思いたったら、まっしぐらな私は、今日も生かされている!後悔するなら、やらずより、やって後悔しよう!人生楽しみます!めぐ時々息子。
私、めぐの波瀾万丈な人生を、振り返ってみました。
めぐ時々息子のお話し。
人生に、疲れた時に、こんな私の話しで、ちょっと笑って、少しでも、人生を楽しもうと思っていただけたら、嬉しいです。
私、めぐ。現在43歳。職業=学生。
どうせ、後悔するなら、やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい!と思っている。
好奇心の芽は、数知れず、次々と芽を出している。
色んな事に、年齢制限があっても、夢に年齢制限はない!
夢は、叶えるためのもの!
夢の実現のためなら、努力は惜しまない!
希望を持って、生きていきたい。
普通に見えて、身体は、ボロボロ。そして、精神障がい者。
おばちゃんの自覚、全くなし。永遠の28歳!と思い込んでるちょっと、(かなり?)変わった奴の波瀾万丈な人生のお話し。
1977年12月8日、父 末次 と 母 洋子 の長女として、この世に生を受けました。
(2歳下に、妹がいます。)
名前は、『めぐみ』
由来は、初めての子どもに恵まれた!
漢字より、ひらがなの方が可愛いらしい!だそうな。
少なくとも、妹が産まれるまでは、両親の愛を一身に受けていたはず。
洋裁上手な母が、よく服を作ってくれたのを、着るのが、大好きだった。
要領が悪くて、手のかかる子だったらしい。
保育所の発表会、リボン体操をした。
幼稚園の発表会、おたふく風邪になって、出れなかった。
その当時は、あまり言われてなかったが、私は、両親から虐待を受けていた。
よく、父に手を挙げられていた。
原因は忘れたが、今でも鮮明に覚えているのは、母に、片方の足首を持って、2階の窓から、ぶら下げられたこと。
今では、考えられない事だけど…。
母から、「あんたは、生まれる前から親不孝者やった」と、よく言われた。
私が逆子で、帝王切開での、出産。その為、妹も、帝王切開になったから。
でも、よくよく、聞いてみると、最初から私が逆子だった訳ではなく、母が妊娠中、立ちあがろうとした時に、逆子になったらしい。
それって、私のせいなの?
「逆子って言われて、ショックやった。どうやって、家に帰って来たかも、わかれへんかった。」とも、よく言われた。
逆子の何がいけないの?
帝王切開の何がいけないの?
何も恥じる事じゃないのに。
私にとって、父は、たまに優しい時もあるけど、ほとんどが恐怖でしかなかった。
いつも、父の顔色をうかがっている、毎日だった。
機嫌が悪いと、義務教育でも、「学校にも行くな!」とよく言われた。
いつも、いつも、従姉妹や妹と比べられる人生。
頑張っても、認めてもらえない人生。
勉強は、そこそこできたけど、体育は、まるでダメ。
85点でも、95点でも、誉めてもらえない。
初めて取った60点のテスト、両親に失望されるのが怖くて、見せることができなかった。
常に、100点じゃないとダメだった。
小学校の頃は、そろばんや、習字を習っていた。
妹は、要領がよく、勉強も、体育もできる子だった。
父に手を挙げられる事は全くなかった。
母も、妹をひいきにしていた。
いつも、「お姉ちゃんだから、我慢しなさい!」と言われていたのを覚えている。
いつしか、「私は、欠陥品。妹の為のお試し人形」と思う様になる。
自転車になかなか、乗れなかった。
乗れる様になってからは、よく、母方の祖父母宅に行っていた。
祖父母には、すごく、可愛いがられた。
そして、唯一、私を認めてくれる人達だった。
父方の祖母は、あまり、可愛がってくれなかった。
従姉妹をすごく、ひいきにしていた。
私は、長男の子どもで、内孫なのに…。
私は寝付きが悪く、寝返りを何度もうっていた。
そして、朝の4時頃に目が覚めて、その後、なかなか、眠れない。朝、起きる時間になって、ようやく、眠くなる。寝た気のしない毎日だった。
妹は、夏休み産まれで、よく、従兄弟たちが泊まりにきて、誕生日会をしていた。
妹が、凄く、うらやましかった。
私の誕生日は、12月8日。そして、父の誕生日は、1日違いの7日。
誕生日ケーキのろうそくの火を消すのは、いつも父と一緒だった。
大人と子ども。肺活量の違いはもちろんある。
ろうそくの火を消すのは、ほとんどが父。
バースデープレートの名前は、めぐみなのに…。
納得いかない。不満。ある年、不満爆発。再度、ろうそくに、火をつけてもらった。
もちろん、従兄弟たちは、来ない。
いつ頃からか、くまのキャラクターが大好きになった。
そして、いつしか、桜のキャラクターも好きになった。
小学校、積極的な性格だった。
5,6年の担任が同じ先生で、日記の宿題が定番だった。
文章を書くことが好きな私には、大好きな宿題だった。
担任からの、評価がいいと、クラスの文集に取り上げられた。
取り上げられる度に、すごく、嬉しかった。
小5の3月、祖父から、祖母が倒れた。と連絡があった。
「私も行く!」と言ったけど、母から、留守番するように言われた。
お見舞いに行きたかった。でも、容態が落ち着くまではダメと言われていた。
5日のお昼。叔母から、電話があった。
大好きだった祖母が息を引き取った。
脳卒中だった。
すごく大泣きしたのを覚えている。
少しでも、祖母の近く居たくて、なかなか、棺桶から、離れられなかった。
最期のお別れの時、「おばあちゃんの分も、めぐが生きるからね。」と約束した。
その約束のおかげで、私は、死にたくても、なかなか、死ねない。
祖母は、毎年、運動会を見に来てくれていた。
栗を茹でたのを、持ってきてくれていた。
祖母といろんな所へ、歩いて出かけた。
遠い所もあったけど、祖母と一緒なら、苦にならず、楽しかった。
祖母が亡くなってからは、よく天国の祖母に、話しかけていた。最近じゃなかなか、出来てないけど…。
おばあちゃんっ子だった私。祖母が亡くなってから、私の生活は一変してしまった気がする。
祖母が心の支えだった。
小学校の頃、婦人警官になるのが、夢だった。
でも、母から、いろいろいわれ、夢を奪われた。
中学、高校といじめられたこともあった。
でも、吹奏楽部に入って、頑張っていた。
中学の時は、ホルン、高校では、Saxを吹いていた。
中学の時の顧問は、すごく情熱的で、学校行事だけで無く、消防署の出初め式や、市主催の行事など、いろんな所で、演奏した。定期演奏会や、花博、コンクールにも行った。
高校の時の顧問は、ほぼやる気無しだった。
先輩からの依頼で、吹奏楽団の応援演奏に参加させてもらった。
中学の頃から、少しずつ、消極的になった。
なるべく、目立たない様にしていた。
でも、やる時は、やる!で、委員会の委員長をした事もある。
中学1年。春だったか、秋だったか、覚えてないけど、着ていた服は、はっきり、覚えている。
上が、ピンク地で、赤や黄色のリボン柄のトレーナー。下が、膝丈くらいのジースカ。
母と、買い物に行く途中、交通事故にあった。
大した事故ではなかったが、太ももが、めっちゃジンジンする感じがして、誰も見ていないのを確認してから、スカートをめくって、太ももを見ると、ズルムケになっていた。
病院から帰って来て、ちょっと、落ち着いた頃、警察官が事情聴取に家に来た。
「小学何年生?」と聞かれた。
『中1なんだけど…。ここは、小学7年生と答えるべき?でも、頭の打ち所、悪かったと思われても困るしな…。』と悩んだのを覚えている。
事故した相手は、会社の車を運転中だったらしい。
事故した車を、会社の奥の駐車場に止めていた。
でも、そこは、私の家の真裏だった。
中学2年。いじめられていた。
学校に行くのが嫌だった。
でも、親に変な心配をかけたくなくて、休まず登校し、授業もちゃんと受けた。
でも、ある日、限界がきた。
ちょうど、その日は、音楽室の掃除当番だった。
「教室に戻るのが嫌だ。怖い…。」と泣き崩れてしまった。
その日の夜、担任が家に来た。
いろいろ、話しをしたけど、結局、何も変わらなかった。
中学3年は、いじめられる事もなく、なんとか、平穏無事に過ぎた。
高校受験。みんなは、私立を受けるのに、何処がいいかの判定を受けていた。
でも、うちの両親は、「私立には、行かせる気ない!」と、判定相談さえ、させてもらえなかった。
近所の人の話しなどを聞いて、ようやく、両親の考えが変わった頃には、すでに、判定は、終わっていた。
仕方なく、仲の良かった友達と同じ所にした。
公立しか、行かせてもらえない私は、志望校をかなり下げて受験した。
ホントは、吹奏楽部が活発な学校を受験したかった。
合格発表まで、毎日の様に、うなされていた。
同じ高校を受験した友達と、「親に頼み込んで、もっといい私立を受験させてもらうべきだったね。」と話したのを覚えている。
妹は、私の経験から、私立の判定相談を受けて、それなりの私立を受験し、公立も、それなりの所を受験していた。
妹がうらやましくて、しょうがなかった。
両親への、恨みもどんどん、増して行く。
高校では、漢字検定の級を幾つか受けた。
確か準二級が出来る前に二級を取得した気がする。
高校は、比較的、新しい学校だった。
だけど、阪神大震災の翌日、学校に行ったら、校舎に、大きなヒビが入っていた。
普段から、あまり片付けが得意でない私は、机の上に物を重ねて置いていた。
阪神大震災の揺れは、今でも、はっきり、覚えている。
揺れた時、机の上の物が、いっぱい、落ちてきた。
小学校の時に、図工で作った時計が、頭を直撃した。
『死んだ!』と思った。
『普段から、机の上を片付けておけばよかった…。』と後悔した。
高校、入学の頃には、保育士になりたい!と思っていた。
また、母に、夢の邪魔をされるのが、嫌で、1人で進路を決めた。
進路相談の懇談の時に、初めて「保育士になりたい!」と告白した。
母は、びっくりしていた。
短大は、ダメだったけど、専門学校の方は、合格できた。
高校の時は、主にケーキ屋さんで、バイトした。
初めのケーキ屋さんは、何の前ぶれもなく、いきなり閉店した。
その次に、行った所は、ケーキだけでなく、パンも売っていた。喫茶店も並列していた。
ある日の閉店間際、食パンを切る機械で、右手の人差し指を負傷した。
すぐ近くの病院では、診てもらえず、大きな病院で診てもらった。
腱まで切れていた。
縫ってる時、自分の手じゃない感じだった。
左手での、生活の始まり。
大変だった。左手で書いた文字は、くちゃくちゃで、気分が悪くなった。
1番大変だったのは、テスト。
答案用紙に文字を書くのは、時間がかかるし、小さく書けない。
物理のテストだけ、みんなの倍サイズの答案用紙が特別に用意されていた。
いつものようには、いかなかったけど、そこそこの点は取れた。
元々、早く家から出たいと思っていた。
小さい頃、枕元にチョコ菓子を隠して置き、毎晩、そのチョコ菓子を見ては、『これを持って、早く家を出るぞ!』と思っていた。
チョコ菓子さえあれば、生きていけると思ってた。
数年経って、家での、私の居場所がない。というか、家に居るのが嫌で、ほぼ毎日、その当時の彼氏の家に行っていた。
朝帰りがほとんどだった。
専門学校での2年間は、あっという間だった。
地元のケーキ屋さんでバイトしつつ、将来の勤務先の為にと保育園でも、バイトした。
箸にも棒にも引っ掛からなかったけど。
2年間、みっちり勉強して、卒業と同時に保育士免許と、幼稚園教諭二種の資格を取得した。
授業は、楽しかったけど、実習が大変だった。
普通車(MT)の免許は、卒業までには、間に合わなかった。
そういえば、仏教学の先生が、「人は生きているのではなく、生かさせているのだ。」と言っていた。
その時は、その意味が、あまり、理解出来なかった。
私立の保育園への、就職が決まった。
新米保育士として、毎日頑張っていた。
平成10年5月11日。
勤務時間をずっと勘違いしていて、超早出勤だった事に気付き、慌てて家を出た。
気がついたら、どっかの病院のベッドの上。
私は、身動きが取れない状態。
見舞いに来た両親は、頭に帽子。そして、服の上から割烹着の様なエプロンを着ていた。
『変な格好。いつもの、通い慣れた病院では、無さそう。一体、ここは、どこ?』
状況の掴めない私は、混乱していた。
後で、そこが救命救急センターのICUだと、わかった。
私は、どうやら、事故ったらしい。
何にも覚えていない。
聞いた話しによれば、道幅の狭い道で、本来なら左側に止まってないといけない車が右側に止まっていた。
そして、相手の中型か大型バイクを行かしたところ、その車のちょうど斜め後ろで、私(原付)と相手のバイクが正面衝突して、私は、2,3m吹っ飛んだらしい。
そして、近所の方の通報で、救命救急センターに運ばれたらしい。
たまたま、遅刻していた妹が電話を取ってくれ、母の職場に、電話してくれた。
そして、たまたま、電話の前を通りかかった人が、母に電話を繋いでくれた。
そして、父の職場に連絡。
連絡を受けた父は、救命救急と聞いて、『娘1人、失ったな…。』と覚悟を決めたらしい。
母はと言うと、たまたま、市民病院の隣り。と、その時は、軽く考えていたらしい。
救命救急センターの玄関を出て、前に立っている看板の、『ここは、命に関わる重症な方の為の病院です』と言う言葉を見て、事の重大さを実感したらしい。
私の症状はというと、はっきりは、覚えてないけど、左上腕骨骨折。内臓破裂。左腎臓頸部損傷。
頭はちゃんとした、ヘルメットを被っていたので、大きな損傷はなし。
内臓は、確か、脾臓全摘出。肝臓一部摘出。左肺に、骨ささってた。あまりのひどさに、左腎臓全摘出断念。右の太もも付け根に人工チューブ挿入。
左上腕骨は、4,5日放置されていた。内臓の手術が落ち着いてから、プレートと、ボルト6本で、骨折した骨を固定。
身体中、縫い痕だらけ。
チューブも、最大、7,8本繋がっていたらしい。
妹から、「パンダのねいぐるみ、みたい」と言われた。『パンダじゃなくて、せめて、くまにしてよね?』と思った。
当時、両親が、医者から言われたのは、「よくて意識有りの寝たきり。でも、最悪、植物人間、覚悟してください」だったそうな。
後から、妹から聞いた話しよれば、母は、『私のお葬式の写真どうしよう?』と悩んでいたらしい。
そして、父は、相手が保険に入っているか不明で、一家心中を考えていたらしい。
『すいません。まだ、私、生きてますよ〜』と思った。
事故した日の夜、実は友達と会う約束をしていた。
何日も連絡が取れず、心配した友達は、『もしかして…。』と、友達数名で、いろんな病院を駆け回ってくれていたらしい。
まさか、私のいる場所が、救命救急だとは、思わなかったみたいだけど。
数日経って、容体もだいぶ落ち着いてきたので、ICUから、普通部屋に移動した。
ずっと、点滴生活で、やっと、おもゆとかが、食べられるようになった。
突然の嘔吐。
しかも、緑色。
私も母も、『えっ!私って、人間じゃなかったの?!』思った。
看護師さんに聞いたら、ずっと、横になっていて、胆汁が溜まっていたらしい。
まだ寝たきりで、母が見舞いに来て、食事介助してくれた時、ストローでお味噌汁を飲んでいたのを覚えている。
だいぶ、普通食が食べられるようになり、お粥にも飽きていた頃。
毎朝、パンの焼ける匂いで目が覚めていた。
「私も朝、パンが食べたい!」と先生にお願いした。
了承してもらえた。
翌朝、『私も今日から、パンが食べられる様になる!』とウキウキ気分で目を覚ましたら、テーブルの上にあったのは、見覚えのある器。
『もしや…。』と思ったら、やっぱり、お粥…。
テンション、だだ下がり。
回診の時、先生も、「パン、美味しかった〜?」と入って来た。
事情を説明したら、先生もびっくりしていた。
何かの手違いだったらしい。
その翌日からは、ちゃんとパンの食事だった。
パンが焼けるのが、こんなに待ち遠しいのは、初めてだった。
普通部屋での、生活も少しずつ落ち着いてきた頃、職場の保育園の園長と、主任、同じクラスの担任がお見舞いに来てくれた。
お見舞いの挨拶は、手短に済んだ。
そして、園長は、冷静に
「3ヶ月間は、休職扱いに出来るけど、それ以降は、退職扱いになる。」
と告げて、帰って行った。
思った以上に、回復は早く、当初言われていた、植物人間、意識有りの寝たきりでは、なくなったけど、まだ、退院の目処も全くたっていない。
そんな私に、『3ヶ月の休職で!』と言える訳も無く、後日、泣く泣く、退職願いを書いた。
私の身体に取り付けられていた、チューブも日を重ねる毎に、減ってきた。
病院なので、仕方ないことだが、よく、救急車の音が聞こえて来た。
その度に、『ここ(救命救急)じゃありません様に!』と祈っていた。
その頃、ようやく、仏教学の先生が言っていた、『人は生かされている』の意味がなんとなく分かる様になってきた。
事故した日、もし、妹が遅刻せず、予定通り家を出ていたら、誰が、母に知らせてくれたのだろう。
もし、偶然、電話の前を人が通らなかったら、誰が父に知らせてくれたのだろう。
そう考えると、私は、偶然が重なり、生かされていることになる。
『せっかく、助かった命、大事にしないと。』
ベッドから、車イスに移れる様にもなってきた頃、よく、先生が時間のある時に、気分転換を兼ねて、隣の市民病院の中庭に散歩に連れて行ってくれた。
車イスも自分で、大体、操作出来るようになってきた。
日を追う毎に、少しずつ、歩けるようにもなってきた。
私の部屋は、1番奥。そして、トイレは、かなり遠い。
ある日、1人でトイレに行ってみた。
何とか、行きは行けた!が、帰り、力尽きてしまった。
部屋に戻れない…。
仕方ないので、トイレの前の廊下で休憩することにした。
座り込んでいる、私を発見した看護師さん、私が倒れていると、大慌てしてた。
何度も、「車イス、持ってきます!」と言われたが、「大丈夫です。何とか、帰ります。」と答えた。
看護師さんも、そのまま、私を放置する事も出来ず、
結局、車イスではなく、イスを持って来てくれた。
その後、しばらく、イスに座って休憩してた私を、いろんな人が、心配して、声をかけてくれた。
トイレへの往復も、問題無く行ける様になったある日。
見知らぬ男女2人が、私の後を着いてくる。
『えっ!この先は、私の部屋だけ…。』
見知らぬ男女2人は、その後も、私の後を着いてきて、私だけの部屋に入ってきた!
『誰?誰なの?』
恐る恐る、「この部屋、私だけですが…?」と言ってみたら、なんと、事故の相手と、その方の奥さんだった!
「すいません。何も覚えて無くて…。」と謝り、いろいろと、話しを伺った。
事故の当本人だけど、話しを聞いて、自分に起こった事とは、思えず、改めて、事故の酷さを知った。
『よく生きてたもんだな〜』と痛感した。
生きてる事に感謝!
容態もだいぶ落ち着いてきて、ようやく、お隣りの市民病院に転院することになった。
歩いて転院。途中、慰安室の前を通った。
何故か、凄い、寒気がした。
『私も、こういう所に、入ってたかも…。』と思うと、ゾッとした。
元々、童顔なのもあるが、くま柄のパジャマを着ていたせいか、危うく、小児科病棟に入れられそうになった。
小児科病棟の方が楽しそうだったけど…。
市民病院に、転院してから、担当医と、2,3回しか顔を合わせてない。
1ヶ月程で、何とか、退院できた。
その後、通院しながらの経過観察になった。
内臓関係は、引き続き市民病院で診てもらい、骨折のは、かかりつけの整形外科で診てもらう事にした。
退院後、高熱を出したことがあった。
担当医、不在で、違う先生に診てもらった時、今まで、聞いてない、説明をいろいろされた事を覚えている。
事故の相手はちゃんと保険に入ってくれていた。
高額の保険金が入ってきた。
ずっと、家で大人しくしているのも、退屈なので、親に相談して、人生初のテレビゲームを手に入れた!
ゲームの内容は、ほとんど、パズルゲームだった。
小学校の頃、テレビゲームを親に許してもらえず、クラスで持ってない子、1人か2人の1人だった。
平成10年7月7日。ようやく、普通免許取得。
ちょうど、七夕の短冊飾りをやっていたので、『交通安全』と、『無事故無違反』のお願いをした。
2週間に一度、テディベア講座にも、通った。
いろんなくまちゃんを作った。
手話講座にも、通った。
ある程度、勉強したけど、普段使ってないと、忘れてしまう。
今では、自己紹介と簡単な手話ぐらいだけど…。
平成10年7月21日の夜。
従兄弟から、「祖父の様子がおかしい」と、連絡があった。
私は、「おばあちゃんの時みたいな思いはしたくない!」と無理矢理、父親の運転する車の後部座席に飛び乗った。
そして、慌てて、両親と一緒に、祖父の元へ行った。
呼吸は、しているが、意識がない。
父も母も、動揺していた。
私は、落ち着いて救急車を呼んだ。
大正5年生の祖父を受け入れてくれる病院がなかなか、見つからない。
移動しながら、受け入れ先を探す事になった。
ようやく、みつかった受け入れ先は、私が以前運ばれた救命救急だった。
医者は、始め、『老衰だろう』程度に言っていた。
待合室での時間は、長かった。
祈る気持ちでいっぱいだった。
両親や、従兄弟は、私の時も、同じ思いをしていたのかと思うと、辛かった。
日付が変わって、22日なって、少し経った頃、祖父は、息を引き取った。
肺炎だったらしい。
大好きだった祖父も、居なくなってしまった。
その頃、みんなに言われた。
『祖父は、私の身代わりに亡くなった』と。
「天国の祖母が、『めぐには、まだやる事がある。じいちゃんは、長生きした。代わりにじいちゃんが、こっちに来い』って、言ってたんや。」とも。
言われる度、辛かった。
祖父には、まだまだ、生きていて欲しかった。
リハビリがてら、祖父のお線香番に、よく従兄弟の家に自転車で行った。
通院は、まだ続いていたけど、だいぶ動けるようになったので、公立の保育士の試験を受けた。
第一次の筆記試験は、見事合格!
ところが、第二次の面接に、市民病院での健康診断があった。
身体中の傷痕を診て、いろいろ聞かれる。
事故から、まだ、一年も経っていないことや、通院中であることから、面接の時点で、不合格が決定した。
そんな訳で、後の人は、無事合格となり、次年度の4月から、公務員として、働けるのだ。
でも、私は、そう簡単に、諦めない。
市が、委託保育士を募集していた。
ダメ元で、応募したら、採用され、その年の10月から、再び、保育士になった!
『市の正規職員は、ダメなのに、パートならいろいろ関係ないだ。』と矛盾を感じつつも、保育士の職務を頑張っていた。
委託保育士は、最短2週間、最長1年。
1年の時は、健康保険や、雇用保険にも入れた。
2週間だと、保険には、入れない。
たまに、2週間が、休んでる先生の都合で延長される事があった。
約半年契約の保育士業務があった。
「左腕に入れている、ボルト2本が、骨がくっつく邪魔をしている」と整形外科の先生に言われ、当初の予定では、2週間の入院加療が必要との事だった。
保育所の所長と相談し、「年末年始の休暇と1週間の休暇なら」と、okをもらったが、入院前に出された診断書では、2週間ではなく、3週間となっていた。
「1週間でも、大変やのに、プラスもう1週間は、無理!退職して下さい!」と所長に言われ、泣く泣く、退職。
クリスマス周辺で入院、手術。
大晦日と、正月3ヶ日は、自宅で過ごした。
2週間で退院できた。
「記念に!」と摘出したボルト2本をくれた。
2,3cm程のかわいいものかと思いきや、それなりにごっつい、ボルトだった。
その後、半年後に再入院して、残りのボルト4本とプレートも摘出した。
前回同様、摘出したボルトとプレートをくれた。
ボルトも凄かったけど、プレートも、かなりのものだった。
保育士の仕事にも、すぐに復帰した。
事故から、2年くらいして、強引に1人暮らしを始めた。
そんな、私に、お裾分けを持って来てくれたり、いろいろ親切してくれる人がいた。
私は、その人のことを、簡単に信用してしまっていた。
最初は、少額の借金の申し入れだった。
「必ず返すから。」と、私は、その言葉を信じて、言われるがまま、お金を貸した。
気がつけば、かなりの額になっていた。
知り合いに相談し、話し合いもしたが、結局、返してもらえずだった。
10年程、市内の保育所で、頑張っていた。
他府県で、保育士をする事もあった。
その時付き合って彼氏が、よく、仕事の都合で、寮の食事に間に合わない事があり、『私が、側に居れば、ご飯を作ってあげられる!』と思って、寮の近くに、引っ越した。
でも、うまくいかず、結局、別れちゃって、地元に戻ったけど。
しばらくして、結婚した。
バラ色の生活の始まりだと思っていた。
でも、旦那の訳のわからない借金で、直ぐに離婚。
その後、生活の為、私立の保育園でも、保育士をした。
一度、お金関係で痛い目に遭ったにも、関わらず、その当時付き合っていた彼氏に、言われるがまま、お金を渡していた。
お金は、返されることなく、借金する羽目にもなった。
借金、返済の為に、昼間は、保育士。夜は、水商売の仕事もした。
お客さんと恋仲になってしまった。
体調を崩して、夜の仕事は、辞めた。
しばらくして、妊娠。
年度末で保育士の仕事を辞めた。
出来ちゃった結婚。2度目の結婚。
借金返済出来ず、破産宣告した。
その時の旦那は、お酒を飲むと人が変わる人だった。
DVもしょっちゅだった。
また、パチンコ依存症だった。
仕事も、よく休む癖があった。
ある日、お腹を蹴られ、翌日、旦那が寝ている隙に実家に逃げ帰った。
ちょうど、父の日だった。
母親から、父の日のプレゼントのお礼の電話があった。
電車の中で大泣きしながら、もうすぐ、(実家の)最寄り駅に着く事を告げた。
元々、里帰り出産で、7月には、実家に帰る予定だった。
でも、旦那からは、「お前の帰って来る家は無いと思え!」と暴言を吐かれた。
その後、旦那は、携帯代を滞納していたらしく、音信不通になった。
出産間際も、連絡取れず。
陣痛は来るものの、子宮口がなかなか、開かず。
急に、赤ちゃんの心拍が下がり、緊急帝王切開することになった。
旦那に、連絡がつかず、仕方なく、母親が手術の同意書にサインしてくれ、無事、出産。
帝王切開の手術は、40分くらいかかると聞いていたので、『40分後に、赤ちゃんに会える!』と思っていたら、手術開始から、5分もしない間に、赤ちゃんは出された。
平成17年10月、無事、息子が産まれた。
お腹を縫っている間、ふと手術室の外を見ると、母親が息子を抱いていた。
「私も、赤ちゃん抱きたい!」とお願いしたが、助産師さんに断られた。
その後、私は一人、ベットの上で、何時間も、足裏を刺激されていた。
『私も、早く、赤ちゃん、抱っこしたい!まだ?』とイラつきながら、時間が過ぎるのを、耐えていた。
お昼前、ようやく、赤ちゃんが、部屋にやって来た!
やっと、赤ちゃんを抱っこできると思ったら、そのすぐ後に、両親がお見舞いに来た。
母親が抱っこし、父親が抱っこし。
「私、まだ、赤ちゃん抱っこしてないんやけど!」と言ったら、母親から、「あんた、まだ、抱っこしてないの⁈」と言われた。
母への恨みは募るばかり。
産まれから、5時間後に、ようやく、息子を抱っこできた。
1ヶ月くらいして、「もう産まれたかと思って」といきなり、旦那が、実家に現れた。
その後も旦那とは、連絡取れず。家賃も滞納されていた。
私の父が、連帯保証人になっていたので、連帯保証人からの、強制解約の手続きを取って、自分の荷物を引き取りに行った時に、念のため、離婚届も書いてもらった。
息子は、父の顔を知らない。
子どもは、日々、成長していく。
養育費は、一円ももらえずだった。
しばらく、離婚届は、提出せず、持ったままだった。
年末に、「離婚届、出そうと思っている」と親に相談した。その時の状況は、鮮明に覚えている。
親も納得してくれた。
離婚届を提出するだけでは、親権は、父親にあるらしい。
年明けに、家庭裁判所に行き、親権を私の物にした。
母子家庭枠で、府営に申し込んだら、一発で、当たった。
実家での肩身の狭い思いから、やっと解放された。
人間関係や、棟の定期清掃などがすごく煩わしかった。
棟長になった時は、必死で頑張った。
前の棟長だか、副棟長だかが、棟費を持ち逃げしていて、その問題解決をさせられた。いい迷惑だ。
うつ病の私は、必死だった。みんなに、さとまれないと。
最初の内は、仕事と家事の両立をしていた。
たまたま、広告で、くまの製縫する仕事の募集があった。
趣味のテディベア作りのお陰で、見事採用された。
毎日、大好きなくまに関われる仕事で楽しかった。
ピッキング部門の人が増えるにつれ、昼休憩の私の居場所が無くなった。
銀行や、買い物も、ある程度の用事は、昼休憩に済ます様にした。
次第に、車で過ごす様になった。
車の中で、T.Saxをよく吹いていた。
最初は、なんともなかったはずの人間関係が、だんだん、ストレスになってしまい、限界を迎えた。
その時は、働く部署を変更してもらった。
だけど、シングルマザーで生活していくには、少ない時給だった。
約3年勤めたが、少しでも、時給の高い、保育の仕事に、戻る事にした。
その時の、保育の仕事は、お昼からや、夕方からだったので、息子の保育所のお迎えは、両親にお願いした。
晩御飯の時間も遅くなるので、息子には、お弁当を作っていた。
次年度からは、フルで働ける保育園で仕事をした。
人間関係が上手くいかず、長く、続かなかった。
人間関係もそうだけど、(完璧に出来る人などいないけど、)完璧主義の私は、どんどん、精神がむしばまれていった。
精神科に通院。やたら、薬が多い。
薬の処方の為に、うつ、パニック障がい、統合失調症、不眠症など、いろんな病名をつけられた。
息子がしていることで、自分の小さい頃を思い出してしまい、父に対する恐怖感が蘇り、いつも、ヒヤヒヤしながら、子育てしていた。
母に、「あんたは、保育士やねんから、育児のプロやろ?出来て当たり前やろ?」と言われる度、すごく、辛かった。
育児ノイローゼにもなっていた。
『息子は、私の事が嫌いで、私を困らせて、楽しんでいる…。』とずっと思っていた。
息子が1,2歳くらいの頃、しばらく、実家に預けた。
生きてるのが辛くて、『死にたい…。』と何度も思った。
『事故の時に、死ねれば、良かったのに…。』と何度も思った。
これでは、いけないと思い、保健所の人に相談して、病院を紹介してもらった。
話しは聞いてくれるけど、思いを全然理解してくれない先生だった。
死ぬことは、思いとどまったけれど。
息子は、戻って来たけど、辛さは、変わらなかった。
今度は、市役所の人に、違う病院を紹介してもらった。
カウンセリングもあって、先生も、親身になって話しを聞いてくれ、思いを理解してくれるところだったので、私には、合っていると思っていた。
でも、母は、ものすごく、毛嫌いしていた。
その頃の私は、かなり、病んでいて、外に出るのが怖かった。
まるで、銃口や刃先が全て、私に向けられているようで。
人が怖かった。
待ち合い室で、待ってる事も怖くて、いつも、人から離れた隅っこで、震えながら、待っていた。
今でも、人のすぐ側には、座れない。
人とある程度の距離を取る為、いつも、大きなバッグを持っていた。
未だに電車やバスも、満員だと、乗れない。
座ってなら、なんとか、乗れるようになったけど。
精神的にかなり病んでた私は、仕事をする事もできず、生活保護のお世話になった。
ほとんど、食事もとらず、薬だけ飲んでいた。
かなりの量の薬だった。
昔から、なかなか、寝付けなかったのも、変な時間に目が覚めて、その後眠れないのも、精神的なものだったらしい。
なかなか、寝付けないのは、どうやって寝たらいいのか、わからないのもある。
『手は、どうすればいいんだろう?』と考えると、余計頭が冴えて、眠れない。
『普通にすればいい。』とよく聞くけど、その普通がわからない。
寝方がわからず、眠れない。
どうしたら、リラックスできるのか、わからない。
どの体勢が落ち着くのかも、わからない。
歯を食いしばり、全身に力が入り、ガチガチになっている事が、よくある。
しびれで目が覚める。
休めている感じがしない。
元々、『力を抜く』ことができない。
力を抜くことに、集中しないといけない。
薬を飲まないと、眠れない。
精神障がい者として、認められた。
もう、10年以上になる。
息子は、何か、嫌なことがあると、すぐ逃げる。
買い物途中で、急にいなくなったり、家出もしょっちゅうだった。
その都度、探し回り、見つけては、追いかけると、息子は、走って逃げる。
追いかけては、逃げられての繰り返しだった。
母子家庭だったけど、息子には、いろんな経験をさせたくて、いろんな所へ連れて行った。
だけど、私1人だと、怖くて、海や川には、連れて行ったことがなかった。
ある時、特別指定校のサマースクールがあった。
川遊び。怖がるかなって思っていたけど、息子は、目を輝かせ、どんどん上流の方に行っていた。
そのたくましい姿を見て、息子には、こんな学校が向いてるかもしれないと思った。
その学校に入るため、いろいろ調べた。
入学するにあたり、親子面接があった。
この学校に入学させたい気持ちを思いっきり、ぶつけた。
何とか、合格でき、その学校に入学できた。
最初のうちは、一緒にバスに乗って、学校に見送った。
お迎えもバスに乗って行った。
でも、ある保護者から、非難され、翌日から、バス停までの送迎にした。
凄く辛かった。息子も泣いていた。
息子は、学校生活を存分に楽しんでいたようだった。
でも、息子が小学1年の夏。
またも、家出。
多分、精神的に病んでいる私の事が負担だったんだろう。
思いあたる所を、何度も探した。
夜になっても見当たらず、警察に、捜索依頼をした。
念のため、実家にも、確認の連絡をした。
実家にも、来ていなかった。
母も、探してくれた。
実家の近くのスーパーの駐車場で寝ているのを発見される。
朝、警察署に、お礼を言いに行ったら、「こんな小さいうちから、家出する子は、将来、必ず、グレる。
気をつけんと」と言われた。
その時は、ムカついたけど、我慢した。
家に帰り着いて、私が寝ている間に、また、息子は、家出していた。
実家に行っていたようだ。
母も、すぐに連絡をくれればいいのに、一言も連絡くれなかった。
夕方、実家に行って、母と大喧嘩。
母は、私の上に馬乗りになっていた。
なのに、父は、警察に、「娘が暴れている」と通報した。
警察官が来て、ようやく、母は、私の上から、どいた。
警察官と息子が話し、息子は家庭児童相談所に行く事になった。
私も、そのまま、家に帰ればいいのに、何故か、警察署に向かっていた。
朝の警察官の暴言が許せなかった。
警察だからって、何言っても、許される訳じゃないと思う。
謝って欲しかった。
「しばらくお待ち下さい」と言われ、最初は大人しく座っていた。
でも、なんだか、やりきれない気持ちで、記載台のペンで、リスカットしようしたり、持っていた、ショールで、首を絞めようとした。
強制保護された。
その後も、壁に頭をぶつけまくっていた。
精神病院に、強制入院させられることになった。
病院というより、監獄の様な部屋だった。
2,3日、私は、食事も食べず眠り続けていた。
外から鍵のかけられた部屋。部屋にトイレはついている。
ベッド以外、何もない。
食事の配膳の時だけ、ドアが開けられる。
こんな部屋でどう過ごせばいいのだろう。
よく、ドアの前に座り込み、擦りガラス越しに、ドアの外の世界を眺めていた。
退屈な毎日だった。
何日かして、時間限定でドアの外で過ごせる様になった。
雑誌とか、TVが見れた気がする。
そこのエリアにも、鍵がかけられていた。
数日して、普通病棟に移動した。
病棟内は、自由に行き来できるけど、病棟から、外は、自由に出れない。
数日間は、個部屋だったけど、一週間程して、大部屋に移動になった。
平日の午前中は、パズルや脳トレ、ビーズでの小物作りなどの活動があった。
午後は、違う病棟に行き、ピアノを弾いたり、革細工をしたり、たまにカラオケなどもあった。
活動がある時は、楽しかったけど、ない時は、時間が過ぎるのが、凄く遅く感じた。
病棟からの移動には、看護師2人が付き添っての移動。
まるで、囚人のようだった。
ご飯は、まあまあ、美味しかった様な気がする。
何人かの人と仲良くなり、食事中はいろんな話しをした。
TVも見れた。
ある日、母が面会に来た。看護師さんの前で大喧嘩した。
私は、母が、息子をみていると思っていたから。
何を話したのか、全然、覚えていない。
ただ、覚えているのは、母への恨みのみ。
子ども家庭センターの人も面会に来た。
女性の担当者は、優しい物腰だったけど、男性の担当者は、横柄な人だった。苦手というより、大嫌いな人だった。
今現在、息子は、児童相談所に預けられている。
今のままでは、学校に行けないので、施設への入所が必要だと、説明された。
女性の担当者は、優しく説明してくれたが、男性の担当者は、まるで、脅迫のように、「施設入所に納得しないなら、貴女を裁判しますよ!」と言った。
もちろん、息子には、ちやんと、学校に行かせてあげたかったので、施設への入所は、承知した。
外泊も出来る様になった。
本来なら、誰かと一緒に行動しないといけないらしいけど、面会での、母との一件で、特例で、1人で、行動していい事になった。
早速、息子のランドセルや、教科書、学校用品を取りに戻った。
次の、子ども家庭センターの人との面会時に、息子の荷物を託した。
病院内で、夏祭りがあった。担当医不在で、参加の許可が降りず、看護師さんが、食べ物だけ、持って来てくれた。
カラオケ大会出場したかった…。
外泊以外は、自由に外に出れないので、病棟内の廊下をよく何人かで、ぐるぐる歩きまわっていた。
仲良くなった人が次々と退院していった。
入院中、子ども家庭センターの担当者は何度か面会に来た。
その度に、息子宛の手紙を書いて、担当者に託した。
伝えたいことが、次から次と出てきて、封筒にまで、書いていた。
ようやく、私も退院出来るようになった。
退院したら、すぐ、息子は戻って来ると思ってた。
でも、戻って来なかった。
退院後は、元々、通院していた病院に再度通院した。
月に一度くらい、子ども家庭センターに足を運び、息子の現状を聞いた。
たまに、写真や、手紙なども渡してくれた。
息子が小2になる頃、また入院する事になった。
その頃通院していた病院でも、入院は出来たが、病棟が古いから、前に入院していた病院の方が新しく、綺麗と言う事で、再度、以前、入院した病院に入院した。
病棟は、以前の病棟ではなく、違う病棟だった。
以前の病棟程、厳しくなく、病院の近辺なら、自由に、外出、出来た。
同部屋に偶然、めぐみさんが、入院して来た。
同じ「めぐみ」ということで、すぐに意気投合し、Wめぐみで、部屋から少し離れた談話所で、ギリギリまで、しゃべっていた。
何度か、夜の配薬に、間に合わなかった。
午前中は、違う病棟で、陶芸を楽しんでいた。
入院前から、お茶を習っていたので、お茶用の茶碗や、水入れを作っていた。
偶然の産物で、ハート形のも出来た。
出来上がった物は、どれも、分厚い物で、お世辞にも、茶碗と呼べる代物ではなかったが、自分で作ったので、どれも、愛着があった。
違う病棟の人とも、仲良くなった。
いろんな人と交流し、人と仲良くなるのが、得意な様に思われるが、実は、かなりの人見知り。
喋らない時は、一言も話せない。
昼間は、病院近辺を散歩していた。
年度が変わり、子ども家庭センターの担当者も変わった。
女性担当者は、同じだったけど、男性担当者は変わった。
以前の担当者は、上から目線で、大嫌いだったが、今度の担当者は、話しのわかるいい人だった。
男性担当者の話しによると、私の精神的な病気は完治することはないらしい。
寛解といって、状態が良くなることは、あっても、いつまた、落ちるかわからないそうだ。
1ヶ月程で、退院できる状態になった。
Wめぐみで、同じ日の同じ時間に退院し、最寄りの駅まで一緒に行った。
退院する時に、看護師さんから、「3ヶ月後、Wめぐみ入院予定」と大笑いされたけど、幸い、今のところは、入院せずに済んでいる。
退院とともに、病院も転院する事にした。
前の病院は、やたらと薬が多かったから。
転院した病院の担当医は、こちらの思いをよくわかってくれる先生だった。
私はいつも、大きなかばんを持っていた。
どこへ行くにも、大きなかばんが必須だった。
周りから、見るとおかしかったに違いない。
でもそれは、人が怖い私が、少しでも、人と距離を取るため。少しでも、自分自身を守るためのお守り。
子ども家庭センターの女性担当者から、母親学級なるものに、参加してみないかと、誘われた。
それは、一回しか、受講できない。
そして、誰でもが受講できる訳じゃない。
選ばれた人のみが受講できる、特別な講座。
約1年間の講座。
最初は、正直、乗り気じゃなかった。
でも、息子のため!と、何とか、受講を決意した。
電車に乗るのも苦手。知らない人と話すなんて、怖くてたまらない。行きたくない。
『1日でも、早く、息子が帰ってくるなら!』と、言い聞かせて、毎回、恐る恐る、参加していた。
畳の部屋に、座布団が敷いてあった。
最初のうちは、輪に入るのが怖くて、いつも、座布団を遠くにずらし、座っていた。
10人ぐらいの人が集まって話しをしたり、聞いたり。
子どもに手を出してしまい、自分から、通報して、子どもを施設に預けた人。
子どもを、近くの里親に出している人。
旦那から、DVを受けていた人。
子どもが発達障がいを持ってる人。
内縁のパートナーと、上手くいってない人。
いろんな人が集まっていた。
なかなか、私は、心を開けずにいた。
でも、いつのまにか、座布団の位置が近くなってきて、自分の思いを話せる様になって来た。
行き帰りの電車は、やっぱり、怖かったけど、いつしか、参加するのが、楽しくなって来ていた。
最初、誘われた時は嫌々だったのに、『ミスユニバースに選ばれた様!』と思える様になっていた。
息子とも、面会出来るようになった。
駅から、施設まで、凄く遠かったけど、息子が喜びそうな物を持って行っては、束の間、息子と2人、楽しい時間を過ごしていた。
汗だくになりながらも、息子に会えるのが、楽しみで、ついつい、早足で歩いていた。
お菓子を持って行ったり、息子の好きなケーキを持って行ったり、時には、ファストフードのハッピーセットを持って行ったり。
楽しい時間は、あっという間で、帰り道は、足が重かった。
次第に、面会だけでなく、外出も出来るようになった。
よく、電車を乗り継いで、回転寿司を食べに行った。
この頃、里帰り出産で、妹が実家に帰って来ていた。
精神的ないろんな意味のリハビリを兼ねて、妊娠健診に同伴していた。
予定日から、一週間程遅れての出産。
妹も帝王切開だった。
出産後は、妹の役に立てればと、よく面会に行っていた。
息子の『お母さんと、じいちゃん、ばあちゃんが仲がいいのがいい』という願いから、自宅への、外泊よりも先に、祖父母の家での外泊が何度かあった。
自宅への外泊も出来るようになった。
時間がいくらあっても、足りない。
早めの夕食を食べ終えると、息子を施設に送って行かないといけない。
辛かった。泣きそうになるのを必至で我慢してしていた。
『1日でも、早く、施設への送迎が無くなればいいのに…。』何度も、そう思った。
元々、キャラ弁作りが好きで、ある時、行った、デコマキ教室で、そこでも、資格を取れることを知り、先生の家に通い、デコマキマイスターの資格も取得した。
いつの間にか、資格マニアになっていたようだ。
小3になるまでには、息子にこっちに帰って来て欲しいと、何度も子ども家庭センターの担当者に懇願した。
その甲斐あってか、小3の春には、無事戻って来て、元々通っていた学校に通学出来るようになった。
息子が通っていた学校は、特別指定校で、市内からなら、誰でも通うことができた。
一応、編入扱いで、再度、面接を受ける必要があった。
ほどんどの面接官から、いろいろ、酷いことを言われ、面接の後、大泣きしたのを覚えている。
何とか、前の学校に戻ることができた。
息子は、転入生ではなく、空白の時間など、まるでなかったかのように、友だちの輪に入っていた。
その頃、父も仕事を定年退職していたので、学校への送迎をかってでてくれた。
可能な限り、私も着いていった。
朝、父が迎えに来て、学校に息子を送り届ける。
その後、私は、自宅で下ろしてもらう。
そして、私をひらってもらってから、息子を迎えに行き、また、自宅に送ってもらうのが、日課だった。
よく、みんな、応援しているつもりで、『頑張れ!!』と言う。
でも、それって、ある意味、凄く酷。
頑張ってる本人からすると、『めっちゃ、頑張ってるのに、まだまだ、頑張らないとアカンの?』と思ってしまう。
何気ない、『頑張れ!!』の一言が、プレッシャーを与えている。
そして、肯定ではなく、否定している。
『まだ、やればできる!まだ、力が残っている!全力を出し切っていない!』と。
だから、私は、なるべく、『頑張れ!!』は使わないようにしている。
本人が頑張っている事は、わかっているので、それを認めた上で、『楽しんで!』と言うようにしている。
私も『頑張れ!』に代わる言葉『楽しんで!』になるまで、いろいろ悩んだ。
『どう言われれば、自分にとっていいのか。』
『頑張れ!』と言われると、肩に変な力が入り、緊張して、余計、全力を出せない。
でも、『楽しんで!』なら、今までの自分をちゃんと認めてもらっているようで、なんだか嬉しい。
今までの自分の延長線上で、やれる気がする。
緊張せず、落ち着くことができる。
終わった後に、「よく頑張ったね」って、言われたいし、言いたい。
『おんなじやろ⁈』と言われると、そうかもしれない。
でも、何気ない一言で、何もかも違う。
だから、私は、自分に対しても、『頑張ろう!』ではなく、『楽しもう!』
「頑張ってる?」と聞かれるより、「楽しんでる?」の方が嬉しい。
「頑張ってるね!」も嬉しいけど、「楽しんでるね!」の方が、もしかしたら、もっと嬉しいのかな。
息子も、大好きなじいちゃん(私の父)の送迎や、特別校の雰囲気が良かったようで、楽しんで登校していた。
でも、5年生くらいから、様子が一変。
何か斜がかかった様に、落ち込み、元気がない。
何かあったのか、聞いても、息子は答えない。
学校も休みがちになり、遂には、登校拒否になってしまった。
私も幸い、まだ仕事についていなかったので、無理強いして、登校させることはしなかった。
息子のやりたい様に、やらせることにした。
息子の気が落ち着くのを、見守ることにした。
息子の変貌ぶりは、たまたま、実家に遊びに来ていた妹夫婦も心配するほどだった。
息子は、甥っ子の事が可愛い様で、よく面倒をみていた。
甥っ子と遊んでる時は、笑顔も見られた。
小児心療内科を受診。小児うつだったようだ。
うつの辛さは、私自身、よくわかっている。
息子もかなり、辛かったと思う。
息子自身、どうしていいか、わからなかったと思う。
もがき苦しんでいる息子に「頑張れ!」とは、言えなかった。
ずっとべったり側にいるのもどうかと思い、私は、思いきって、仕事をすることにしてみた。
もちろん、息子の事は心配だけど、私は、息子を信じていた。
資格はあるものの、ずっと、使っていない幼稚園教諭の資格を活かせる仕事につくか、無資格でもokな、介護の仕事につくか。
何個か面接を受けて、たまたま、通ったのが、無資格でokな介護の仕事。
そこから、私は、介護の仕事をすることになる。
どうせなら!と、介護の資格も取得する事にした。
介護初任者研修や、介護実務者研修などの資格も取得した。
息子はというと、相変わらずだったけど、学校長と話し合い、週に1,2度、放課後に私服で登校してみる事にした。
私が、介護の仕事に行った初日、奇跡が起きた。
なんと、息子本人が、まだ、学校のやっている時間帯に「学校に行く!」と言い出したのだ。
その言葉を聞いた私の両親は、快く、学校に送ってくれた。
まだその時は、制服に着替える事が出来ず、私服の上に上着を羽織って、登校した。
ただ、友だちのいる時間帯に登校してみるだけだったらしい。
だけど、友だちが遊んでいる姿を見て刺激を受けたのか、「ちょっと遊ぶ!」と友だちの輪に入っていったそうだ。
その姿を見た校長もびっくりしたらしい。
両親は、またも、快く、息子の気がすむまで、待ってくれていたそうだ。
初仕事を、終えて実家に行くと、息子が誇らし気に、「僕、学校行ってきた!」と話してくれた。
「すごいね。頑張ったね。楽しかった?」と聞くと、息子は照れ臭そうに、「うん。」とうなづいた。
息子は、少しずつだけど、登校できるようになり、6年になる頃には、担任に恵まれたことも大きかったようで、普通に、登校できる様になった。
私はというと、デイサービス、特養、サ高住、訪問サービスと立て続けに頑張ってみたけど、精神的ダメージが大きく、3ヶ月程勤めては、違う職場。と繰り返していた。
とうとう、ドクターストップがかかり、また、無職になってしまった。
息子は、妹家族が羨ましかった様で、ある日突然、「僕も、お父さん欲しい!弟欲しい!実は、めっちゃ、寂しかった…。」と言い出した。
出会い系サイトに登録し、ある程度、会話交換して、実際2人の人にと会った。
そして、2,3回目には、息子にも、会ってもらった。
息子に、どっちの人にお父さんになってもらいたいか、聞いて、息子の選んだ人と交際した。
惜しくも落選(?)した人とも、たまに、連絡は、取り合ってます。
息子が卒業したタイミングで正式に籍をいれた。
息子の家出癖は、相変わらずで、小学校の校長から、「次、警察沙汰になったら、また施設やで!」とよく言われていた。
息子は中学生になっても、相変わらず、家出を繰り返していた。
何度、警察のお世話なったことか。
息子、中1の夏休み。またも、家出。
探し回るも、見当たらず。
翌日、中学校の先生に、近くのショッピングモールで、発見される。
警察に引き渡される。
息子には、会えず。
警察から連絡。
「ごめん。お母さん。すぐまた、家出しそうな勢いやったから、こっちの勝手な判断で、児童相談所にお願いした」
『またか…。』
小学校の校長の言った通りになってしまった。
また息子は、施設生活。
息子とは、今もまだ、面会すら、できていない。
息子は、転校先の中学校で、野球部に入り、頑張っていたらしい。
時々、手紙を書いた。
息子からの返信は無し。
息子との、面会を希望するも、なかなか、面会できない。
子ども家庭センターの担当者からは、全くと言っていい程、連絡がない。
一時期、息子に対する親権辞任まで、考えた。
裁判所に、親権辞任の手続きをした。
相談官と何度も面接した。
相談官が、息子にも、会って、話しをしてくれた。
相談官の話しによると、息子は、私の手紙を喜んでいるとの事。
でも、「返信しようと思ったけど、何書いたらいいか、わからへんかった。」
「お母さんには、ちゃんと会って、自分の口で『ありがとう』と伝えたい。でも今は、まだ、会えない。」
「将来、施設の先生になりなたい!」
と、いろいろ、自分の思いを話してくれたらしい。
親権辞任の手続きを破棄した。
息子は、施設で生活している間に、想像以上に成長したていたようだ。
私の知っている息子は、何か壁にぶち当たると、すぐ逃げていた。
将来設計など、全くなく、目先のことしか、考えない子だった。
でも、いつのまにか、自分の将来を考え、その為には、どうしたらいいかを考えられる様になっていた。
自分の夢に向かって、頑張っている息子を私は、応援することにした。
私は、40歳で中型二輪免許を取得。
原付で生死をさまよう事故にあったので、バイクとは、無縁の人生を歩むつもりが、第3の旦那の誘いで、中型二輪に挑戦。
なんとか、中型二輪は取得したけど、いろんな人にバカにされるのが、嫌で、中型取得から、半年後に、誰にも内緒で教習所に通い、41歳の誕生日を迎えるギリギリ前に、大型二輪まで取得した。
これで、どんな二輪車でも、運転できる!
大型取得するのも大変だった。
まだ中型しか免許を持っていなかった頃のツーリングで、旦那の優柔不断なナビのせいで、急ブレーキからの転倒。
運悪く、マフラーの下敷きになり、右太ももを大火傷。
普通は、その場で、ツーリング断念して、病院行きなのに、何故か、強制的にツーリング続行。
冷やす事さえ、許されず。
火傷の部位は、酷くなる一方。
痛いのを、我慢しながらの、ツーリングは楽しいはずもなく。
火傷から、3日して、ようやく受診。
先生も驚くほど酷い火傷だった。
大型の入所日は、既に決まっていたので、ケガがバレると、教習所に通えないと思い、ケガを隠して教習所に通っていた。
その頃の日課は、まず、病院で、消毒。
その後、約2時間かけて、教習所に行き、痛いのを我慢しながら、2時間の教習。
帰りは、混んでたので、3時間かけての帰宅だった。
それでも、なんとか、卒検、一発合格。
私をバカにした人たちを何とか、みかえしてやった。
バイク生活を楽しもうと思っていたが、平成最後の歳に妊娠。
超高齢出産。
お腹の赤ちゃんは、すごく元気に動き回っていた。
「あっ動いた!」と言う程、可愛いものではなく、「痛い、痛い、痛い」と激しく動いていた。
何度、うずくまったことか。
妊娠中、何度も、死にたいと思った。
でも、『今死んだら、お腹の赤ちゃんまで、殺してしまう。』と思い、辛い毎日をなんとか、乗り越えた。
精神的にかなり、いっぱいいっぱいだった。
『赤ちゃんさえ、産んでしまえば…』ずっと、そう思っていた。
いろいろあったけど、予定日の4日前の検診で、かなりの、陣痛。逆子が判明。すぐ帝王切開手術となった。
なんとか、無事、女の子を出産。
私の飲んでいた、精神疾患の薬のせいで、赤ちゃんは、ミルクが飲めずNICUでの入院になった。
一緒の退院は出来ずだった。
娘を産んだ後も、私は、精神的に病んでいて、死にたいというより、消えてしまいたいとずっと思っていた。
旦那は、そんな私を見て、仕事を辞めて、生活保護を受けてくれた。
でも、旦那は、私の辛さを少しも理解してくれていなかった。
旦那に、「めぐちゃんは、子育てできないでしょ」と言われたのを、今でも、はっきり、覚えている。
確かにそうかもしれない。だけど、全てを奪わなくてもいいのに。
私が困ってる時に手助けしてくれればよかったのに。
私は、底なし沼に沈み込んでいた。
そんな時、たまたま、学校の前を通りかかった時、『車好き、バイク好き集まれ!』の垂れ幕を見た。
『これだ!』と思い、底なし沼から、天空に、急浮上。
ダメ元で、オープンキャンパスに参加したら、AO入試を勧められ、見事合格。
学校、入学を機に、生活保護から、私は抜けないといけなくなったので、学校の近くで一人暮らしをすることにした。
長年、シングルマザーだった私は、ひとり親で、いろいろ助成を受けられることを知っていたので、旦那とは、偽装離婚することにした。
4月から、42歳での学生生活の始まりのはずだった。
コロナの影響で、入学式が中止になり、その後、自宅学習。
約2ヶ月、モバイルでの、課題に取り組んでいた。
6月から、通学出来るようになったけど。
底なし沼から、急浮上して、4月から、150%の力で臨んでいた私。
頑張り過ぎて、体調を崩してしまった。
学校に行こうと思っても、頭痛やめまい、吐き気が酷く、何とか、学校にたどり着いても、更衣室で倒れて、強制早退させられたり。
学校側と話し合い、一旦、休学することにした。
私の通ってる学校は、一応、職業訓練校なので、入学して、4年以内に卒業しないといけないらしい。
1年、休学して、復学するのか。2年、休学するか。
1年休学して、復学した場合、もしまた、なんかあっても、もう一回、やり直せる。
2年休学したら、もう後はない。
しばらくは、自宅療養の日々。
でも、なんだか、引きこもり生活。
旦那のとは、偽装離婚で、しばらくは、会いにいってたけど、いつのまにか、旦那は、『娘に会わせたくない』と思うようになり、「やり直す気はない」と言われ、偽装離婚が本離婚になってしまった。
3度目の離婚。
それからは、お互い、連絡すら取っていない。
もちろん、娘にも、会っていない。
旦那から、たまに、連絡があるけど、その内容は、「誰誰が死んだんやって」
まるで、私に死ねと言っている様だった。
だいぶ、落ち着いてきたので、仕事する事にした。
仕事内容は、細かい部品を順番通りに入れていく作業。
黙々とできるので、私に向いている様に思われたが、次第に、ミスが増えていた。
そんなんで、誰かが、近づくと、つい、身構えてしまって、それが、ストレスになる。
何とか、頑張っていたけど、メニエル病の発症で、実質クビになってしまった。
しばらくは、自宅療養で大人しくしてたけど、やっぱり引きこもり状態なので、単発のバイトをすることにした。
単発のバイトは、力仕事が多い。
先方の理由で、アルバイトがキャンセルされる事も多々あった。
代わりのバイトを紹介してくれるけど、通えないところばかりで、行けない。
2月頃、復学する気でいた。
また、勉強出来るのを、楽しみにしていた。
入学式を心待ちににしちいた。
3月9日。明日は、息子の公立高校の受験。
緊張して、眠れない。
親の私が緊張してどうする⁈
3月17日。朝から、落ち着かない。息子の合否が気になってしょうがない。子ども家庭センターからの連絡を待つが、なかなか、連絡が来ない。
待ち切れず、こちらから、連絡してみた。
「合格発表、確か、明日です!」と言われた。
翌日の昼前頃、「無事、合格しましたよ!同じ中学から受験した子も、みんな合格でした。」
飛び上がって、喜んでしまった。
高校入学祝い、何するか悩んで、お揃いの時計を贈る事にした。
お祝いの手紙と共に、子ども家庭センターの担当者に託した。
後日、連絡があり、息子は、時計を凄く気に入ってくれたらしい。
お揃いなことは、息子には、秘密!
息子は、『心の準備がまだ出来ず、私とは、まだ、会えない』と言っていたらしい。
3月中旬。学費が払えない。
いろんな人に相談してみるも、誰も、そう簡単に、お金を貸してくれることはない。
納付期限が近づくにつれ、焦りは募るばかり。
金銭で揉めるケースはよく聞く。
自分も経験したから、よくわかっている。
体の関係は、あっても、お金となると別問題らしい。
『お金は貸せない。でも、体の関係は、続けたい!』
なんか、納得できない。考えれば、考える程、その人を信用できなくなる。
中には、『相談に乗るよ』と言う人も何人かいた。
でも、実際は、口だけだった。
お金を貸してもらえない=私は信用されてない。
金の切れ目が縁の切れ目。
誰も信用できない。
人が信じられない。怖い。なるべく、誰とも会いたくない。
いつのまにか、また、人間不信に陥っていた。
次第に、自分の殻に籠る様になる。
お金を貸してもらえないのは、辛くて、悲しかった。
「お金に関しては、なんの力にも、なれない。他のことなら、協力できるのに。」
それで、気づいた。
『お金を貸してもらえないのが、辛いじゃない。
悲しいんじゃない。
私、1人ぼっちになるのが、怖かったんだ。』
親や、妹と、連絡を取り合っていない。
別れた旦那に、「やり直す気はない」と言われ、何かの糸が切れた。
ずっと、1人で、孤独と闘ってきた。強気で頑張ってきた。でも、いつのまにか、限界超えてた。
自分の本当の思いに気づいてしまって、泣き崩れた。
『私、寂しかったんだ。』
「あなたさえ、よければ、たまにでいいので、連絡をください。私が1人じゃないって証に。」って、お願いした。
相手も、それくらいならと、連絡をくれる様になった。
お金を借りることに必死になってたけど、ふと思った。
『自分の夢なのに、なんか、他力本願。
人のふんどしで、相撲をとろうとしている。
おかしい。間違っている。』
『もう1年、休学して、お金を貯めよう!』
その翌日、休学届を提出した。
ダブルワークで頑張る事にした。
とりあえず、時給の良さそうなのを探していたら、介護職の募集がいっぱいあった。
必至で応募していた。
翌日気づいたら、90件以上に応募していた。
そのうち、50件位が、同じ、派遣会社だった。
運良く、すぐに採用が決まった。
息子は、4月から、高校生活をスタートする。
私は、復学するつもりだったけど、もう一年、休学して、ダブルワークでお金を貯めて、来年、復学する事にした。
一緒の入学は無理だったけど、一緒の卒業目指して、日々、チャレンジします。
この先、どうなるか、わからないけど、私の人生、私のもの!
夢がある限り、負けない!あきらめない!
毎日を楽しみます。
とりあえず、私時々息子のお話しは、ここまで。
この続きは、またの機会に。
それでは、また。
私、めぐは、ついつい、頑張り過ぎて、何度も限界を迎えます。
でも、好奇心旺盛なめぐは、いろんなことにチャレンジします。
死にたいと何度も思うけど、今日も生きてます。生かされてます。
夢に年齢制限無し!人生楽しんでます。
私の話しで、誰かの背中を後押し出来たらいいな。
誰かを勇気づけられたらいいな。
人の人生は、その人だけのもの。人生、楽しんで頂けると嬉しいです。