第1話 「おい女神、遅延証明書を発行しろよ」
「ようこそ、志波清志様! おめでとうございます。貴方は異世界の勇者に選ばれました!」
「…………」
眼鏡は激怒した。必ず、この無知蒙昧な女をしばき上げる事を決意した。眼鏡には冗談は分からない。眼鏡は極一般の社畜である。
IT業界のブラック企業に勤め、毎月100時間の残業が当たり前の日々を過ごしていた。けれども、仕事に対しては人一倍に謳歌する程の仕事中毒者だった。
今朝、眼鏡は家を出発し、バスに乗り電車に乗り換え、自宅から一時間程の距離にある勤務先へと向かっていた……はずだった。
「フフ、驚きましたよね? 驚いちゃいましたよね? 何を隠そう私は女神なのです!」
「…………」
テレビ局の楽屋のような六畳半の和室。その中央でちゃぶ台を差し挟んで座る社畜の眼鏡と自称の女神。
眼鏡――否、志波は今日、午前中から得意先と会議がある為、無地のスーツに当たり障りの無い青のネクタイを締め、ビジネスバッグを片手に会社へと向かっていた。これは間違いない。ここまでは記憶がある。そして、勤務先へと向かう途中の横断歩道で信号が青になるのを待っていた。ここも記憶はある。
問題はここから。何故か、何事も無かったかのようにこの部屋にいる。
今いるこの部屋も、目の前にいる脳内花畑な女も志波は何一つ記憶に無い。
「あ、申し遅れました。私、神界の異世界転移課のハピネスと言います。ハピネス・ウェンディングです」
「…………」
女の容姿や格好は奇妙の一言に尽きた。地毛とは思えない桜色の長い髪を側頭部の片側のみで結び、大きな瞳は空と海を映すように青く煌めく。
言葉や思考同様に顔つきも幼く、見た目だけで見ると高校生か、良くてぎりぎり二十歳か。そして、極めつけが服装。白と赤を基調とした服には、肩から胸までを覆うケープに、二の腕から手首辺りまでに覆われたアームカバー、チェック柄のワインレッドのスカート。服装全体には華美な刺繍が施され、華やかさと豪華さが演出されている。
何かのコスプレとも思えるその格好は一部の層には爆発的な人気を引き起こすのだろうが、そんな趣味を持ち合わせていない志波には何一つ響かなかった。
「おっと、志波様。今、貴方はこう思っていますね。『ここはどこだ!』『俺は一体どうしてこんなところに!?』『目の前の美少女は誰だ!?』と。わかりますわかります、それはもうおっかなびっくりですもんね」
「…………」
「実はですね! 私の転移魔法によって志波様は地球から、この神界へとワープしたのです! いやぁ、私今日初めて転移魔法を使ったんですが、上手くいって一安心ですっ」
満開に咲く桜のような笑みを浮かべ、電波な言葉をマシンガンの如く社畜眼鏡に放ち続ける女神様。顔色を伺うという言葉を知らないのだろうか。
「ではでは、志波様。いえ、勇者様! これから貴方は剣と魔法が存在する異世界に勇者として君臨し! 人々を脅かす魔物を倒し! 世界を平和へと導くのです! きっと旅の道中で多くの出会いがあるでしょう。笑いあり、涙ありの冒険が今ここに始まるのです!」
この狭い空間で拳を天に突き出し、高らかに叫ぶ女神様。無駄に声量を上げたせいか、少しばかり息が切れているが、その表情には万感の思いが込められていた。
そんな思いに、勇者様こと眼鏡は――
「おい、女神。遅延証明書を発行しろよ」
――激怒した。
「……へ?」
勇者様からの思わぬ返答にハピネスは目を丸くして間の抜けた声を洩らす。志波は呆然とするハピネスに殺意に塗り固めた声音で言った。
「……お前のせいで出勤が遅れてんだよ。さっさと遅延証明書を出せ」
言わずもがな、遅延証明書とは鉄道事業者やバス事業者が運行する電車やバスの遅延を公式に証明する目的で発行する証明書である。
社会人は電車やバス等の遅延により出勤が遅れる際は証明として遅延証明書を会社へ提出しなければならない。今現在、どれ程の時間が経過したか分からないが、仕事中毒者であり、社会の犬を真っ当する志波にとって遅刻は汚点に過ぎなかった。
「あ、あのー……し、志波様? え? あの、そんな事は別にどうでもいいのでは――」
愚かだった。ハピネスが口にした言葉は実に愚かだった。
「お前……今、なんつった?」
常日頃異世界を視野にする女神には分からないだろうが、仕事中毒者を甘く見てはいけない。彼らは仕事こそを生きがいとする人種。そんな彼らから「業務妨害」をする事は宣戦布告と捉えられる。
「そんな事……? そんな事だぁ!? ふざけるなッ! 俺の無遅刻無欠勤という素晴らしい実績が、お前のくだらない脳内花畑で潰れようとしてんだぞ!」
「ひっ!?」
志波は振り上げた拳をちゃぶ台の上に叩きつけると、ハピネスが短い悲鳴と共に肩を震わす。
「あ、あの、あのあの、しば、志波様? な、何か私、気に障るような事でも……」
「お前……本気で言っているのか?」
「ひぃい!?」
一瞬にして六畳半の空間は殺気に包まれる。抑圧感。圧迫感。威圧感。空間を歪ませかねない程の重圧がハピネスに降り注ぐ。
「いいか、脳内花畑女。俺は社会人だ。社会人たるもの会社に全てを捧げる事は当然の義務だ。会社での評価こそが人生そのものと言える。だからこそ、己の健康もプライベートの時間も関係ない。会社こそが人間の『生きる場所』だからだ」
無論、これは仕事中毒者による持論に過ぎない。長い間、ブラック企業の犬として毒された彼にはサービス残業も休日出勤も何一つ苦にならなかった。
むしろ、それを誇りに思ってしまう程、彼は重度の仕事中毒者だ。
「なぁ? 考えてもみろ、クソ脳内花畑女。遅延証明書も無しに出勤してみろ? 終わるんだよ、それで。一度でも遅刻したという罪深き十字架を永遠と担ぐんだぞ! それがお前に分かるか!?」
「ず、ずみませんッ!」
反射的に謝ってしまった。プロローグの時点でこれ程までに躓く事を想定していなかったハピネスは、ただただ仕事中毒者の負のオーラに硬直する。
おかしい。どうしてこうなった? 女神が思い描いていたのは――
『え、俺が勇者? うーん、わかったよ! こんな可愛い女の子に選んでもらったんだ。魔王を必ず倒してみせるよ! うー、わくわくするなぁ!』
――という今時では古い展開を何一つ疑う事無く期待していた。しかし、実際はわくわくとした様子は無く、殺伐とした様子が続いている。
「あ、あのですね……志波様」
ハピネスは日本人の伝統的な座り方の一つ『正座』に座り直すと絞り出すような声で呟く。当然、顔を上げる事は出来ない。怖い。怖いからだ。神からしてみれば人間は下等な生物なのだろうが、今はどうしようもない程に怖い。
「志波様のお気持ちはよく分かりました……分かりましたけど、あの、私としては、その、異世界に行っていただきたいのですが……」
「あ? お前、今なんつった?」
「ひっ、す、すみません……」
勇者、君臨せず。