が近いって?気にすることはありません。

 ここで話題を変えましょう。

 どうやって生まれたかについて考えるのです。あなたにはお父さんとお母さんがいて、二重螺旋に従って作り上げられましたね。最初はミルクを飲んで、数時間おきに起きて泣いて過ごしました。成長とともに、夜泣きは減って、季節ごとの行事、例えば女の子なら雛祭りで人生のページを彩り豊かにしてもらえたはず。もう少し大きくなれば、格式張ったイベントから解放されて、友達と遊ぶのが楽しくなります。それこそかくれんぼなんて最適でしょうか。

 鬼になったことがない、あるいは鬼にしかなったことがないこどもはこの世にどれだけいるのか分かりませんが、もちろんかくれんぼという遊びがない国もあるでしょうし、あくまで名称はシンボルに過ぎないのです。

 まだ十歳にも満たない男の子は、ライフルを持たされて丘の上で腹這いになります。頭と顔はわざと砂だらけにしてしまうと、これがカモフラージュになるのです。ひっそりと息を殺して待つのです。照準に合わせるのは鬼です。鬼はじゃん拳をしていないのに、勝手に決まっていることがあります。あからさまに判断できる、制服を着ているときもあれば、曖昧な格好のものもいます。所詮育ち盛りの男の子には、まだその辺りの分別はつかないのです。つくわけがありません。

 この話に異議があるかたは机の中に手を入れてみてください。何が隠しているか敢えて申し上げませんけれど、今一度冷静になってみることをお薦めします。

 鬼が来ると、ああ男の子の話に戻ります。ついてこれてますか。はい、頑張りましょう。頑張れないなら目を閉じてみましょう。そのまま両手を後頭部に当てて回れ右をして進んでください。

 鬼が来ると、躊躇うことなくライフルの引き金がしぼられます。鼓膜が破けたこどもは星の数ほどいるはずです。そんなに多いかどうかは怪しいですか。でも肉眼で確認できる星なんてたかが知れてますよね。都会だと眩しいから余計に覚束ない。そんなものだと思ってね。

 ゲームのキャラクターよろしくパパパパという銃声のテンポ通りに体が左右に小刻みに震えた鬼はぴくりともしません。ところで狙撃した少年こそが鬼ではないか、などと捉えられなくもないでしょう。ご明察に過ぎませんか。やや、あなたもしや天才では?

 ただの通行人だったと知った少年の心に浮かぶのは、眠い、腹減った、おしっこ、くらいでしょうか。これは流石に嘘かも知れません。ときには聞き流してくれて構いません。はい、どうぞ。仕事や学校がある人はさようなら。暇な人には続きがありますからご安心なさってください。

 通勤、通学の電車に揺られて、気だるさを抱えたまま始まる憂鬱な朝には馴れましたか。クラスメート、もしくは同僚と過ごす時間は意義深いものですか。会社なら、パソコン開いてスケジュール調べて、会議して、資料を整理する毎日に埋没してます?疲れたら休みの日にリフレッシュしますよね。

 気のおけない仲間とショッピングもいいでしょう。仕事終わりに一杯付き合うのも悪くありません。

 ここで親子丼がでてきます。

 買ったり、買わなかったり。飲んだり、飲まされたり。感情としては楽しいとか、腹が立つとか、家に帰ったら寂しいとか、色々あると思います。自分が鬼か、そうでないかを考えている人はいないのでは?

 地球の裏側で、砂漠に紛れて黒光りする銃口を向けられる誰かがいる一方で、ガスで沸かした熱いお湯に漬かってため息を漏らすあなたとわたくしがいる。

 かくれんぼで、隠れるのがとっても上手だと、鬼は諦めてしまうのです。鬼は鬼であることを放棄して、忘れて、まだかくれんぼが続いているのにも関わらず、戦場から離脱するのです。残された人はそれを知らずにずっと息を殺しています。通りすがりのあなたは、鬼同士でへらへらしていることに懐疑的ではないし、うつ伏せの少年が微動だにせずライフルを握っているのが滑稽で堪らない。どっちを選ぶか、答えは明白ですよね。

 鬼になりたいよね。

 はあ、鬼とか悪さしかしないでしょ。邪悪の塊じゃない。非道の象徴ですから、忌み嫌われる。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない。

 鬼が身の回りにたくさんいたら、別にどうでもよくなる。冷酷な血液が巡っていても、色が同じなら安心するわ。どす黒い血液が脈動するのが当たり前なら、何も怖くなくなる。

 でもそれって、あくまで怖くないだけであって、実際の赤信号では車の往来は激しく止まらない。

 いつか必ず轢かれるんだけど、たまたますり抜けているだけの現状に満足する。見つかるか、見つからないかのスリルが醍醐味のかくれんぼに似ている。轢かれるか、否かの緊張感って最高。よだれがでちゃう。

 鬼、まじ、サイコー。

 隠れる側と代われって無理でしょ。そもそもどこで何やってんの。ここから見えないのはいないのと同じじゃないか。

 あなたのお父さんのお父さんも、お母さんのお父さんも、そのまたお父さん、お母さんたちも鬼を続けてきたならば、鬼を止める術を考えない。鬼の自覚はないし、認めたくない。

 もしも鬼なのに、じっと動かない隠れている人を可哀想に思うなら「お前が代われよ」と言われかねない。そんなこと打診されたくないから、鬼は鬼でいるのだ。ほとんど永久に鬼は鬼であり続けたい。

 でもそんなこと可能なのかな?

 テレビやインターネットが発達した時代はどんどん加速していて、今やリアルタイムに地球のそこここに目を通すことができる。隠れても隠れきれないなら、かくれんぼの崩壊の足音がほら、聴こえてこないかい。

 鬼が蔓延る世界は偏って膨らんで、そうでなくても弾けそうなのに、折角隠れている体の人々を漏れなく発見したら大爆発は免れない。

 これまで目を逸らしてこれた鬼たちは、眼前に突きつけられた現実に向かい合うときがくる。

 嫌でも自分の鬼性が顕在化するようになれば、あまりに増えすぎた鬼の調整の火蓋が切手切って落とされる。鬼は一人で十分なのだ。だから減らすことになる。弱い鬼は強い鬼に食われる。かくれんぼで隠れていた人に対して帳尻を合わせるかのように、生き残るべき鬼の選別が殊更に苛烈を極める。

 一億人の鬼が共食いに興じる姿を想像してご覧なさい。

 怯えた目をして、背中を丸めて薄暗い路地を歩く。その顔は年老いた女のようにも、またうら若き青年のようにも見える。こどもたちがいない公園には木枯らしが吹いていて、時計には雪が降り積もっている。かつてかくれんぼをしていた空き地はがらんどうで、砂場に埋もれたスコップの柄は折れている。

 空っぽのベンチを掃除しているのはお年寄りたちだ。左から青、黄色、赤のベンチが並んでいて、まだ髪の黒い男はヤニで煤けた歯を覗かせながら雑巾を絞る。青いベンチが綺麗に磨かれても、誰も座ることがない。それではもったいないからと、背中を丸めた不詳の流浪人は腰をおろす。隣では白髪で染まった頭をカクカクと揺らす女が呆けた表情でベンチに溜まった埃を箒ではいていた。しかし白髪の女は誤って自らの手足をはたいている。しきりに「お前か、お前もか」となじる素振りをするので、流浪人はいたたまれずに立ち上がる。

 叫び声がして、公園の入り口に視線を移すと鬼が立っていた。一人、また一人と増えていき、門扉はぎゅうぎゅうにはち切れそうだ。舌をだらりと垂らす鬼の腕は脈打っていて、公園を清掃するどの人間よりも若々しくみなぎっている。そんな鬼から逃げられるわけはなく、かくれんぼで見つかったら負けなのは、目に入るイコール死そのものだからだ。

 掃除用具を手にしたまま、背を向ける仕種も諦念によってかきけされた人々は無惨にもベンチのそばで切り刻まれていく。ギラギラの瞳孔を開いて鬼たちは老人たちを引き裂いていくのだ。ズタズタにされた肉片は赤いベンチに積載されて異臭を放つ。せめてどこかに隠しておけばいいものを、きっとどこもかしこも飽和しているから、鬼たちは肉片を集めるだけで焼いてしまうことはない。

 あまりにも肉が多すぎる。よくよく目を凝らせば町中の至るところに肉の山が築かれている。鬼が処置できる範囲をとうに越えているのだった。恒星のような青い鬼は昔は多かったのだけれど、最近では黄色や赤が増えてきた。赤くなった鬼は比べると足が遅いし、元気もない。だんだん力がなくなって、青いベンチの前に引き寄せられていく始末。公園や街が美しくなっていくのはいいことだ。いつの間にか赤さの抜けた鬼だったものは、肉塊のそばに落っこちたモップを手にする。誰に命じられるともなく掃除をする。景観が緑豊かなものになっていき、肉片の赤とコントラストを呈するのがいい。

 鬼は最初からこうなることを分かっていたのかも知れない。無情な鬼にも優しさがあったなら、鬼が生まれる理由になるのだ。その理由というのも酷いものである。愛だとか何だとか宣って、身勝手に鬼を量産していく。さも当然のことであるように、鬼同士が信じて疑わない。

 馬鹿ですか?あなた方は阿呆でしょうか。

 ああ、だからこれはかくれんぼと「たまごが先か鶏が先か」の話ですよ。忘れてましたか。ハハッ。

 鬼に愛なんてないんですよ。

 嘘なんですよ。偽りですよ。

 所詮はいずれ肉塊になる運命なのに、ベンチの上でふんぞり返る時間を確保するために躍起になって、どこが愛だと思いますか。好きとか簡単に言いますけどねえ、鬼をバトンタッチしたいだけのエゴイストですからねえ。どんなに綺麗事捲し立ててもねえ、そんなの本心隠してるだけでしょう。

 ビルの中でエアコン浴びて暮らす社会にはルールがあって、仕事しなきゃ生きてけないんですよ。かくれんぼも同じですよ。ルールに従わないと、遊びなんてつまらないじゃありませんか。鬼が逃げたり、隠れずに鼻をほじって突っ立ってられたら辟易するでしょうそうでしょうねえ。

 でもルールの着想ってどこから持ち出されてるんです?

 ネイチャースピリッツですよ。

 森の熊さんに食べられないように猿は木に登るよね。熊さんも登れるんだけど、重要なのはそこじゃない。他にも樹上で生活する動物は、地上が危険だから、或いはリスクがぐーんと削減できる希望的観測のもとに進化したわけでしょう。

 水に身を隠すものや、空を飛び回ることが擬似的な陰遁になり得る場合がある。

 地球に生命が発生したときから、容赦ないかくれんぼなんて繰り広げられているわけですから、じゃあ遊びのかくれんぼって何なの。模倣にすぎないの?となるわけよね。

 例えばあなたがボクシングにスマホを介して観入るなら、それはもうまさしく百パーセントかくれんぼですよ。リスクのないところから傍観するあなたは鬼ですよ。

 かくれんぼという戯れは、そんなリスクを揶揄するかのような振る舞いではありませんか。無意味なエアポケットにすっぽりと収納されたかくれんぼに終わりも糞もありません。

 遊びじゃない。かくれんぼは遊びなんかじゃない。

 見て見ぬふりをし続けて、本当に何も見えなくなった者の幻想こそがかくれんぼ。自分がどこにいるのか分からないし、誰が探しているのか忘れた。そうしていつまでも曖昧なままで、気づいたら体が軽くなっていて、長い月日をかけて、また生まれて、消えていく。

 だからね、これはかくれんぼの話ですよ。

 何度も言わせないでよ。

 何度も言うなよ?うるせえよ。

 しかも「たまごが先か鶏が先か」なんてどうでもいいよね。どうでもいいんですよ。

 だってかくれんぼはいずれにせよ永遠に終わらないんだ。








(了)

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