ポニーテール
1
朝、僕はエスカレータのベルトに寄りかかり、スマフォの画面を親指で流している。ベルトに肘をのせて、だらっととした姿でスマフォを見る。画面には、犬に猫にパンダにスニーカー、料理の皿ばかりが回転ずしのように流れてくる。猫がまるまって寝ている画像で指をとめ、また、親指運動をつづけた。僕の高校生活も回転ずしのようだ。猫になりたい。
エスカレータはゆっくり上昇し、乗り換えホールに到達し、ぼくは押し出されるままに降りる。わずか20段くらい階段の横のエスカレータだから、あっという間に着いてしまうのだ。それなら、階段を歩けばと思うかもしれないが、自分のエネルギーではなく、公共のエネルギーを減らすことにしている。
乗り換えホールは通勤客や学生でいっぱいだ。皆が、別の線への乗り換えにわかれていく。右へ行けはB線へ、左へいけばD線への乗り換え下りエスカレータで降りていく。
その日も、いつものように、短いエスカレータに乗り、ベルトにもたれて、親指運動をしていた。ふっと空気が揺れた。地下鉄空間では、「電車到着時の突風にご注意くださいという」アナウンスとともに、飛ばされそうな風が吹くが、そんなのではない。ぼくの産毛がそよぐというか、そんな感じの空気の動きだ。ついスマフォから目を離した。
誰かが、エスカレータの僕の横の階段を通りすぎて空気が動いたのだ。そりゃ、階段を足で昇る人はいるさ、短いんだからと、いつもなら無視するだろう。でも、今日は今まで感じたことのない気分がして、見上げると、丁度、階段を上りきって、人々の間に紛れていく細い足とスカートの端が見えた。引き締まった足首に黒い短いソックスが見える。女子高生か。
僕がそれを見送っていると、昔は白い靴下だったがと、後ろの爺さんがぶつぶつ言った。僕は腹がたった。爺さんも、あの足を見たことに、なんだか腹がたったのだ。
2
次の日も同じことがあった。やはり、気づいたときには、グレーの地に白い格子の線がはいったスカートの後ろ姿が見えた。白いシャッツ着て、紺色のスクールバックを肩から背中の方に回して、人込みの中に紛れていくところだった。きっと胸元にはリボンを結んでいるんだろうな、と思い、相手だって僕を見ただろうと勝手に思った。自意識過剰な年ごろだ。
なんで、今まで彼女に気づかなかったのだろう。どこからか転校してきたか、帰国子女か、いや、どうでもよいと思いながらも、次の次の日はスマフォを片手に、背を伸ばし、かっこをつけて、エスカレータのベルトに寄りかかった。そして、耳は階段の気配に、緊張している。
一瞬、スマフォの画面が真っ青になった。あれっ、何だと思った瞬間に、彼女は通りすぎて、階段の最後の段をのぼるところだった。僕は自分でも気づかぬうちに、エスカレータのお急ぎ用レーンを数段駆け上って、後を追っていた。
ポニーテールが揺れている。髪は一本一本が見えるほどに、まっすぐで、艶やかな光を放ち、後頭部の真ん中で黒いゴム紐で結ばれている。髪は光の輪をつくり、そこから、背中に一直線に流れている。 彼女は階段を上りきると、人込みのなかを、ぶつかりもしないですり抜けていくところだった。D線の方に向って行く。
3
しめたと思った。D線は僕の乗る路線で、ここから3つ目の駅に僕の高校がある。周辺は、都市部から離れた、打ち捨てられたような工場群だ。線路は、やたらに地下深いところを走らされており、プラットフォームへの下りエスカレータは恐ろしく長い。きっと追いつける。
僕は、あちこちで人にぶつかりながら、彼女を追った。彼女はすごく足が速い。ぼくがD線の下りエスカレータに乗り込もうとしたら、すでに、深いプラットフォームに彼女の姿が小さく見えた。いそいで、長い階段を走り降りた。今まで貯めたエネルギーは、やはり役立もんだ。
エスカレータは、スマホ片手の黒い頭の列を地の底に運んでいく。その脇の階段を駆け下りると、電車のドアが閉まるところだ。あわてて飛び乗ったところは、女性専用車だった。やはり駆け込み乗車は危険だ。
ぼくは、急いで次の車両に移ろうとした。ところが、その車両は、おなじように後ろで髪を結んだポニーテールの無数の女子で一杯で、同じ制服を着た幼稚園か小学生かの女子たちが、一斉に僕の方を見て、取り囲んだ。女の子達は小鬼の集団のように僕を睨んだ。
ぼくは、耳まで真っ赤になりながら身動きがとれず、隣の車両に移ることもできない。例の彼女は、ドアの方を向いて立っている。暗い構内を背景にして、ドアのガラスに映った彼女の目が僕を見ていた。丸みを帯びた切れ長の目と、少し膨らんだ頬をしている。
次の駅につくと、僕は、急いで降りようとした、というよりも、その女子達が僕を取り囲み電車から降りた。
僕は抜け出すことができなかった。小鬼達は、騒々しくおしゃべりしながら、そのくせ、異様に強い力で僕の脱出を阻止し、そのまま、僕を地下鉄出口の方に運んでいった。地下道の先に、上り階段があり上方に四角い出口の光が見えた。
4
この駅には降りたことがない。でも、D線が事故で止まった時に、何度かバスで通り過ぎたことはある。操業を停止した小さな工場がいくつも壊れるままに放置されていた。半分壁が落ちた建物を植物が覆いつくし、錆びて端が欠けたトタン屋根が捻じ曲げられている。塀だけ残る四角い空地は、草に埋もれたコンクリートと赤茶けた水たまりがあった。いくつかの小さな商店のシャッターは落書きと跳ねた泥にまみれていた。
でも、異常な状況に陥っている今の僕には、どんなに陰気な場所であろうと、はやく出たかった。
地上にでる階段を上りきると、光景が全く違っていた。見渡す限りはるか先まで一面の水の原だったのだ。たしかに、このあたりの土地は低いと聞いたことはあったが、あの工場群はどうしてしまったのか。水と、時々、水面の上に出ている草ほかは何も見えない。灰色の空と地平線、いや水平線は混然として交じりあって区別がつかない。
僕の周りを囲んでいた小鬼達は歓声をあげて、近くの浅い水たまりで遊び始めた。水を蹴とばして掛け合い、水しぶきをあげて追いかけあっている。水面のあちこちに水の輪がひろがる。
僕をブロックしていた子供たちが散り散りになったので、ぼくは、急いで、地下鉄に戻ろうと振り返った。あれは、普通の子供達じゃない。
振り返ると、出てきたばかりの地下への口は、ただ、水の満たされ暗渠があり、地下鉄に降りる階段が水の中にゆらめいているのが見えた。いったいどうなっているんだ。僕が立っていたのは、地下への浸水防止のために出口のところにある、周囲より少し高くなったコンクリート製の敷居の上だった。浸水防止の役に立たないどころか、そこだけが、水面から出ている場所だった。広大な水に囲まれ呆然としている僕の前に、いつの間にか彼女が立っていて、細い声で「ついて来て。」と言った。
結びきれない短い髪を耳の後ろに細い指でかけ、おでこからほつれた髪が顔の輪郭を優しく縁取っている。彼女の後ろには、細い鈍く光る金属でできたような道が水の上をはるか先まで続いていた。
行くしかないだろう。水から出ているのは、そこしかないのだから。結んだ艶やかな髪が背中で揺れている。罠にはまっちまったんだと思った。ひょっとして、彼女の制服はコスプレだったのだろうかと、くだらない思いが浮かび、なぜか水に沈んだ地下のことを何とも思わなかった。
5
灰色というか銀色をした細い道を進んでいくと、なんだか霧がでてきたようで、周囲の景色がぼやけてきた。この先に彼女の女子高があって、「今日は文化祭なのよ。」とかであればいいのだが、そんな雰囲気ではない。しばらく行くと、もうすっかり周りが乳白色の霧で包まれ、目の前の彼女と足元が見えるだけになった。水があるのかもわからない。
霧の中に、滲んだような赤茶けたものが見える。大きいものや細長いもの、石ころみたいに小さいもの、ぼやけた輪郭は溶けたような曲線をしている。突然、左手前方で何か大きな黒い影が跳ねあがり、水しぶきが上がり、水面を打つ音がした。何かはわからないが、あたり一面が陰惨で生臭さに満ちた。驚いて一瞬たちどまると、彼女の背中がぼやけて、あわてて後を追おうとして、細い道を踏み外してしまった。踏み外した足には、水どころか何も触れるものがなかった。そのまま、奈落の底におちていくような恐怖がいっぺんに僕に襲い掛かった。
そのとき、重機のような力で、僕の体を引き上げたのは彼女だった。
「何なんだ、ここは」と思わず言った。彼女は、怒った顔をして、「旧時代との境界点よ。余計なことをして私の電磁バリアから離れないで。やつらに襲われるわ。それに、この道を踏み外して落ちれば、時間が消えて、あんたは一生もどれないわ。」と言った。それまで、何を聞いても答えなかった彼女が、口を開いたことに感動し、その内容に動揺した。やはり、ここは、僕が前に見たあの工場群だったのだ。何かにより溶けた残骸だったのだ。
6
それから、彼女は前方を指さした。指さした先には、横に広がった薄いドーム型の建物が霧の中に確かな輪郭をして浮かんで見える。あそこが、行先なのだ。いかにも、よくある研究所か、病院という風の建物をみて、研究材料にされるのではという恐怖を感じたが、逃げることができない。
小道をたどって建物に近づくと、気づかぬうちに建物の内側にいた。思ったより高い天井の広い空間で、壁全体から淡いピンク色の光を発している。やはり、ここは女子高のような気がする。未来の。
周りを見回していると、年齢の高い女性の声がやさしく、「ようこそいらっしゃいました。」と空間に響いた。拉致されたようなもんだ、思いながらも、勝手に彼女の後を追ったのは僕のわけで、抗議はできないだろう。
それでも、「僕は虚弱体質だし、IQも人並みだから、役にもたたないですよ。」と訴えた。彼女は僕の傍にたっており、「わかってるわ。」といった顔をして、くすっと笑った。
7
声は続けて、「この空間は無菌室になっています。あなたの生きている細胞をいただきたいのです。」と言った。「やはり、標本にされるんですか。」と僕の声が震えた。
「ご心配には及びません。あなたのほんの少しの細胞と情報をいただきたいのです。わたくし達の世界では、つい先日大事故があり、精子保管庫が破壊されたのです。私たちの時代の男性はかなり前に最後の一人が亡くなり、その後、特に男性は必要とされておりませんが、子孫のために精子保存は必要です。このままでは、人類は消滅します。つまり、あなたの若い細胞を得て、そこから精子を再生したいのです。同意していただけますか。」
僕は、よからぬ想像をしながら少々どぎまぎしたが、期待ははずれて、頬や頭皮の細胞から精子を再生するという。でも若い男の細胞でなければならない。1個の細胞さえあれば、そこから、再生操作と遺伝子編集で多様な精子を作り出すことができるという。
頭皮でも大丈夫というが、それが今後の男の基礎となるというのでは、僕も責任を感じる。僕は頬の細胞の提供に同意した。
再び、声がして、「ありがとう。それでは、そのR309AIが操作します。指示に従ってください。」と言った。僕のそばにいるのは、彼女だけだった。
彼女は背が高く、うつむくように顔を近づけ、僕の頬を包み込むように、両方の手の平を当てた。その手は滑らかで、暖かかった。それは、彼女の手の平から発射された殺菌と細胞分離光線の熱だったのだろう。そして、うつむいた彼女の髪が一筋ぼくの頬に触れた。それは細くしなやかな光るファイバーだった。
真剣な目をして、僕の頬に手をやる彼女の姿を僕は複雑な思いで見つめた。ピンク色の光線の下で、彼女の肌もピンク色に輝いている。そして、彼女が、「100細胞の分離と分析情報をコピーしました。」と言い、手を離した。どのような技術なのか、傷一つなく、彼女手の感触だけが頬に残っている。
「ありがとうございました。もう、お帰りいただけます。」と、例の声が響き、これでおしまいだった。
8
僕は、また、彼女の後に従って、小道を戻るところだ。来るときには、あんなに遠く感じたのに、帰りは、一瞬に過ぎたような気がする。しだいに霧が薄まり、ポニーテールがリズミカルに揺れている。
地下鉄の入り口付近の霧はすっかり晴れて、水も、小鬼のような子供たちも消えて、もとの姿に戻っていた。
地下鉄入口の階段のところまで来て、彼女は手を差し出した。僕は、思わず強く握った。人の手のように、少し冷たくなっていた。そして、彼女は、僕を残して、来た道の方を向いた。彼女の行く手の方は、また乳白色の霧が覆い始めていた。
僕は、「いつか、今見たような世界になるのかな。」というと、彼女は女子高生のように、首をちょっとかしげて、「ならないといいわね。でも、もう始まっている。」と言った。
更に、その背中に向かって、「どうして、僕なんかを選んだのさ。」と言うと、「あんたが、私の出した探索パルスに反応したからよ。」と言った。
あの産毛が逆立ったことか。彼女は続けて、「今後、髪のきれいな女子には気をつけることね。」と言うと、振り返って楽し気な声で笑った。本当の女子高生みたいだった。さらに、「あんたの女子高生像は、あまりにもステレオタイプよ。」と言うと、姿は霧の中に消えていく。
僕は、あの飛び跳ねた黒い影を思い出して、彼女が無事に帰りつくことを祈った。
9
今日もぼんやりと、あの短いエスカレータにのっている。スマフォを手にすることはなくなった。その代わり、階段を駆け上がる女子高生がいると、はっとして、その後ろ姿やポニーテールを目で追いかけてしまう。
彼女が言う通り、ぼくの女子高生像はかなりステレオタイプであったようだ。女子高生達は、しっかりとした足と力強く階段を上るふくらはぎを持っていることを知った。髪型もいろいろあり、でもやはり僕はポニーテイルのすがすがしさが好きだ。
電車の中で、笑い、テキストを広げ、しゃべる生き生きとした彼女達を見ていると、知性の無い男なんて不要と淘汰されてしまう世界が現実に来るような気がする。飛び跳ねた、あの陰惨な黒い影は、僕らの時代意識の、それも暗澹とした男の意識の残像なのかもしれない。
そして、隣駅の町は、やはり見捨てられたような場所のままだ。この国のどこかしこから、人が消えていく。どうしたら、霧の中の溶けた鉄屑みたいにならなくてすむだろうか。山間に残る土壁と瓦を持つ家は、歴史の屑さえ残さずに消されてしまう。
もう一つ、気になったのは、僕の見たあの時代に、男どころか、人類というものがいたのかということだ。もしかしたら、もう、精子も卵子もも博物館かどこかに保存されているだけなのかもしれない。人類を再生できる可能性を残すために。そうした世界に僕たちは繋がっているのだ。
今でも時々思い出す。見えなくなっていく彼女に向かって、「名前は。君は人か。」と呼びかけた。「物理的には人ではないわ。でも、あんたの頭の中では、ずっと女子高生よ。」とだけ答えた。