第2話 「おい女神、上の人間を呼べ」
「…………」
「…………」
どこにでもありそうな六畳半の和室。その中央でちゃぶ台を差し挟んで座る社畜の眼鏡と萎縮する女神。
女神ことハピネスは急須を手にコポポとお茶を注ぎながら、今にも泣きそうな表情で恐る恐る口を開く。
「あの……志波様。大変申し上げにくいのですが……」
そう前置きを告げて湯呑を志波の前に置くと、ハピネスは目を伏せたまま言葉を紡ぐ。
「遅延証明書……というものは私達の世界では無くてですね。その、ご用意することが出来なくて……」
不思議だ。目を合わせていないというのに目の前の人間から射殺すような眼差しが肌に伝わる。目を合わせようものなら石にされるかもしれない――そんな眼力だ。
「た、ただ! ただですよ! 安心してください! この世界は志波様の世界とは時間の流れが異なっていまして、60分の1なんです! つ、つまり、この部屋で一時間経過しても志波様の世界は1分しか経過してないんです!」
何度も声がひっくり返りそうになりながらも、ハピネスは悲鳴にも近いような声音で力強く叫んだ。無論、嘘はついていない。というより、この期に及んで嘘をつくのは自分の首を自分の手で締めているに等しい。
「…………」
「…………」
六畳半の和室には再び沈黙が訪れる。しばしの沈黙の後、志波はちゃぶ台の上に置かれた湯呑に手を伸ばし、
「そうか。ならいい」
ハピネスが淹れた茶を一口飲んだ。志波の返答とすすった茶の音にハピネスはホッと胸を撫で下ろす。気付けば六畳半に満ちていた殺意は薄れていき、空間を支配していた威圧感を消えていく。
問題はここから。ここからどう志波を説得したものかとハピネスは思考を巡らせた矢先、
「なら、さっさと俺を元の世界に還せ」
まず、先に結論から言おう。神界へと召喚された者は如何なる理由があっても元の世界に戻す事は出来ない。ハピネスは転移魔法と口にしたが、実際のところ限りなく召喚魔法に近い。神界に『勇者召喚』として志波は六畳半のこの部屋に召喚された。この『勇者召喚』が何よりのポイント。勇者とは『世界を救う』存在ゆえに『世界を救う』までは元の世界には戻れない仕組みとなっている。
人間からしてみれば人権を無視した史上最低の制約だが、神界では何てことの無い一般常識。世間とのズレ――否、世界とのズレ。
「おい、何黙ってんだ?」
「えっと、ですね……」
無理だ。嘘を付くことが後々不利になると分かっていても真実を口にする事は出来ない。ならば、最後まで真実を隠し通すしか道はない。ハピネスは決意を胸に、膝の上に置いた両手を強く握りしめて顔を上げた。
「志波様! よく考えてみてください! これは、普通の人間では絶対に体験できないすんばらしぃ事なんです! あの、あれ、あれです。なんか人間界でも流行っているVRのような偽物の世界ではなく、本物の非現実的な世界が志波様を待っているんですよ!」
「興味ねぇよ」
一蹴。なんと見事な一蹴。志波は眼鏡を指先で上げながら冷たい瞳にハピネスを映す。
「人間、働いて当たり前の生き物だ。社会に貢献する事が人間のそのものの価値といって過言ではない。だから俺は仕事に人生を捧げた。にも関わらず、お前の提案はそれをドブに捨てろと言っている。つまり、人間そのものを否定している。違うか?」
恐らく違う。これは社畜が作り上げた極論に過ぎないが、会社の為に生き、会社の為に死ぬ事が普通と認識している志波には、もはや議論の余地はない。
勇者として召喚したはずだが、これでは社会に生きる魔物そのものだった。
「仮にその異世界に行ったら上司や人事から評価されるか? されないよな? むしろ、無断で会社をサボったクソ野郎というレッテルが貼られる。それを踏まえた上で聞くが、お前の提案を受ける事で俺に何のメリットがあるんだ?」
「そ、それは……」
「無いだろ? 結局のところ、お前の要求は対価という言葉をロクに知らない取引先の理不尽な商談と同じレベルだ。いや、それ以前に――」
志波は眼鏡のフレームの奥の目を細めて、冷淡な声音で紡ぐ。
「商談以前の問題だ。アポも取らない。資料も用意しない。名刺もない。お前、OJTで何を学んだ? どういう人事研修を受けた? なぁ、説明してみろよ」
「うっ……あの、その……」
「あ?」
「ご、ごめんなざいぃ……!」
泣いた。泣かした。神が集う世界、神界の歴史上これが初めての出来事だった。一般の人間が神様をぼろ泣きにさせるという黒い歴史が。
無論、これはハピネスの泣き落としという作戦ではなく、本当に怖くて。怖くて。怖くて。神様という立場を完全に忘れて子供のように泣きじゃくってしまっている。
「じ、じば様、ごめ、ごめんなざい。わだ、わだし嘘つきましたぁ。実は、も、元の世界に、もど、戻す事は出来ないんですぅ」
しゅくりあげる音、鼻をすする音に混じってハピネスを大粒の涙を零しながら自白した。目の前の人間が禍々しい魔物ように見えても、勇者召喚として呼び出してしまった以上、もはや退路は無く、前進一択。
この六畳半の和室に召喚された志波には異世界を救う以外、元の世界に帰る手段は無かった。すなわち、無断欠勤は免れない。
「…………」
ハピネスの言葉に志波の目が微かに見開く。風邪を引こうが、怪我をしようが、台風が来ようが、災害が起きようが、必ず始業時刻までには出勤していた志波にとって衝撃的な事実。
だが、志波は社畜である以前に普通の人間。目の前で罪の意識に耐えきれず泣き叫ぶ女性を見て咎める事が出来るだろうか?
分かっている。悪いのは彼女である事は分かっている。それでも、人間は不思議なもので歩み寄り分かち合う事が出来る。ただし、それは――
「は? ふざけんな。神様だか何だか知らねぇが、しばき上げるぞ」
――社畜を除く。
「お前じゃ話にならない。おい、女神。上の人間を呼べ」
「え、あ、あの、でも……」
「だから話にならないって言ってるだろ? 聞こえなかったのか? 早く上の人間を呼べ」
これも神界史上、初の出来事となる。勇者として選ばれた人間が神に対してクレームをつけ、上の人間――否、上の神様を呼び出すという異例の出来事。
神からしてみれば下等な生き物である人間の要求を呑むことは、神全体に泥を塗ることになる。神という立場上、本来はハピネスが威厳をもって対応するところだが、ハピネスは音を立てずに畳から立ち上がり、嗚咽を漏らしながら呟く。
「あの……ハイ、すぐに上の者を呼んできます……」
勇者、まだ君臨せず。




