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エピローグ

 不思議な事が一つ起きた。

 全ての魔を統べる魔物の王と侵入者が対峙したにも関わらず、玉座の間は静寂に包まれている。

 魔王とザザルボッドは目を見開いたまま息を呑む。それは皮肉にも実に人間らしい表情だった。対して侵入者の男は臆する素振りは一切見せず、場違いな程に淡々とした様子で一歩、また一歩と魔王へ足を進める。

 否、場違いなのは態度だけではない。男は身を守る為の鎧も、兜も、盾も、何一つ身に着けていない。身に着けているのは上下無地の黒スーツに、当たり障りのない青いネクタイ。そして、武器の代わりにその手に持っているのはビジネスバッグ。

 無論、ここは会社ではない。魔王が待ち構える玉座の間だ。


「お前が魔王か?」


 静寂を破るように男は問う。だが、魔王は何も答えない。答える気が無いわけではない。『我が魔を統べる偉大な魔王だ』とでも啖呵を切るところだが、魔王は目の前の『人間のような何か』に完全に言葉を失っていた。

 見た目はどう見ても人間。しかし、その人間から放つ禍々しき殺意。抑圧感。圧迫感。威圧感。これは人間が放つようなものではない。

 だからこそ、魔王は言葉を失った。まるで人間のように。


「お下がり下さい! 魔王様ッ!」


 そんな中、使命感か危機感か分からないが、意外にも早く立ち直ったのは部下のザザルボッドだった。ザザルボッドは巨大な黒き翼を広げると同時に、両手を腕と同じ長さの鉤爪に変化させる。

 鉤爪を構えながら腰を落とし、黒き翼を羽ばたかせると地を蹴って男に向かって一直線に飛んだ。

 男は特に避ける素振りも見せず、何を血迷ったのかネクタイの結び目に人指し指を引っ掛けると、引っ張って喉元を緩める。

 その行動の意図は魔王軍の脳と呼ばれるザザルボッドでさえ理解が出来ない。しかし、そんな事はどうでもいい。もし、この侵入者がたった一人で四天王を壊滅したのであれば、ここで仕留めなくてはならない。

 ザザルボッドは低空飛行で加速しながら、鋭い鉤爪で男の喉を――


「っ!?」


 ――切り裂く直前、一陣の風がザザルボッドの身体を拭き抜けた。何が起きたのかと理解する前にパッとザザルボッドの身体のありとあらゆる所から血が弾け飛ぶ。

 制御を失った翼は飛行能力を失い、ザザルボッドの身体は地面へと引きずり落ちる。自身に何が起きたのか理解する間も無く、元帥のザザルボッドの命はあっけなく散った。

 その命を絶ったのは侵入者の男。彼の手には先程まで首に巻いていたネクタイが握られていたが、よく見ると当たり障りのないネクタイにはザザルボッドの黒き鮮血がこびりついている。


「お前が魔王でいいんだな?」


 元帥の命を刈り取った事など微塵の興味も見せず、男は魔王に対して確認の意を込めて再度問う。

 嗚呼。間違いない。この男が四天王を倒した事はもはや疑う余地もない。目の前で右腕である部下を失った魔王は、


「クッ……クク、ハーッハッハッハッハ!」


 高らかに笑う。笑う。笑う。愉快。愉快だ。実に愉快だと魔王は両手を広げて心から高笑う。


「如何にも! 我が全ての魔を統べる魔王。貴様ら人間を根絶やしにする事を――」


 言葉の途中。宙を舞った。舞ったのは、二本の腕。


「……?」


 魔王の禍々しき瞳に映る二本の腕。見覚えのある腕。それが誰の腕なのかと理解すると同時に訪れる痛覚。


「ぐっ……う、ぐぅうううう!?」


 魔物特有の黒き血が玉座の間に噴き荒れる。斬られた。音も無く、視認する事も出来ず、斬られたのだと理解する。だが、どのようにして斬られたのかが理解出来ない。

 男の腰にも背中にも剣は携えておらず、丸腰に等しい。ならば、斬撃属性の魔法を使用したのだろうか。しかし、男からは一切の魔力を感じない。


「き、貴様……何をしよった!?」


「これで斬った。ただそれだけだ」


 男の言う『これ』とは片手に持ったネクタイの事だった。魔王からして見ればただの装飾の布切れに過ぎない。


「馬鹿を申すなッ! そんな布切れが――」


 吹き抜ける一陣の風。刹那。禍々しき魔王の漆黒の鎧が右肩から左下にかけて亀裂が走り、次の瞬間、亀裂から黒き血が噴き出す。


「がっ、あ、ああ……」


 斬られた。斬られたのだ。あの布切れで。否、ただの布切れではない。魔王はけして見逃さなかった。男が超人的な速さで駆けると同時に、あの布切れが――ネクタイが鋼のように硬く、鋭く硬化した事を。


魔王は堪らず片膝を付くと、その口からは弱い呼吸音が絶えず繰り返される。傷口を押さえようにもその手は床に転がり落ちている為、黒き血が床に広がり続けていく。


「貴様は……何なのだ? 一体、何者だ!?」


 四天王をたったの四日で滅ぼし、ザザルボッドを一瞬で葬り、そして、魔王に片膝を付かせたこの男。男は冷たい瞳に魔王を映しながら、こう答えた。


「通勤途中のサラリーマンだ」


 きっと、魔王には分からないだろう。目の前の男が重度の仕事中毒者である事を。


「お前が存在しているせいで、俺の出勤が大幅に遅れてんだよ。分かるか? だからお前を殺す」


 『シュッキン』という言葉が魔王には分からなかったが、空間に満ちていた殺意が更に色濃くなり、恐怖という魔物にはあるまじき感情が魔王を襲う。


「お前は遅延証明書を発行できるか? 出来ないだろうな。だからお前を殺す」


 きっと、誰にも分からないだろう。魔物にも。人間にも。黒き鮮血を滲ませたネクタイを片手に一歩、また一歩と魔王に歩み寄るこの男が異世界から来た勇者様であるという事を。


「ま、待てッ! 我は偉大なる魔の――」


 それが魔王の最後の言葉だった。ネクタイから放たれた一閃が魔王の首を宙へと飛ばし、機能を失った身体と共に地面へと転がり崩れ落ちる。

 あっけない。実にあっけないが、これが人間対魔物の戦いに終止符が打たれた瞬間だった。やがて、この事実が人々に伝わり、喜びと喚起の声に世界は包まれるだろうが、当の本人である勇者様はそんな事どうでも良かった。心の底からどうでも良かった。


「クソ、ネクタイ替えないとダメだな……」


 世界の平和より会社へ出勤する事しか頭にない勇者様は――志波 清志は、黒き血で汚れたネクタイに舌を打ちながら玉座の間を去っていた。


めでたし。めでたし。


タイトルが「エピローグ」ですが、まだ数ページ続きます。

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