見たいもの
見舞いに行くと、彼女はいつでも目を赤く腫らしていた。
病院の三階にある病室を、俺は学校用のカバンと見舞い用の本が入った紙袋を手に提げて訪れていた。
彼女は扉の開く音を聞いて、窓の外を見ていた目をこちらに向け、
「あ、来てくれた。ありがとう」
赤く腫らした目を細め、笑顔を作った。
そんな彼女に、俺は持ってきた紙袋を差し出して、
「ああ……これ、頼まれてたやつ。確認して」
「あ、ありがとう。ごめんね、わざわざ」
「……別に」
紙袋を彼女に渡し、ベッドの横の壁に立てかけてあるパイプ椅子を広げて、それに座って、持っていたカバンを横に置いた。。
彼女は紙袋を開けて、中から俺がここに来る途中で買った本を取り出して眺めている。
「うん、これこれ。続きが気になってたんだよね。うん、ありがとう」
「いいよ、べつに。またなんか欲しいのあったら言って」
「うんうん。優しいね、君は。惚れちゃいそ」
そう言ってから、窓の外を見た。外では桜が咲いていて、この部屋からだと、病院の裏に咲いているのを見下ろす形で眺めることができる。
彼女は毎日あの桜を見ている。それはまるで、宇宙を夢見る子供のような、そんな、届かないけれど欲しいというものを見るような、そんな目で。
彼女は生まれた時から足が不自由で、ずっとこの病室で過ごしてきた。ほとんど歩けなくて、車椅子じゃないと移動ができないぐらいだ。学校で受けるはずの授業も、病室で家庭教師のような人に教えてもらっていた。
そんな彼女を、俺は家が近所だからという理由から、たびたびこの病室に見舞いに来ていた。でも、自分は多分、家が近所だからなんて理由では来ていないのだと、そう思うようになってきていた。
俺も窓の外を見て、桜を見ようとしたけど、ここからでは角度が悪く、桜は見えなかった。
こんな感じなのだろう。歩けない彼女は見ることが出来るけど、歩ける俺からは見ることができない。見る角度が違うのだ。同じものを見ているようでも、見る角度が違えば、想うことは違ってくるものだ。簡単に事実を言ってしまえば、障害者と健常者だ。できる人には見れなくて、できない人には見れるものがあるということだ。
少しの間だけ無言が続き、何を話そうかと頭の中で試行錯誤という嵐を巻き起こしていたら、彼女の方が先に口を開いた。
「学校、どう? なにか変わったこととかあった?」
母親のような口調でそう言った。
「あー……えっと、まあ、特にはなにも。…………そういえば、学校も桜が咲いてたな……」
言ってから、しまったと思った。あんなに桜を間近で見たそうに眺めていたのに、そこにさらに桜の話題を出してどうするんだ。
心の中でどう話題を反らそうかと悩んでいたら、
「へえ。やっぱり咲いてるのかあ。いいねえ、桜のある学校。テレビで見てて、なんかワクワクするんだよ」
やっぱり失敗だった。彼女はなんでもなさそうにしている。けど、テレビで見て、ワクワクしているってことは、学校に行きたいってことじゃないか。
「…………じゃ、帰るよ」
そう言って立ち上がる。
「え、もう? まだ全然話してないんだけどな…………」
残念そうな彼女に、心の中で悪いと謝りながら、カバンを手に取る。
「…………えっと、それじゃあ」
「え、あ、うん。またね」
笑顔で手を振る彼女に手を小さく振り返し、病室を出た。
帰りながら、いつもと同じように考える。
どうやったら、彼女のあの腫らした目を、もう見ずに済むのだろうか、と。
家に帰って、夕飯を食べ、風呂に入って、自分の部屋で課題をやりながら、彼女のことを考える。ノートの上を微かな音をたてながら走っていたペンを止め、目をつむる。
「……………………」
なんとなく、やりたいことは分かっているのだけれど、うまくまとまらない。レゴブロックでなにか目的のものを作ろうとしているけれど、それに合った形が見つからず、あるいはうまくはめ込めなくて、最後には作ろうとしているものを見失ってしまう。そんな感じだ。
大きくため息を吐いてから、椅子から立ち上がり、ベッドに背中から倒れ込む。両腕をひろげて、天井にある電灯の光を全身で浴びる。
「…………………………なにがしたいか、じゃなくて、なにを望まれているか、だよな…………」
そんなこと、分からない。他人の気持ちなんてわかるわけがない。気持ちっていうのは、自分達が思っている以上に複雑で、いくつもの糸が絡み合ってできているのだ。それをほどくには、途方もない努力と、時間が必要だ。
そんなことを、俺ができるはずがない。
だったら、なにができるというのだ、なにが。
こういうのは、実行してしまえば簡単で、そこまで行き着くのが一番難しいのだ。
彼女はなにを望んでいる。それは俺にできることなのか。
考えろ。
「…………………………あ、そうか」
なんだ、簡単じゃないか。
翌日、平日にも関わらず、病院に足を運んだ。実行するならなるべく早くがいいと思ったからだ。
病院の受付で車椅子を借りて、エレベーターで彼女の病室へと向かう。エレベーターの中にある鏡に、誰ものっていない車椅子に手をのせている自分が映っていて、少し笑う。
なにをやっているんだろうな。別に自分がなにをしようとしているかを忘れたわけじゃない。ただ、学校をサボってこんなことをしている自分が、現実的じゃないなと思った。
でも、正しいことをやっているとは思わないけれど、良いことはしているなとは思った。
エレベーターを降りて、彼女の病室に着いた。入る前に一度深呼吸をして、扉を開けた。開けてから、ノックを忘れたと一瞬足を止めかけたが、えぇいとそのまま足を押し進めた。
ベッドを見ると、彼女はいつもの背を伸ばして座った姿勢ではなく、布団を首までかけて寝ていた。
彼女はドアの音に気付いてこっちを見て、驚いたように目を見開いた。
「あれ? どうしたの?」
「んしょ」と腕で体を起こし、いつもの姿勢になってから、こちらに顔を向けた。相変わらず、目は赤く腫れていた。
「ええっと……学校は休みってわけじゃないよね。サボり?」
そんな彼女に構わず、話をする。
「桜、見たい?」
「え、桜? ええっと、まあ、見たいけど、なんで?」
だったらよかった。ここで見たくないとか言われたら、学校をサボってここに来た意味がない。
「よし。じゃあ、これに乗って」
「え……、え?」
困惑している彼女に、車椅子の背もたれをパンパンと叩いて座るのを促す。
……………………あ、ここじゃベッドから遠くて座れないのか。と気づいたので、車椅子を押し、ベッドに横付けする。
「………………えっと…………じゃあ、お願いします、?」
体を回して、こっちを向いた彼女は、車椅子に座ろうとするのだが、車椅子の肘を置くところに体が当たり、うまく座れないようだ。
「………………」
「………………」
これではことが進まないので、彼女を抱っこする。
………………なにげに初のお姫様抱っこだった。
彼女を座らせると、
「…………ありがと」
少し照れたようだった。そんな口調で言われると、こっちも照れる。頬が熱くなり、紅潮したのが自分でもわかる。
病室を出て、エレベーターで一階まで降りた。受付で外出のときに必要な用紙に必要事項を記入し、外に出る。
「ところで、どこにいくの?」
病院を出たところで、彼女にそう聞かれた。
「すぐそこ」
と、それだけ言って車椅子を押す。
別にもったいぶってるわけじゃない。そんなに大したものじゃないし。でも、行き先を言ってしまうのは、なんとなくつまらないと思っただけだ。
病院の裏に回る。そこには小さな噴水や滑り台などの遊具がある広場と共に、
「わあ…………綺麗」
そこには桜があった。満開には少し届かないけれど、薄いピンク色が広場の周囲を彩っていた。弱く吹く風が散らせていく花びらは、水の流れを彷彿とさせた。
桜の木の真下まできて、上を見上げる。そこには桜の花と枝が幾重にも重なり、先にある空の青色は見えなく、しかし太陽の光が花と枝の隙間を縫うようにして差し込み、足元の影の中を揺らめいている。
「でも、なんで急に?」
と、彼女が後ろにいるこちらの顔を、見上げるようにしてそう言った。
「いつも窓から見てたから。一度、見せてあげたかった」
「へぇー。君は本当に優しいね。惚れたかも」
と、おどけた調子で言う。
頭を戻した彼女に、
「次は、何が見たい?」
「え?」
「次だよ。行きたい場所とか、したいことでもいい。ほら、言ってみ」
「うん…………ええっと、それじゃあ、海とか?」
それは、依然彼女が言っていたことで、
「他には?」
「山もいいなぁ。紅葉とか、見てみたいかも」
「あとは?」
「あとは…………あ、スカイツリー。本物みたいなぁ。あと、京都行きたい。着物も着てみたいし、お寺も見たい」
病室に行って、話をしていると、自然と彼女の口からこぼれ出ていた。
「それから、新幹線乗ってみたい。飛行機と、船も」
それを聞くたび、何度もそうさせてあげたいと思った。
「沖縄、とか……行って、みたいし…………海外だって……」
彼女の声がかすれていって、それに気づいたときには、彼女は涙を流していた。
「学校……も、……い、行って……友達作って……そ、れで……」
「…………」
「…………あ、足…………歩けたら、なぁ……」
「行けるさ」
言おうと思った。言わなきゃと、言葉を心の底から何かが押し上げる。それがなんなのかはわからないけれど、言葉は確かに、口から外へと吐き出せていた。
「…………え、?」
「行けるよ。歩けなくたって、行ける。歩ける人にしかいけないところなんてない。歩けない人だって、同じところまで行くことができるんだ」
「で、でも……」
「大丈夫。俺が連れて行く。だから安心して、行きたい場所を教えてくれ」
「でも、行けない場所だって……」
「無い。なぜなら世界は甘いからだ。全く歩けなくたって、それはイコールでどこにも行けないなんてことにはならない。だから、大丈夫」
「でも、お金無いし……」
「稼いでやる。いくらでもだ。やろうと思えばできる。だから、大丈夫」
「でも、君が……行きたくない場所だって」
「俺が行きたい場所は、お前が行きたいと望む場所だ。俺はお前と一緒に居たい。だから、お前の行き先が俺の行き先だ」
車椅子から手を放し、前へ回って、彼女の正面にくる。彼女の目線に合わせるよう、しゃがんで、
「お前がその目を、もう腫らすことがないように、なんだって見せてやる。どこへだって連れてってやる。だからもう、歩けないことを、悲しまなくていい」
彼女は頬を伝う涙をそのままに、俺の肩に額を当てた。
「…………ぅあ……あ、…………うん…………!」
風が強くなり、地面に散った花びらが、もう一度宙へと舞い上がる。
そんな風を肌に感じながら、俺は彼女の頭を、そっと撫でた。
いやあ、春ですねー。この小説、五月の始めに書き終わって、読み返すと、桜がね、出てきてるんですよ、うん。春だなー。え、桜はもう遅い? もう咲いてない? まっさかー。だってそこの近所に咲いてる桜だってまだ…………あれ?