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第7話 「おい女神、後悔させてやるよ」

 六畳半の和室には静寂な時間が流れる。ボンドの言葉に同じ所属の部下であるハピネスやジャッジも思わず言葉を失う。

 持ち帰り可能な「スキル」だけが唯一の社畜眼鏡に対する有効打だった。だからこそ、課長であるボンドがスキルの持ち帰りを承認するのが一番の解決策だった。なのに。この男はそんな部下の目論見に目もくれず、とんでもない事を言ってみせる。


「もし、オメェが異世界を救った後、元の世界に戻った時に俺様が言う『スキル以上の価値』が得られなかった場合だ。そんときゃスキルを好きなだけオメェが望むままに付けてやんぜ」


「なっ、課長!」


 常時冷静な態度を持ち合わせていたジャッジが心底驚いた表情で目を見開く。


「お待ちください! それでは世界のバランスが崩壊する可能性が生じます。一人の人間に対して過度な力を与える事は我々にとって――」


「あーあー、うるせぇな。いいだろう、決定権は俺様にあんだからよ」


「……っ」


 ジャッジの顔には複雑な表情が次々と浮かぶ。困惑、焦燥、渇望。それ程までにボンドの提案が危険なのだと、人間である志波にも十分伝わる。

 もし。もし仮にボンドの思惑通りにならなかったとしよう。その瞬間、志波は元の世界でありとあらゆるスキルを身に着けたまま人生を歩む事になる。億万長者、無病息災、時間操作、不老不死。スキルがあればこの世の全てを掌握出来てしまう。

 まるでおとぎ話だが、ジャッジの表情がそのおとぎ話を肯定している。


 だからこそ――分からない。


「わからん……」


 ここまでずっと気丈に振る舞っていた志波だが、今は変なものを見たような、信じられないという雰囲気で息を硬直させる。


「何故、そんなに自信を持って言えんだよ……アンタ、頭おかしいんじゃないのか……?」


 嫌味を言ったつもりだが、無意識に声が震える。そんな志波にハピネスは目を丸くしたが、ボンドは口端を吊り上げて笑った。


「おーおー、ちったぁ人間らしい表情すんじゃねぇか、ええ?」


「……分かってないようだから教えてやるが、もし俺が仮にその話に乗って異世界に行き、世界を救い、元の世界に戻る。何が起こるか知らんが、俺の世界ではお前らが提示するスキル以上の価値は起こりえない。つまり、お前の話は初めから破綻している」


 全部で百種類近く存在しているスキルの中には仕事人間である志波の目を引くものがいくつもあり、特に欲しいと思ったスキルは三つ。


『グッバイ病原菌。朝から晩まで健康体』

『どこでも誰でも100km瞬間ワープ』

『一日たったの5分。5分で8時間睡眠』


 もしその三つのスキルを手に入れた暁には、今後病欠の心配は無くなるだろうし、今後台風や人身事故の影響で出勤が遅れる事も無くなるだろうし、深夜の残業もノーリスクでこなせるだろう。ワーカホリックならではの選択だった。


「それでもお前は『スキル以上の価値を得る』と言い切れるのか?」


 世界を救えて良かったという満足感だろうか。

 元の世界に戻れて良かったという安堵感だろうか。

 一生忘れない良い思い出になったという幸福感だろうか。


 馬鹿馬鹿しい、と志波は心の中で吐き捨てる。そんなものに微塵の価値も見出す事は出来ない。満足感など、幸福感など、仕事で全て得る事が出来る。

 しかし、そんな志波の心情とは裏腹にボンドはハッキリと告げた。


「ああ。そうだぜ」


 躊躇う事なく、まるでそれが当たり前かのようにボンドは言った。


「別に何か貰えるわけじゃねぇし、特別に面白い事が起きるわけじゃねぇ。極々普通に世界に戻って、普通に会社に出勤するだけだ。しかも、遅刻確定だろうから嫌味ったらしいアホ上司にちくちく怒られるオマケも付きだ」


「……は?」


 ボンドの言葉に志波は思わず間の抜けた声が漏れる。『スキル以上の価値』とは物なのか出来事なのか先程まで不明確だったが、あっさりとボンドは答えを言ってしまう。

 答えは――いつもの日常に戻るだけ。それも遅刻という仕事中毒者の志波にとって重い罪を背負うオマケ付き。


「あ、あの……」


 志波同様に驚きに顔を引きつかせるハピネスは、ボンドに恐る恐る訪ねる。


「その……それって、志波様にとって何の得もない気がするんですが……?」


「ガハハ、そうだろうな。そうだろうよ。なら、スキルの一つや二つ貰ってダイナマイトバディなねーちゃんと戯れた方がずっとマシだ。俺様ならそう考える。誰だってそう考える――だがな」


 品位に欠ける言葉を口にした後、ボンドは顎に手を置いて興味深げな視線を志波に向けながら薄く笑う。


「オメェは『それ』をきっかけにある事に気付いちまう。それがスキル以上の価値だと言う事にオメェは気付くんだよ」


 きっと、ボンドには目の前の勇者の末路が見えているのだろう。自身満ちた顔が何よりの証拠だった。そんなボンドの顔を志波は呆然と瞳に映し、映し、映し――


「ハハ……何を言うかと思えば……」


 零れ落ちたのは相手を蔑むような乾いた笑み。今、自分がどんな表情をしているのか分からない。分からないが、手が僅かに震えていた。

 こんなものはハッタリだ。ただ自分が有利になるように都合の良い言葉を並べているに過ぎない。そうに違いない。それ以外考えられない。

 なのに。なのに、何故、自分は“恐怖”にも近い感情を抱いているのだろうか?


「……っ、下らない!」


 恐怖を振り払うように志波は怒気を含んだ声で叫ぶ。


「下らん! 馬鹿馬鹿しい! 全く話にならん! お前は人間という生き物をまるで理解していない!」


 分からない。分からない。分からない。自分でも分からないが、ボンドの言葉が、この取引が、自分の人生を否定されてしまうような気がしてならなかった。

 世界を救って、元の世界に戻って、遅刻をして、叱責を受けて――そして、その先に何が待っている? それをきっかけに何に気付く?


「もういい、結構だ! ああ分かった、行ってやるよ! 異世界だか何だか知らないがお前らの望み通り行ってやる! そして、元の世界に戻ったら全てをもらうッ!」


 これは忠告だ。警告だ。もし今頭を下げて撤回するのなら取り下げても良い。さぁ、神よ。どうする?


「おお、そうか。じゃ、よっしく頼むぜ」


 あっさりと、何の躊躇いも無くボンドは応えた。ボンドを除くその場の全員が唖然としたが、そんな中意外にも早く立ち直ったのは当の志波だった。


「ハハ……言ったな? 言いやがったな? なら、引き下がれねぇように誓約書を書いてもらう。構わないな?」


 誓約書は当事者間において約束を書面にする書類。口約束では白を切られる可能性がある為、証拠として残るように文書に起こす。

 これも志波の業務経験による一手。退路を塞がれたかのように見えたがボンドは口端を吊り上げてニヒルに笑う。


「オメェがそれで満足するならそれで構わないぜ。おい、ジャッジ。今すぐ誓約書の書類を作成しろ」


「よ、よろしいのですか……?」


 考え直して欲しい、とジャッジの瞳が揺らいでいたが、ボンドは一蹴するように「早くしろ」と短い言葉でこれ以上の反論を制する。

 苦悶の表情を浮かべていたジャッジだが、上司の命令には逆らう事が出来ない為、小さく溜息をつきながら指を鳴らす。すると、ちゅぶ台の上に一枚の紙とペンが突如現れる。余白の目立つ紙には『誓約書』という題名と右下に氏名と捺印を押す箇所が記載されていた。誓約書の雛型だろうが、日本人向けに作成したのか、きちんと日本語で書かれている。


「はぁー、たっくメンドくせーな」


 ボンドはペンを手に取ると文句を言いながらも誓約書の本文欄に文字を書き進めていく。隣に座るジャッジが終始額に手を当てて項垂れていたが、ボンドは一通り書き終えるとアロハシャツの内側から判子を取り出し、躊躇いも無く捺印箇所に押し当てた。


「ほらよ。書いたぜ」


 そう言って、ボンドは誓約書を片手に志波に差し出す。志波は受け取り一通り目を通していく。字は随分と汚いものだが、特に不審な点は無く、必要な点は十分に押さえられている。

 神相手に効果があるかは分からないが、人間界であれば裁判等で十分な証拠となる。


「んで? これで満足か?」


「……ああ、結構だ」


「そいつぁ重畳だ。これで文句なしに異世界に行けるってもんだろ」


「…………」


 やはり、腑に落ちない。何故、ボンドはそうも堂々と構えていられるのか。志波が異世界で命を落とすと確信しているからか?

 分からない。分からない――が、もし本当にそうだとしたら何と下らない神々の遊びだろうか。否、もうそんな事はどうだって良い。


「……ああ、本当に、結構だ」


「し、志波様……?」


 額に手を当てながら志波は自嘲気味な笑みを浮かべた。何故だろう。どうしようもなく、滑稽で堪らなかった。

 就職してからはいくつもの修羅場を乗り越えてきた。理不尽な事も。勝算の無い取引も。支離滅裂な案件も。全て、乗り越えてきた。

 社会人になってから八年という年月で、こんな馬鹿な出来事は本当に初めてだ。アポ無しで突然ここに拉致されて、訳の分からない依頼をされて、理解し難い報酬を見せられて。そして、お前の人生はつまらないと否定されて……。


「……もう十分だ。いいだろう」


 志波は額に当てた手を離し、対面に座る神達へ笑みを浮かべてみせる。それは人間の心の闇を現したような邪悪な笑みだった。



そして――



「俺を勇者として選んだ事を後悔させてやる」



 ――勇者は異世界へと君臨した。


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