最終話 「おい女神、 」
『昼から営業。焼き鳥一本90円』という激安を売りにした看板を掲げた居酒屋は、カウンター席が五席、テーブル席が二席のこじんまりとした店内。
平日の昼間では当然社会人の姿は見当たらないが、店内の隅のテーブル席では奇妙な男女が三人。否、人間一人に、神様二人がご来店中。
「ガーッハッハッハ、どーだ!? 俺様の言う通りだろぉ!」
志波の対面に座る筋肉モリモリの神様――ボンド・バッカーノはキンキンに冷えたビールジョッキを片手に豪快に笑う。
対照的にボンドの隣に座る新米女神――ハピネスは実に気まずそうな様子で右を見たり、左を見たり。
「……で? 何でお前らがここにいんだよ?」
ボンドに半ば強引に居酒屋へ引きずり込まれた志波は、注文で出てきたビールには手を付けず、肩肘を付けながら怪訝な顔で頬づく。
ボンドはジョッキに残ったビールをそのまま飲み干すと、品悪く手の甲で口を拭い、満足そうに笑う。
「ぁあ? そりゃあオメェの退職祝いに来てやったんだぜ。んな辛気臭ぇ顔してねぇでじゃんじゃん飲め飲め。おら、ハピネス。オメェも飲め飲め! んで、好きなもんバンバン頼め頼め! ガハハ!」
「いや、でもさすがに昼からお酒は……」
「いーんだよ! まずは飲めっての! んで食え食え!」
「えー……」とハピネスは気乗りのしない表情を浮かべる。当然だろう。この世界ならそれは『アルハラ』に該当するだろうし、仕事で志波に会いに来ているのなら職務放棄に該当する。しかし、ハピネスは「もー……」と溜息を溢した後、テーブルの上に置いてあったメニューを手に取り、しばしの後、厨房の方を振り返ると、
「すいませーん。焼き鳥の盛り合わせを塩で、それと刺身の盛り合わせとだし巻き卵を二つお願いしまーす」
「おい女神」
「え? タレの方が良かったですか?」
「おい、女神」
ここは日本だが、今の彼女は完全に自由の女神と化していた。神様と昼間から酒を飲むというアルコールを摂取する前から酷く頭の痛くなる状況だったが、志波は考えるのも面倒になり、ひとまずビールジョッキを手に取り、一口飲み込む。
「……旨いな」
普段仕事に支障を出さないように、アルコール類はけして口にしないようにしていたが、何年振りかに口にしたビールの苦みは案外悪くない。
「んで、俺にまだ何か用なのか? お前らの言う通り世界は救ったはずだが?」
ジョッキを一度テーブルの上に置き、眉をひそめてボンドに尋ねる。ボンドはその問いに答える前に店員から二杯目のビールを受け取り、半分程飲み干してから上機嫌に言った。
「いんやー、特にこれと言った用はねぇーよ。ただ一応聞いておこうと思ってな」
「……聞く? 何がだ?」
「ガハハ、最高だったろ?」
質問に質問で返すという管理職ではありがちな応答。質問の意図も訳が分からない――という訳でもない。随分と不快な聞き方だ、と志波は呆れるように溜息をつく。普段なら怒鳴り散らすところだったが、今日はビールの旨みに免じて抑えておくとしよう。
「……ま、スキル以上の価値だった事は否定しない」
――会社は何もお前を評価していない。
それに気付く事がボンドの言うスキル以上の価値の事だった。今になって思えば実に滑稽だ。その事に気付かなければ、スキル以上の価値だと理解しなければ、今頃志波はスキルによって一生健康体で、一生通勤手段には困らず、一生短い睡眠で効率的に仕事に取り組めていたはず。
それを逃してしまったにも関わらず、今、この瞬間もけして後悔はしていない。そんな自分がいた。
「オメェの仕事好きは否定しねぇ。だがな、仕事さえ出来ればそれで良いとは本心じゃ思っちゃいねぇんだ。オメェは仕事を通して誰かに必要とされたい――承認欲求の塊なんだよ。だから、あの会社じゃ幸せになれねぇ。あの会社はオメェを都合の良い奴隷にしか見ちゃいねぇしよ」
「……随分と酷い言われようだな」
相変わらず無遠慮に言いたい放題なボンドに、志波は自嘲気味に鼻で笑う。やはりこの男が苦手だった。会話の礼儀を知らない癖に、こちらの本質を見抜いては的確に核心を突いてくる。
否定はしない。その通りだ。会社の為に人生を捧げていた訳ではない。誰かに必要とされたかった。ただそれだけ。たったそれだけの理由で、志波は今日まで文句を一つ溢す事無く仕事と向き合い続けた。八年という長い年月を。
「志波。人間の人生なんざあっという間だ。だから、勿体ねぇ真似はすんじゃねぇよ。もっと欲を出せ。もっと上を目指せ。オメェは誰かの奴隷で生きるような器じゃねぇ、その気になりゃあ会社どころか、世界に貢献できるような器だ」
「……過大評価にも程があんだろ」
「ガハハ、神様の俺様が言うんだ。ちげぇねぇっての」
いつの間にか三杯目のビールジョッキを飲み干したボンドが、「プハー」と満足気な息を溢すと席を立ち上がった。
「うっしゃ、俺様はぼちぼち帰っから、後は好きなように飲み食いしてけよ」
「え! 課長、もう帰るんですか!?」
「おう。そろそろ帰らねぇとジャッジにネチネチ言われっからよー。後はハピネス、オメェが御酌してやんなっと。じゃあな、元勇者さん」
そう言ってボンドは懐から財布を取り出し、日本円の一万円札をテーブルに置くと店員に「ごちそーさん」と軽く手を振って店の外へと出て行ってしまった。
ボンドが後ろ手に閉めていった出入口の扉を目に映しながら志波はうんざりとした様子で溜息をつく。
「相変わらずお前のところの課長は訳がわかんねぇな……」
「あはは……わ、悪い人ではないと思いますが……。そ、そんなことより飲みましょう志波様! 店員さーん、ビール二つくださーい」
志波の機嫌が悪くなる前に何とか場の空気を盛り上げようと、ハピネスは追加でビールの注文をする。職に就いていない志波はともかくだが、勤務時間中に昼間からビールとは実にいい御身分だった。
嫌味の一つでも言おうかと思ったが、店員から運ばれたビールを満面の笑みで受け取るハピネスを見ると何だか毒気を抜かれる。
「って、お前も飲むのかよ……つか、お前は戻らなくていいのか?」
「大丈夫ですよ。今日一日お暇を頂いてますので。というより、責任持ってケアして来いって課長に言われてますし……」
どうやら今時の女神様はアフターケアまで強いられるようだ。しかも、こちらの都合などお構いなしに。
「相変わらず、お前はアポを取らねぇな」
「あ、あはは……すみません」
両手にビールジョッキを持ったハピネスから一つジョッキを受け取り、志波は冷えたビールを喉に流し込む。
何かもう色々と文句を言ってもキリが無いので、志波は昼飯を兼ねて刺身の盛り合わせに箸を伸ばして口に運ぶ。
「あの、志波様……」
脂の乗った刺身の味が口に広がる中、か細い声に呼ばれて志波は顔を上げると、ハピネスが気弱な目でこちらを見つめていた。
何かを言おうとしているのか、目が何度も逸れたり合ったり。やがて意を決して言葉を紡ぐ。
「えっと、私が言うのもあれなんですけど……志波様は、これからどうするんですか?」
志波を『異世界を救う勇者』として召喚した結果、退職に追い込んだ張本人からして見れば実に聞きにくい内容だったが、ハピネスはどうしても気になって尋ねてしまう。
「まだ何も決めていない。とりあえず、そうだな……」
口に運びかけたビールジョッキを一度置いて、志波は顎に手を置いてしばし思案する。
「前からネットワーク関連やサービス運用の資格に興味があったし、それを勉強しつつ、新しい職場探しってところだな」
志波の声は冷たい瞳とは対照的に不思議と暖かく、口元には微かな笑みが浮かんでいた。初めて見た志波の表情にハピネスは目を瞬かせたが、救われたような気持ちが芽生えるとホッと安堵の息をつく。
「そうですか……それは良かったです」
「は?」
「ああいえ! 何でもありません! ささ、志波様飲みましょう!」
安堵の様子を見せたハピネスだったが、志波から怪訝な視線を向けられると誤魔化すようにビールジョッキを一気に口に運び、コマーシャルの役者並みに喉を鳴らしながら一気に流し込む。
「……何でもいいが、酔い潰れるのだけは辞めろよ。さすがにそこまでは面倒見ないからな」
「大丈夫です! 私こんなに強いんですから!」
親父臭く「プハー」と息を吐いて「どんなもんです」と言わんばかりの得意げな表情を志波に見せつける。
「あの、志波しゃま!」
噛んだ。まさかもう酒が回り始めたのだろうか。
「志波様も頑張ってくださいね! 私も早く一人前になれるように、お仕事一生懸命に頑張りますから!」
何も成長を感じさせない勢い任せの言動に志波は額に手を当てて嘆息する。そんな志波とは対照的にハピネスは注文した焼き鳥を美味しそうに頬張っては、無遠慮のビールで流し込む。
「ほら、志波様! 今日は飲んで食べましょう! 女神とお酒を飲むなんて非常に貴重な体験なんですから!」
「その場所が居酒屋なんだが……まぁ、いいか」
やれやれ、と志波は心の中で溜息をつく。
まだまだ半人前。一体、目の前の女神が一人前として成長するには何十年、何百年と時間がかかるのか、知る由も無い。
それでも初めて会った時より、ほんの少しだけ成長した女神様に志波は薄い笑みを浮かべて言った。
「おい女神、
お前も頑張れよ」
END