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伊豆に行きたい

作者: でんでろ3

「伊豆に行きたい」


 妻が唐突に言い出した。年の瀬も押し迫り、子供たちは冬休みに入ってしまっているというのに、年内に行きたいという。算段がある訳でも、具体的な案がある訳でもなかった。でも、行きたかったのだろう。


 夫婦共働き。妻は、いつも忙しくしている。好きで忙しいわけじゃない。でも、忙しいのは、まぎれもなく本当で、そして、日常は、あまりにも、当たり前に存在していて、誰だって、小さな幸せを大切にしたいけど、その前に、生活しなきゃならない。


 実は、妻の母の様子が少しずつおかしくなり、その頃には、あまり笑って済ませられない出来事も、日々起きていた。それを機に同居が始まった。威厳にも似た確かさを持っていた母が、幼子のように駄々をこねる。妻には、つらかったろうと思う。この日常が、そんなにいつまでも長くは続かないことは、家族の誰もが感じていた。


 ほっといたら流れるな、と思った。動かなきゃ、と思った。スマホにかじりついて検索した。船を改造した露天風呂のある民宿。その日、水揚げされた海の幸を、漁船一隻丸ごと買い上げて食べさせてくれると言う。他に、周りには観光スポットなど、何一つない宿だったが、そこが良いと思った。おいしいものを食べて、ゆっくり温泉につかろう。一人で決めて、勝手に宿を予約した。

 次に、切符を手配した。出発の朝は、早過ぎず、慌てないように。帰りも早くしたかったが、一泊二日で旅行を楽しむには、多少遅くなるのは仕方なかった。きっと、皆、疲れて寝てしまうだろう。

 家族に話したのは、すべて押さえてからだった。出発まで五日もなかった。


 二日目の行動は、皆で話し合うつもりだったが、結局、私が決めた。小さなクルーザーで、沿岸を遊覧し、島々を眺め、最後には、船ごと洞窟に入る。その洞窟の中には、ぽっかりと天井に大きな穴が開いていると言う。


 気になったのは、すべてが、あまりにもお天気頼みの旅であることだった。しかし、そこは、文字通り運を天に任せることにした。


 楽しい旅だった。完全にお天気頼みの計画だったのに、2日とも天候に恵まれた。ギュウギュウ詰めじゃなくて、時間をゆったり使ったのんびりした旅だった。新鮮な海の幸を「これでもかっ!」というくらい食べて、ゆっくり温泉につかって、海原をクルーズした。やりたかったことは、すべてできた。

 漁は豊漁だったらしく、観たこともないような巨大な船盛に母は目を丸くしていた。食の細くなっていた母だったが、信じられないほどの量を、おいしいと言って食べてくれた。

 温泉も喜んでくれた。湯船と言う言葉があるが、本当に船が露天風呂になっている。特に、眺めがいいわけではなかったが、月が美しかった。

 実は、出発前、母は船に乗ることを渋っていた。寒いとか揺れるとか言っていたのだが、妻が説得したのか、デッキにこそ出てこなかったものの、船室の窓から楽しんでくれた。


 そして、5月。その母が倒れ、入院した。もう一緒にどこかに出かけることは二度とできない。それどころか、意思の疎通さえできないだろうと、医師に宣告された。それを聞くと妻は、あの日に、その前の日に、さらにその前の日にこうしていれば、と一つ一つ思い返しては悔やんでいた。


 でも、落ち着きを取り戻した妻が、伊豆旅行を思い出して、「行けて良かったね」と言ってくれたのが、なにより嬉しかった。


 しかし、夏が過ぎるころ、奇跡は起きた。なんと、母が、ごく簡単な会話ならできるようになったのだ。

 妻は喜んだ。二度と叶わぬと思っていた会話を楽しんでいる。その中に、伊豆の思い出話もあると嬉しいのだが……。

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