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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

お歯黒

作者: ラカニト




 ああ……やっちまった……。


 男は胸の前で腕を組み、自らの体を抱くように背中を丸めている。そうして浮かぬ顔をしながらとぼとぼ歩いていた。

 腰には大刀一本のみが、ぶらぶらと揺れている。その腰捌きを見れば、刀を挿し馴れた人物だと分かる。されど月代は伸び放題であった。


『宜しいですね? きっとそうお答えなさるのです』


 最後にそう念を押したときの女の目力。その決心の固さに気圧されたままであった。

 あの目つきの鋭さに射竦められてしまうのだ。あれは魔性の類いと違わぬ。意のままに操られてしまう。

 男は背筋が寒くなるような記憶に、ぶるっとひとつ身震いした。




 約束の小料理屋に現れた繋ぎの小者は、男の予想通り呆れた表情をして声を上げる。


「しくじっちまったんですかい、旦那」


「相済まぬ。然れどちょこまかとすばしこい女でのう。立ち木を盾に逃げられてしもうた」


 男は女に言われた通りの申し開きを続ける。


「なれど次は仕留める。女の動きは承知した故、次はしくじらぬ」


「次っつったって……」


 明らかに困り顔の小者に対し、畳み掛けるように続ける。


「必ず上手く行く。御殿様へ女が何も訴えぬのなら、ひと月くらいは用心して動かぬだろう。然れど我々が何もせず、ひと月くらい何も起こらねば、安心して気も緩む。然すれば再び遠出することは請け合う」


「ほんとですかい? まあ、旦那に働いて貰わねえと、こっちも商売上がったりだが……」


 渋い表情を見せる小者に対し、駄目押しに手を合わせながら頭を下げる。


「済まぬ。必ず首尾よく仕留める。もう一度だけ機会を頂きたい」


「……分かりました。旦那のおっしゃる通りしてみましょう。後金は懐剣と引き換えですよ? 次の繋ぎを待ってておくんなせえ」


 小者は恩着せがましく上から睨みつけると、酒代を置いて店を出て行った。

 呆れたことに、女の見通し通りに事は運んだ。女に言われた通りの素振りで、女に言われた通りのことを伝えただけなのだ。

 やはりあの女は魔性の類いなのだ。男は猪口に残った酒を空けると、嘗め物を口へと運んだ。




 男が仕事を請けたのは暮らして行く為だ。ねぐらは荒れ寺の庫裏である。着の身着のまま、お宝なんぞ何も持たぬ。

 男のような半端者の浪人が食べ物に有り付くには、多少の汚いことは覚悟の上であった。


 繋ぎの小者の指定した刻限に、いかにも武家の奥方様という態の女が現れる。難無く当て身を喰らわせ、猿轡を噛ませ後ろ手に縛り上げた。

 女の手荷物と懐剣を奪い、気を失なった女を肩に担ぐと、道を逸れて林の中をひた走る。抜けた処へ荷車と筵を隠しておいた。

 此処は便利な処で、林をひとつ抜けると別な街道が通じている。拐かすには打って付けの場所なのだ。神隠しの出来上がりである。


 人気の無い荒れ畑の脇に建つ納屋へと運び込んだとき、女は既に目を覚ましていた。されど暴れもしなければ叫ぼうともせぬ。

 随分と肝の据わった女だと思いつつ、女の体を藁の山へともたせ掛ける。そうしておいて、手荷物や懐剣を見えない処に隠した。


 女はじっとしたまま男を見上げる。睨みつけると言うよりも、真っすぐに見つめているようだ。その目力は尋常のものに非ず。

 男は一瞬、背筋がぞくぞくとした。




 刀を立て掛け、袴も袷も脱ぎ捨てる。女の前にしゃがみ込むと衿を抜き、肩から一気に引き摺り下ろす。二つの胸乳がまろび出た。

 自分が何をされるか分かったであろうに、女は全く動じぬ。静かに男を見つめている。女の裾を二つに割り、無理やり捲り上げてやった。

 それでも身じろぎひとつせぬのだ。女の膝頭を掴むと、左右へ大きく押し拡げる。女はされるがままに股を開いた。

 男はかっと頭に血が上った。まるで小馬鹿にされているようなものだ。これが武家の女の心構えだとでも言うのか?



 事が終わろうと、女は少しも面持ちを変えてはおらぬ。間近で見る女の顔は、ある種の冷たさと美しさを具えていた。


「口許を楽になさりたいか?」


 女は静かに頷く。


「騒がぬな?」


 やはり一度頷く。


「口吸いなんぞ、するやも知れぬぞ?」


 女の目許に笑みが浮かぶ。それから素早く二度ほど頷いて見せた。この女の肝の太さは並大抵のものに非ず。

 男は猿轡を外してやる。女はふうふうと何度か荒い息をした後、静かに口許を引き結んだ。


「全く見上げた奥方様よ」


「さらに腕の縛めも解いて頂けると、よりおとなしうなりまする。それから帯と着物も汚したくはございませぬ」


 女は静かにそう申し出ると、男の目を探るように、じっと見つめた。




 女を立たせ、藁屑を払ってやる。腕の縛めを解いてやると、しばらく手を動かしてから帯留めを解き始めた。男は藁を敷き詰めた上に女の帯を載せ、手渡して寄越した着物や長襦袢を畳んで横へ置く。

 女は肌襦袢と腰巻きの裾を絡げて尻を出すと、元の場所へと座り込む。肌襦袢を肩から落とし、腕を袖から引き抜くと、藁の山へと寄り掛かる。

 そうして自ら股を拡げてみせる。女がにっと笑い顔を作ったとき、お歯黒をした口許がやけに目立って見えた。


 男は以前一度だけ、お歯黒をした女と交わった事がある。神楽舞いの一団の女であった。舞いを名目に諸国を渡り歩き、春をひさいで稼ぐのだと言う。

 その時の女と似た雰囲気を醸し出している。どこか現実味に欠けているのだ。化け物に取り憑かれたような心地であった。


 女は人が変わったように積極的に振る舞う。男の口を吸い、声は出さぬが表情や手の動きで翻弄する。とても武家の妻女とは思えぬ。どちらが真の女なのか、終ぞ判らなんだ。


「わたくしの御味方になって下さりますね?」


 頭を抱かれ耳許でそう囁かれたとき、男はしまったと思うたが遅かった。

 女の腕に抱かれたまま、洗いざらい喋らされた。おおかた用人殿あたりの差し金だろうと、付け加えるのも忘れない。

 女は真剣な面持ちにて何事かを考えていた。そして再び落ち着いた声で囁く。


「どうかわたくしの指図する通りにお振る舞い下さりませ」


 かような経緯で、繋ぎの小者に次の襲撃を計画させる為の芝居を指示されたのである。




 男は浮かぬ顔つきで茶屋の暖簾をくぐる。かような店に入ったことはなくとも、女に聞いた名前を告げると離れの間へと通された。

 燗酒と軽い料理が運ばれ、後は女が来るのをひとり待つのみ。互いの首尾を報告し合う約束であった。


 女に渡された金子で着物は新調したが、どうにも釈然とせぬ心持ちである。何を考えているのか、さっぱり分からぬのだ。

 男が渋い表情をしていると、にこにこと微笑みながら女が入って来た。


「お待たせいたして申し訳ございませぬ」


 女は居住まいを正すと手をついて頭を下げる。その身のこなしは滑らかで、芸者か何かと間違えそうな程打ち解けていた。

 本格的な料理と酒が運ばれる。そうして離れの間は二人切りとなった。


 女はよく笑い、男の報告にいちいち頷いてみせる。あたかも芝居見物の帰りのようなはしゃぎようである。男は思い切って問うてみた。


「斯様に馳走になる謂れはないと存じ上げる」


「これは報酬の前金のようなものにございます」


 女は如何にも尤もらしいことを言いつつも、袖口で口許を押さえ笑いを堪えている。


「前金ならば先日頂戴いたしておる所存」


「おや、お前さまはあのような作法の契りをお好みか? ホホホホ」


 とうとう話を混ぜ返した上に、口許を隠して笑い始めた。




 男は嬲られている心地に気がくさくさとしてしまう。ついつい言葉は厳しくなる。


「公方様の御旗本の奥方様ともあろうお方の、お言葉とは思われませぬ」


 女は笑みは崩さず膳の横に居住まいを正すと、三つ指をついて頭を低くしながら口を開く。


「奥方様などとつれないお言葉。これよりしばらくは、お前さまがわたくしの御殿様にございまする。お前と呼び捨てて下さりませ」


 そう述べるとたおやかにひれ伏す。その変わり身の早さに、男はただただ唖然とするばかりである。


「おぬしの考えることは、よう分からぬわ」


 男はとうとう煙に巻かれてしまう。ふて腐れたように手酌で酒を呷る。

 頭を僅かに上げて様子を窺った女は、袖口で口許を隠して声もなく笑った。


 次の襲撃に備えた段取りも決まり、女はその期日さえ予告してみせた。男はただ女の言うがままに動くだけであった。

 年増には違わぬが、未だ二廻り程の歳であろう。やはりこの女は魔性の類いと違わぬ。意のままに操られてしまうのはその証。

 それでいて先日とは打って変わり、冷たさの欠けらも見せぬのだ。男に甘えるような素振りさえ見せる。

 つくづく女人は魔性の者と思い知る。


 全ての手筈を決めてしまうと、女は静かに立ち上がり、帯を解き始めた。肌襦袢ひとつの姿に成ると、次の間とを隔てる襖を開く。そこには既に夜具が調えられていた。

 女は肌襦袢と腰巻きの裾を絡げると、男を誘うように科をつくる。


「さあ、お前さまのお好みの作法により、わたくしを手籠めになさいまし」


 そう言葉を掛けた後、にっと笑い顔を作りお歯黒を見せた。

 男は女の魔性に、ため息を吐くばかりであった。




 男は旅仕度で東海道を品川宿へと向かう。如何に足が遅かろうとも、早立ちの品川宿なら臍で茶を沸かす足慣らしに過ぎぬ。

 繋ぎの小者が持参した期日は、果たして女が予告した日であった。後は予て女と取り決めの、段取り通りに動くばかりである。


『旦那のおっしゃる通りで。驚きました。奥方様は何やら厳しいお顔をなさってたらしく、かなり効き目はあったようで。しばらくは御乗物で御実家と行き来なさるくらいのもんでした。御殿様も大層お悦びです』


 小者の話を反芻する。御実家を巻き込むのも厭わず、形振り構わず御殿様への意趣返しをしようと言うのだから、そこいらの香具師や中間に見抜けるとも思われぬ。まっこと厄介なお方であった。


『それが今じゃ、にこにこ嬉しそうに笑ってらっしゃる。とうとう御乗物を使わず出歩かれるようになりましたよ。旦那、今度はがつんと奥方様の鼻っ柱をへし折ってやって下さいまし。御殿様も手加減無用とおっしゃいました』


 手加減の必要なのはどちらなのか? あの魔性めがにこにこ微笑むその心は。考えただけで寒気立つ。

 男は要らぬ穿鑿を振り落とすように、足早に品川宿を目指した。


 品川宿では真っ先に髪結い床へと入り、前を剃って供侍らしく髷を結い直す。月代を剃り落とすのは久方振りのことであった。

 朝餉代わりに蕎麦を掻き込み、女が合流するのを待つ。

 町駕籠を下りた女は、手に大きな包みを抱えている。酒手を渡して振り向いたその目は、何やら男の身なりを品定めしていた。


「御召し物はもう少し良い物をお選びいたします」




 それからが慌ただしい。古着屋で男の装束を見繕うと、料理屋に部屋をとり、早めの昼餉を済ます。そして旅仕度へと衣装替え。

 女は刀袋から脇差しを取り出すと、神妙な面持ちで男へと差し出す。


「わたくしの実家より、御礼の品でございます」


 今さら引き返すわけにも行かず、男は無言で脇差しを受け取る。

 女はさらに銭の詰まった財布を男の手に握らせる。


「駕籠かきの酒手は、けちらずはずんでやって下さいまし。先を急ぎます故」


 何から何まで気の廻る女であった。


 脱いだ衣装は袈裟掛けの包みに背負う。女は笠と杖を購い、再び駕籠の上の人となる。

 戸塚宿までは無理でも、できる限り先へと進む腹積もりであった。むろん男は小走りでそれに従う。

 縁切寺までのお供なら、男にとれば短い旅に過ぎないのだ。


 初日は神奈川宿まで足を延ばした。これなら明日には悠々と寺入りできる。男は内心ほっとしていた。


「それがしは明日でお役御免というわけですな」


「は? 何故そう思われます?」


 女は不思議そうに問い返す。


「縁切寺は戸塚宿の辺り、鎌倉にあると聞き及んでおります故」


 女の振る舞いに悪い兆しを覚えつつ、男は正直に答えた。


「ホホホホ……わたくしは縁切寺には参りませぬ」


 女は袖口で口許を隠して高笑いすると、男が唖然とする言葉を吐き出す。


「然れど……御殿様との離縁を決められたのでは? それ故の意趣返しではなかったのか?」


「確かに離縁いたします。なれど実家へと戻るのなら、もう少したやすく成就いたします」


 女の目には、再びあの目力が宿っている。その目で男を真っすぐに見据えていた。


「わたくしは貴いものを見つけました。それを是が非でも、わたくしのものにする所存。目指すは箱根の関にございます」




 男は呆然としていた。今度ばかりは洒落や酔狂では済まぬ。関所破りは磔獄門の重罪である。一気に血の気が引いていた。


「然れどそなたはおなご。箱根の関は、たやすく抜けられるものではない」


 声が引き攣っているのは自分でも分かっている。なれどこの女は情を通じたおなご。無下に見捨てるわけには行かぬ。


「ご案じ召されるな。手形ならばございます故」


 女は優しく微笑むと、手荷物の内より証文を取り出して見せる。


「こちらがわたくしの。こちらはお前さまの物にございます」


 女が取り出した証文を受け取ると、中身を改める。確かに御役目の者が筆を執った、正式な通行手形であった。

 男は安堵して、ほっと息を吐き出してしまう。


「わたくしにも御味方はおります。ご安心召されよ」


 女は楽しそうに微笑む。


「なれど嬉しゅうございました。お前さまがわたくしの身を一心に案じて下さり」


 そう言うなり、男の胸に飛び込むような勢いで、首筋へとしがみつく。女の柔らかい頬の肉が、男の頬へと擦りつけられる。

 男は何も言わず、女の身を抱きしめてやった。安堵することがあったときくらい、素直に喜びを分かち合うのも悪いものではない。


 女の御実家というのは、かなりの大身ということになる。公文書を都合で発行させるなど、たやすいことではなかった。鼻薬では済まぬこともある。口利きを要することもあるのだ。

 御実家から下げ渡された脇差しの、重みと価値を今さらながら痛感する。武士の魂たる脇差しを受け取り、腰に挿したからには、この女の安らかなるを見守る務めがあるのだ。

 男は女の身から立ち上る甘い匂いを、いつしか心地よく覚えていた。




 翌日は藤沢宿で宿をとり、その次は小田原宿で宿をとった。幸い川止めも無く、此処までは万事順調と言えよう。

 明日はついに箱根の関へと乗り込むのだ。早立ちで駕籠の手配りも済ませてある。朝になるのが待ち遠しいやら恐ろしいやら。


 万にひとつも通されぬと言われたなら、如何にして女の身柄を救い出すか。男は高ぶる心持ちを堪えつつ、久方振りに二人ひとつの夜具に収まっていた。

 女は男の腕枕には飽き足らず、胸にぴたりと縋り付く。男も女の体をしっかと抱きしめる。


「お前さま。賭け事をいたしましょうぞ」


 女は小声で囁く。


「何とする」


「明日、三島の宿まで辿り着けばわたくしの勝ち」


 女の小声には笑みが含まれていた。


「お前が勝った暁には何を所望か」


「お前さまは、わたくしの婿殿になりまする」


 男はつい笑ってしまう。魔性の望みとしては微笑ましい。さらには離縁の儀が拗れたならば、望みは萎み潰えてしまうのだ。


「ならばひとつ譲れぬ儀あり」


「何でございましょう?」


 女は不安そうな声にて問う。


「たとえ婿に入ろうとも、それがしは気の向くままにお前を手籠めにしようぞ」


「あれ、嬉しや。わたくしはお前さまの左様に拗ねたる処をお慕い申しておりまする。いつなりとお腰の裾を捲りましょうぞ。ホホホホ」


「お前のほうが、よほど拗ね者ではないか」


 二人はひとつ夜具の内にて笑い合った。




 そうして翌日の夜遅く。此処は三島の旅籠の部屋。女は洗い髪を乱し、しどけない姿にて男に組み敷かれていた。

 噂に聞こえし箱根の関は確かに堅牢であった。されど女の御実家の手配りもまた、大身の身に恥じぬものであったのだ。僅かに刻を費やしたに過ぎない。


「お前さまは、わたくしを好いてくれなさるか?」


 女の声音は珍しく殊勝であった。


「この期に及んで詰まらぬことを申すでない」


「なれどわたくしの支えはとれませぬ」


 女は拗ねた声音を作りながら、男の首筋へと腕を廻す。


「それがしは賭け事に敗れたのだ。是非もなし」


 男はわざと的外れな答えを返す。


「ああ! まこと意地の悪いお答え。わたくしはお前さまに全てを捧げようというのに」


 女は明らかに嘆かわしげな声音を作る。


「わたくしが足手纏いなら、そこいらの女郎屋にでも売り飛ばして下さいまし」


 そう嘆きつつも、男の首筋へと廻した腕はしっかと放さぬ。


「お前は考え違いをしておる。それがしのほうが、お前に魅入られたのだ。端からお前の勝ちであったのだ。今さら、どうして尻を捲ることなど出来ようぞ」


「あれ、嬉しや。これで胸の支えが取れましてございまする」


 女は嬉しげにそう言うと、お歯黒を見せてにっと笑った。

 魔性の者に魅入られたなら、何が起ころうと文句は言えぬ。男はやれやれと心の内にて嘆きつつ、女の口を己が口で塞いでやった。




 さて、この二人がその後どうなったかと申しますと――。


 急ぐ旅でもなくなった二人は、お伊勢様へとお参りするなどしながら、都の側の小藩におる女の親戚筋の家を目指します。

 何故急ぐ必要はないのか?

 女が手の内を明かした処によりますと、女の出立に合わせ、御実家のほうに動きがございます。やんわりと御殿様を締め上げ、無体な事をなさる責をお問いになる。

 さすれば離縁の儀は致し方ないとして、その責は御殿様にもあること承服させる。僅かの迷惑料を下されることと引き換えに、去り状を書かせる算段になっておるとのこと。

 やはり大身と小身では、余程の気骨でもなくば争い抜くこと能わず、という世の習いにございます。


 御実家の御親戚の家に着きますと、既に次の手配りは調っておりました。

 女は御親戚の家の養女となる備えを始めます。一方、男は同じ御家中の別の家に継嗣として養子縁組をいたしました。男は晴れて主君を持つ身分となったのでございます。

 江戸表より離縁成立の報せを待ち、先ずは女の養子縁組の儀を進めます。そして全てが調うと、男は女の夫として婿入りするという段取りにございました。


 見事大願を成就させた女は、絵姿を残したい御家中の奥方様五人に選ばれる程の輝きようにございます。

 そのたおやかな身のこなしは、御家中の話題を攫うのに不足はございません。

 さらに男の妻となると、直ぐさま玉のような男の赤子をお産みになりました。これには養い親も手放しの喜びようにございます。

 家の跡継ぎをしっかと作り、夫によく仕え夫婦円満、余人の羨む幸せを手にしたのでございます。




 さて、男のほうはと申しますと――。


 この男、さしたる取り柄もなく、昼行灯とまでは申しませんが、可もなく不可もなくという案配にございました。

 口さがない者どもは、何故天女が如き女を娶ることとなったのか、神仏の気の迷いに相違なしと申して陰口をたたいておりました。 されどこの男、一向に気にも留めずして安穏とした日々を送っております。養い親や婚家とのいざこざも無く、よき養子、よき婿殿にございました。


 男が再び江戸入りしたのは、ただの一度にございます。藩命にて江戸表へと向かいました。この機に妻の御実家を初めて訪ねたのでございます。

 岳父となる妻の御父上様は健在でございました。男はたいへん歓迎されます。よくぞ娘を真人間へと直してくれたと、手をついて頭をお下げになりました。


 御父上様のお言葉によりますと、女は幼き頃よりお転婆も度を越した有様にて、之れを嘆かれること甚だしき日々にございました。

 いっそ男子に生まれておれば、まだ身の立つ道もあったろうに、という有様にございます。

 何より厄介なのは、武家の作法に馴染もうとしないことにございました。礼を失するくらいならばよし。場合によっては御家の一大事とも成り兼ねぬのでございます。


 いつまでも縁付かず手元に置いておくわけにも行かず、御父上様は無理は承知の上にて、後ろ盾目当ての小身旗本へと嫁がせたのでございます。

 そうして表向き女の素行は改まったものの、とんでもない拗ね者となってしまわれたのでございます。




 婚家での悪評は頭の痛いものにございました。さりとて今さら家に戻すのも気掛かりの種。ほとほと困り果てておりました。

 ところがある日、女が真剣な面持ちにて申しますことには、きっと添い遂げたいお方に出逢えた、とのことにございます。

 仰天して詳しく話をお聞きになると、婚家の御殿様に悪巧みあり。おおかた家名を汚したと迷惑料をせびり、場合によっては離縁をちらつかせる算段かと。

 なれど御味方となって下さる殿方あり。浪々の身故、不遇を託っておられる。されど気骨のある心優しきお方にて、之れは神仏のお引き合わせなりと。

 御父上様は大いにお喜びになり、その日より女と謀を巡らすことと相成ったのでございます。


 男は御父上様にも大層気に入られ、酒など酌み交わし、今後の後ろ盾を約束されたのでございます。

 男にしてみれば、かの女はやはり魔性の類いでございました。肌襦袢は天女の羽衣が如き神器なのでございましょう。魔性の者に魅入られ、見込まれたなら、何が起ころうと不思議ではございません。

 男は心の内にてやれやれと苦笑いしておりました。


 国許へと戻った男は、さらなる転機を迎えたのでございます。

 御国入りされた御主君は無聊の日々を託っておられました。江戸表と申しますのは、気詰まりと愉しみとは相半ばにございます。されど国許にはどちらもございません。

 気の抜けた日々を過ごされておりました処、ひょんなことから、男がかって無頼の徒であったことを耳にされます。退屈凌ぎに昔話を御所望になりました。

 この折より、男は御主君の御気に入りとなったのでございます。


 あれよあれよという間に出世したのは、妻の御実家の後ろ盾もあった故に相違ございません。

 とうとう国許の御重役として、周囲に軋轢を起こさぬ類い稀なる出世魚、などと呼ばれる御仁と成られました。




 さて、男はある日、奥方様に問うてみます――何故男を見込んだのか、と。


「お前さまに初めて手籠めにされた折のことにございます。わたくしのお歯黒は御存じでしたでしょうに、お前さまは口吸いを御所望になりました」


 奥方様は袖口で口許を押さえ、笑いを堪えておられます。


「世の中には物好きな殿方もおられるものと、何故か愉しくなったのでございまする。それ故、お前さまを試させて頂きました」


 悪戯っぽい面持ちのままお続けになる。


「お前さまはただの狼藉者ではござりませぬ。優しく生真面目。お言葉通りわたくしの口を吸い、熱心に可愛がって下さりました」


 とうとう口許を隠して声を立てずにお笑いに。


「お前はお歯黒を好まぬのか?」


「今は好きにございます」


 奥方様は笑みを崩さず居住まいを正すと、三つ指をついて頭を低くしながらお続けになる。


「お前さまがわたくしを拐かした折、そのまま地の果てまで連れ去って頂きとうございました。それが叶わぬのなら、わたくしがお前さまのことを、地の果てまで連れ去ろうと考えたのでございます」


 そうおっしゃると、奥方様は静かに立ち上がり、帯を解かれる。肌襦袢ひとつの御姿に成ると、肌襦袢と腰巻きの裾を絡げなさいました。

 床柱を抱き、御尻を向けられます。


「さあ、お前さまのお好みの作法により、幾久しく愉しみましょうぞ」


 そう御言葉を掛けた後、お歯黒を見せた笑い顔を作られました。


 お二人は家人に隠れ、手籠め遊びなるものを、お続けになっていたようでございます。

 拗ね者二人が出逢えたのは、果たしてどなたの手引きやら。





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