イリスとアリスと始まりの村
カッターで服を切り、へそだしTシャツを作る。残った布で傷口をきつく結ぶ。痛む二の腕を押さえるようにしていつ抜けるかも判らない森を歩く。思っていたよりも時間がたっていたようであたりは暗くなってきている。
急いで森を抜けたい一だが、夜ゴブリンにであったときのことを考えると、どこかに身を隠しておきたい気持ちになる。他のモンスターがいないとも限らない。
「くそっ…破傷風とかにならんだろうな…」
刺されたナイフの様な刃物は少なくとも綺麗な物ではなかった。痛みの他に熱を帯びてきている。手当てが遅れると傷口が腐ってしまうことも考えられる。
不幸に次ぐ不幸を体感した一に、希望の音が聞こえてくる。水の流れる音がするのだ。疲労困憊だった身体は急に元気になり、音に向かって歩く。
「み…水だ…」
小さな川である。岩から染み出した水が川を作り出していた。ここに来るまでに飲みつくしたジュースのペットボトルで水を汲む。生水は危ないという話も聞いたことあるが、今の一には関係なかった。
ペットボトル一杯に入った水を一気に飲む。その味はこれまで飲んだことのない水のおいしさを感じた。
「く…俺は…水なんかで…泣いてるのかよ…だせぇ…」
いつのまにか頬を伝うのは涙。痛みでではない。生き延びたことがそうさせたのだ。
水を飲んで満足した次は傷口を洗い流す。丹念に洗い流し、巻いていたシャツも綺麗に洗い巻きなおす。痛みは治まってきたが、動かすと激痛が走る。思ったよりも深いようだった。
一には一つの希望が見えていた。川である。川沿いに歩いていけばきっと人里にでると。以前読んだ漫画だったのか、雑誌だったのかは覚えていないが、そんな情報が書いてあった。しかし、今日はもう暗い、明日から川沿いをあるくことにした。そうなると寝床の確保だが、水を飲んで休んでいた一に動く気力などは無く、木にもたれかかるようにして眠ってしまった。
水の流れる音で目が覚める。目を空けた瞬間周りを確認する。無事生きていたことに安堵するも、自分の失態に悪態をつく。危険な生物がいたら?毒をもった虫がいたのかもしれない。そんな中、無防備に寝ていたのだ。昨日のこと、今も痛む二の腕の傷、これが現実であることを嫌というほど認識していたはずなのに。もっと気を引き締めようと立ち上がったところで身体が重いことに気がつく。
「やっぱりか…」
熱が出ていた。原因はわかりきっていた。とりあえず川で顔を洗い、傷口を洗い、シャツを巻きなおした。身体は重いが、希望が見えてきたのだ。川沿いに歩けばきっと人里にでる。それを信じて一は歩き出す。
一時間も歩くと、それなりに川は大きくなってきた。しかし、息が上がっていた。昨日は三時間ほどあるいていても今より疲れてはいなかった。
「熱って…本当に…体力…なくなるんだな…」
荒い息を上げながら誰ともなく呟く。熱を出したときにこんなに歩いたことのなかった一は思った。これまでは薬を飲んで寝てれば治っていたのだ。
もう少し歩いたら休憩しようかと思い、だるい身体を引きずるように歩いていると、川で何かが跳ねた。一瞬警戒するが、それが魚らしきものだとわかると、一は喜ぶ。魚はちゃんと魚の形をしていて目を凝らすと結構泳いでいた。この三日間を菓子パン一つで過ごし、空腹は限界だったのだ。しかし釣り道具などあるわけでもなく、どうしたもんかと考える。
「なんだっけ?がちんこ漁…だったかな…」
岩に岩をぶつけ、その振動で魚を気絶させる日本では禁止されている漁法である。川を見るが岩はないので、岩を探してうろうろしていると手ごろな大きさの岩がある。少ない体力で川傍まで持って行き、ズボンを脱ぎ川に入る。膝まである水かさにちょっと驚くが、川の真ん中あたりまで持って行きその場を離れる。しばらくじっとしていると、岩の周りに魚が集まるのが見えた。もう一つ岩を探してきた一は、十キロはあると思われる岩を持ち上げ投げる。数瞬、大きな音と水しぶきが起こる。水面が落ち着くのを待っていると、何匹か魚が浮いていた。嬉々として魚を取り、よく洗ったカッターでハラワタを出し、履歴書をまた一枚燃やし、焚き火を起こして魚を焼いた。
塩も何も掛けていない魚の丸焼きを三匹ほど食べ、残った二匹を袋に入れ、ペットボトルはポケットにねじ込んだ。休憩もいれ、満腹になった一はまた歩き始めた。
二時間ほど歩いただろうか、体調は悪化をたどる一方だった。息が荒くなり、足取りも怪しくなってくる。朦朧としながらも歩いていると、悲鳴が聞こえた。ここからそう遠くない場所で。
三日ぶりに聞く人の声に喜びを隠し切れない一はその場所に向かって走り出す。朦朧とした意識ではその声が悲鳴だったということを考えるにいたらなかった。
‐side とある母親-
熱がある娘に食べさせるために、果実を取りに森の浅いところまで来たある母親がいた。そのついでに、熱を下げる効能のある薬草を摘んでいたときのことだった。この森の浅いところなら、魔物はおろか、ゴブリンすら出ることはなかった。…はずだった。
前の茂みからガサガサと音をだしながら出てきたのは、ゴブリンではなく、もっと絶望に近い魔物であった。
マンティス…巨大な鎌を武器に襲ってくるカマキリの様な生物である。それなりに硬い皮膚を持つ、肉食の魔物。ただのカマキリなら怖くはないが、その大きさは人間大であった。キチキチと声のような音をあげながら、じりじりと母親ににじり寄ってくる。ゴブリンなら背を向けて走れば逃げれたかもしれない。しかし、大きさの割に意外と機敏なマンティスに背を向ければ背中から切られる。先ほどあげた悲鳴を村の人が聞きつけ、助けに来てくれることを祈るしかないのだが、浅い森とはいえ村までの距離はある。その可能性は少ないだろう。
恐怖のあまり、抜けそうになる腰をなんとか奮い立たせ、ゆっくりとマンティスに視線を置きながら後退する。そこで気がついた。マンティスは手負いだったのだ。頭に二つついている触角は折れ、自慢の鎌は片腕しかなかった。どこかで冒険者にやられたのか、仲間内でなにかあったのか、いずれにせよ向こうも弱っていることは確かだった。
しかし、それが判ったところで、母親にはどうすることもできなかった。後ろを見ずに後退していたせいか、トンっと木にぶつかってしまう。マンティスとの距離はだんだん無くなって来る。とうとうあと一歩という距離まで追い詰められ、その片腕の鎌を振り上げた瞬間、マンティスの身体が大きくぶれて吹っ飛んでいった。入れ替わるように、見たことのない服装の男が満身創痍で倒れかけていた。
-side out-
悲鳴を聞いて、人の声だと喜び勇んで駆けつけてみると、巨大なモンスターがいた。後姿で確証はないが、人間の大きさもあるカマキリだった。そこでようやく悲鳴だったなと思い立ち、その先の女性を見る。
人だ。ただ、外国人なのか金髪の髪が見えた。え?ここ外国?と考えているうちにその女性は木を背にし追い詰められていた。まずいと思ったときには一は駆け出していた。
何も考えずにマンティスに体当たりをする。体力がギリギリの一は同時に倒れこむが、アドレナリンが出まくっているせいか、痛みは感じなかった。目ががすみ、景色がぶれて見えるが、マンティスは数メートル先で警戒するようにこちらを見ていた。
隻腕のマンティスがギチギチと声のような音を出しつつもこちらににじり寄ってくる。一はポケットにしまってあったカッターを取り出し、刃を全開にする。
小さく深呼吸をし、改めてマンティスを見る。一瞬はっきりと姿をとらえ、狙いを首の一点に絞る。一番細かったからだ。
腕のないほうから回り込み、後ろから切り付けようと一は先制攻撃を仕掛ける。しかし、マンティスもそれを読んでいたのか顎で牽制しつつ鎌を振り回す。マンティスもギリギリだったのか、その動きは本来の動きではなかったが、能力平凡を絵にかいたような一はその一撃を肩に受ける。しかし、奇しくもゴブリンに刺された箇所に近い場所であったため痛みはひどかったものの意識が朦朧としている一は顔をしかめただけでカッターを思い切り振る。
その刃はほぼ抵抗なくマンティスの首に吸い込まれ、その首を落とす。
首が落ちた体からは体液が噴き出し、しばらくの後、ゆっくりと倒れる。
倒れたマンティスを見て、それからカッターを見て、最後に驚く女性を見て、一は意識を失った。
誤字脱字があれば教えてください