ある夜の出会い
思えばそれは、ささやかな”奇跡”だったのかも知れない。
あの日、あの夜、あの山での彼女との出会いは、僕の二十年足らずの人生の中のほんの数時間の事だった。
だけど、決して忘れることは出来ない。
これからも、いや……これからもあんな出来事には出会えないだろう。
あれはそう、三年前の今日の事だった。
◆◆◆
ミーンミーンミーン。
蝉の大合唱で、僕は目を覚ました。
「ううん、何だよぉ」
そう言いながら枕元にある目覚まし時計を確認してみる。
「げっ、やばっっっ」
時間はもう十時。とても早朝とは云えない時間を見て、慌てて布団から跳ね起きると、急いで歯を磨きに洗面所に突進した。
今日は、僕がばぁちゃんの田舎に遊びに来てから丁度一週間。
毎年、夏休みになると僕の家は母方の実家のある四国の田舎に遊びに来る。
子供の頃は只々無邪気にばぁちゃんの家の裏にある山に登ったり、川で泳いだり、ちょっと歩いて海に行ったり――それはもう楽しかった事をよく覚えている。
でも、何年か前から兄貴が来なくなった。
『いつまでもガキみたいに遊んでられないから』
と言っていたが、一番の理由は受験勉強。兄貴は県内有数の進学校へ推薦入学で入り、そこから更に学年主席を維持。
『俺は世界で活躍出来る男になる』
それを口癖にし、来る日も来る日も勉強の毎日。決して裕福とは云えない家計に負担をかけまいと、来年の大学受験はT大学に奨学金を貰って入ろうと、猛勉強だ。
折しも、僕の親父も仕事が忙しくなり、休みが取れないそうで、結局、今年は僕だけがこのばぁちゃんの田舎に来たって訳だ。
朝御飯は、麦ご飯に味噌汁に干物と目玉焼き。
海も山も近いからか、干物は美味しく、味噌汁には山菜が入っていた。
ここいらじゃ、お互いに作った作物を近所に配る習慣が残っている。だから、食材は買いにいかなくても結構まかなえる。
しかも、漁師のおんちゃん達が魚まで持ってくる。
だから、鰹も鮪もここで漁師のおんちゃんからの釣りたてを食べちゃうと、他では食えなくなる。トロは本当に口で溶けるし、鰹の刺身も旨い。本当に食生活は豊かだ。
「おはよう。よく眠れたかい?」
おばぁちゃんは優しく微笑みながら声をかけてきた。
「ばぁちゃん、おはよう。もうグッスリだよ」
僕も笑いながら返事をする。
「今日は祭りだよ、楽しんできなさい」
そう、今日と明日はここいらの集落が集まってのお祭りがあるんだ。今日が前夜祭、明日が本祭だ。
ここのお祭りは昔から結構有名だったらしく、たくさんの人が前日からここいらに集まる。
前夜祭はそうしたお客さんをもてなす為に出来たそうだ。
本祭では、”巫女”となる女性が山頂にある神社で舞いを奉納。その周囲で地元の人々が踊る。そのいわれは五百年前、室町時代――戦国時代にまで遡るらしく、由緒ある”神事”として伝えられているそうだ。
この二日間だけは、集落が人で溢れ変える。
活気に満ちたその二日間、ここいらはまるで別世界だ。
僕は古林謙太郎。
普段の静かなここの風景も好きだったけど、この祭りの二日間もまた毎年楽しみだった。
今日はその前夜祭が海岸沿いにある海の駅で行われる。昼御飯はそこの屋台で食べるつもりでいた。
「行ってきまーす」
縁側に置いていた自転車を起こすと一気に庭を突っ切っていく。
ばぁちゃんが手を振っている。どうやら、梨の収穫をしているみたいで、足元には籠一杯の梨。昼を食べ終えたら、一回家に戻って何か手伝いでもしなくちゃ。そんなことを考えながら自転車を走らせる。
この集落はなだらかな坂道に家が建っているので、ここから海岸までは下り坂。気持ちいいくらいに自転車は加速していく。集落の中こそ道も狭く、スピードも出せないけれど、一旦ここを出れば周囲は田んぼや畑だらけで、視界を遮るものは殆ど無い。
「ヤッホーーーー」
叫びながら、全身に心地いい風をしばらく堪能した。
まだ昼前だっていうのに、海の駅は人で溢れ帰っていた。
たくさんの屋台が駅から海岸まで伸びている。
ここいらの海は波が強いので遊泳禁止。だから泳ごうとする人の姿はない。もっとも、あちこちにいる警官の見ている前で泳ごうと思う人もいないだろうけど。
しばらく屋台を見て回っていると、集落に住んでる同い年の孝に秀一を見つけた。この二人とも結構長い付き合いになる。毎年この時期の楽しみの一つだ。
僕は二人に声をかけて、しばらく三人で周辺を散策。昼御飯を食べた。
「あー、もう三時だ」
「俺、明日の手伝いの準備しなきゃ」
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。孝と秀一はそう言うと先に集落に戻っていった。
「また後でな」
僕はそう言葉を返し、二人を見送る。そう、今日は前夜祭。夜もまた色々とイベントがある。
目玉は花火大会。二万発の花火が夜空を彩るその様を思うと今からワクワクする。それをカメラに収めて、実家に戻ったら家族に見せる約束をしていた。花火大会は夜の七時。ばぁちゃんの夕食の手伝いがあるから、もう一時間位はここでお土産でも探そう。
母さんは干物がいいだろうし、父さんは鯨の描かれたタンブラー。兄貴は歴史好きだからここらの民話集でも買う事にしよう。
「さーて、楽しみだなぁ」
まだ僕は知るはずもなかった。この後に”出会い”が待ってる事に。
◆◆◆
「ご馳走さまでした」
僕は早めの夕食を食べ終えると、食器を流しに運び、洗う。
ばぁちゃんは友達との話に夢中らしく、さっきから縁側に腰掛けている。
例年ならここの縁側から花火を見ていた。でも、今日は違う。
言い出したのは三人の中の誰かはもう忘れたけれど、チャット中にこんな話が出たんだ。
――今年の花火は山頂で見ようぜ。
山頂、つまり本祭が開かれる神社から絶景を楽しみつつ、花火も堪能しようという訳だ。
ちなみにこの事は僕達三人だけの秘密だ。僕はばぁちゃんに内緒だし、孝に秀一も家族には内緒。わざわざ、海の駅に行って花火を近くで見てくると”嘘”までついている。
何でそんな手間をかけるのかと言うと、昔から本祭とその前日は夜に寺に近付いてはならないという言い伝えが残っているから。
それもご丁寧に、今でも口伝や、民話にも残っている上に、集落の裏にある”参道”まで封鎖するというから念のいった事だと思う。
何で山頂に行ってはいけないのか? 何年か前に一度聞いてみた事があった。
今や、すっかり観光地となった山頂の神社。文字通りに山の上にあるその神社への参拝は本来、ばぁちゃんの家の裏にある昔ながらの山道を通るのが正しい順路だそうだ。
ずっと昔からのその山道は結構険しく、夜中に通るには危ないからダメだそう。なら、日中に行けばいいんじゃないの? そう質問してみたが、何でも、巫女役の女の子が一日かけて”禊”をするのが古くからのしきたりだそうで、前日は神社には神主さんも近付かない。もしも、その禁を破れば一族郎党子孫まで呪われるらしい。都会ならちょっとした怪談ネタだろう。
だけどここじゃそれは怪談ネタなんかでは無い。まるで本当にあった事を恐れている様な感じって云うべきか。
普段はおおらかで日々を楽しみ、この土地を愛している皆がこの事だけは豹変する。
そんな訳だから、この妙な話は今でもここに強く根付き、祭の前日に神社へは誰も近付かない。
僕達は皆が何をそんなに怖がるのかを理解出来なかった。
だからこそ、前夜祭の夜、山頂に向かった。
山頂へは集落から少し離れた山の外れから上っていく道路と、昔からの参道がある。
今は、大勢の人がバスや車で神社まで来るので、参道は殆ど使われない。道路にはまた別の集落もあるし、ここの住民も同じく神社には近付かない。だから、こっちは却下。必然的に参道を通る事になった。
三人で入ってみると、日中でも生い繁る木々のせいで薄暗い印象の参道はいよいよ怪しげな雰囲気を醸し出していた。
その入口からして、お地蔵様がずらりと並んでいる上に、昔からの集落の人々の墓がすぐそばにある。墓の中には、慶長という年号や天正なんてものまで刻まれていて、少なくとも戦国時代にはここに墓があったみたいだ。
足元は一応階段状に石が置いてあるけど、苔がビッシリ付いていて、気をつけないと滑りそうだ。
僕達三人はそれぞれに懐中電灯を持っていたけど、目立つと集落の誰かにバレてしまうかも知れない。だから、代用品としてスマホのライトで足元を照らしながらゆっくりと歩いた。
日中ならほんの十分で登りきれるはずの石階段は、こうしてゆっくりと登っていると、深い闇夜のせいもあってか、果てしなく続くかと錯覚しそうだ。
そうこうしている内に、夜空に大きな花が咲いた。
「始まっちまった」
空を見上げた孝が叫んだ。
「今のは一番花火だから、急がなきゃ」
秀一はそう言うと石階段を走るように登り始める。二人は一気にペースアップ。僕はあっという間に残された。
――りな……い。
よくは聞き取れないが、確かに声が聞こえた。周囲を見回す……誰もいない。当然だ。改めて参道を進む事にした。
前方にうっすらと光が見えた。ゆらゆらと揺れるそれは懐中電灯では無い。どうやら、”火”が灯っているみたいだ。
――お帰りなさい。
今度はハッキリと聞き取れた。その声は上から聞こえ、上を見た。すると参道の石階段の頂上に人の姿。見つかってしまった事で、孝も秀一も見つかってしまったのだろう。ここまで来て、今更引き下がるのも何だか癪だ。構わずに石階段を登っていく。
さっきの声から女性だとは分かっていた。多分、明日の本祭で舞を披露する巫女さんだろう。巫女役の女の子しか前夜に神社にはいてはいけないのだから。
巫女役の女の子は見た感じ僕と同い年位だろうか。
身長は百五十センチ位、細身で黒髪を腰まで伸ばしていて、何処か浮世離れした雰囲気を醸し出している。
「あれ? 孝に秀一は……」
おかしな事に目の前にいる巫女役の女の子しかそこにはいなかった。
おかしな点は他にもある。何て云うべきだろうか、新しいんだ。本殿はつい最近作ったかの様に綺麗だし、神社の真ん中にあった樹齢五百年とも云われる御神木が無い。
切り倒した様な形跡も無いし、一体どういう訳だろうか?
「誰もここに来てはいけない、そう伝えたはずよ」
彼女は本当に怒っていた。確かに本祭の前日――巫女さんの禊を邪魔した事になった訳だから怒るのも当然だろう。
「悪かったよ、でもここから花火を見たかったんだ。巫女さんだって、見てみたいだろ?」
「はな、び? 何だそれは」
彼女は初めて聞いた言葉みたいにそう言った。からかわれてるのかとも思ったけど、構わずに山頂から見える海へ視線を向ける。
「今から打ち上がるんだ、凄いんだからさ」
僕はそう言いつつ、花火の打ち上げを待った。
だけど、それは一向に始まらない。何か問題でも起きたのだろうか?
「何で? 花火が打ち上がるはず」
「お前が何を待っているのかは分からんが……もういいだろう。村に帰れ。今ならこの事も不問に伏……」
それは突然だった。いきなり足元が激しく揺れる。
僕は地震かとも思ったが、その震動は奇妙だった。
ズシン、ズシン。規則正しいそれはまるで、何かの歩く音みたいだった。
「しまった、もう気付かれた」
彼女はそう叫ぶと僕の手を握り、走り出す。
「え、何なんです?」
困惑する僕の問いかけに彼女は答える事も無く、参道を降りていく。こんな暗闇の中で滑りやすい石階段を走りながら降りるなんて自殺行為にしか思えなかった。だけど――
「あ、あれ?」
真っ暗だったはずの石階段はゆらゆらとした光で照らされ、ビッシリと階段を覆っていた苔もついてはいない。
それどころか、石はヒビ一つついておらず、その脇の木々も無秩序に枝を伸ばしたりしていない。何というべきか、手入れされ整然としていた。
「そろそろ【境界】に着く。そこで休むぞ」
驚いたのは、これだけ激しく走っているのに彼女は息一つ切らしていない事だ。僕は心臓がバクバクしていてもう息も絶え絶えなのに。
ようやく、走るのを止めたのは参道の中腹。確か、腰掛けみたいな石が二つあった。正直休みたい。
「え、何で」
でもそこには腰掛けは無い。それどころか、奥に何かある。僕の知る限り、そこは木々に覆われて何も無かった筈だ。何が何だかサッパリ分からなくなった。
奥に用意されていたのは粗末な小屋だった。中に入ってお互いに腰を落とすと、彼女は聞いた。
「 さて、お前は誰だ?」
「古林謙太郎。君は?」
「私か? 名前など無い」
彼女は表情一つ変えずにそう答えた。
「いや、名前がないなんておかしいよ」
「そう言われてもな、私には必要の無いものだ」
どうにも話が噛み合わない。そう、彼女に限らない。さっきからおかしい事だらけだ。
先に神社に着いたはずの孝に秀一がいなかった。
神社に何かいる。
神社への参道の石階段や周囲の木々はキチンと手入れされている。
何より、一向に始まらない花火大会。
更に下を見渡すと、真っ暗だった。
いくら田舎で、集落同士も離れているとは云え、人が住んでいれば、そこに灯りがあるはずだ。
でも、灯りらしき光は本当にまばら。前夜祭で騒いでいるはずの海岸沿いも真っ暗。まるで別世界の様だ。
「なぁ、教えてくれないか? ここは何処なんだ?」
◆◆◆
僕は彼女にたくさんの質問をした。
ここは何処で、今は一体いつなのか?
さっきの足音はなんだったのかと。
その質問に彼女はわかる範囲でだが、返答してくれた。
その答えは、僕を更に困惑させるのに十分だった。
ここが何処かは、予想通りだった。”土佐”の国。
今の高知県、室戸市。
それで、いつなのかについては年月は答えられなかったけど、旧暦ではあったが、間違いなく前夜祭の日であっている。
足音については――。
「あれはここらを治める【主】よ」
だそうだ。正直言ってそんなバカな? って思ったけど、さっきからの彼女の説明に嘘らしきものは無かった。信じられない思いはあったけど、”主”っていうのがここにいるならそれもまた信じられない話だけど、あのデカイ足音は人間とは思えない。信じられない思いだったけど、それを信じる他無かった。
どういう訳なのかはサッパリだったけれど、確かなのは、僕が今いるのはずっと昔らしい。
「私はここの主を鎮める為にここまでに来たのだ」
そんな話も半信半疑とは云え、彼女が懐から紙を取り出し、それに何かを書くと、紙が生き物の様に勝手に動き出すのを目の当たりにして信じる他に無かった。
「ここ一帯では、十年おきに主に【生け贄】を出す。災いが起きないようにね」
何でも、”生け贄”となるのは十代の少女らしく、それを怠ると様々な災いが起きたそうだ。
以前、生け贄を出さなかった集落では、突然の病にあったり、山が怒って――土砂崩れが起きたりと、集落の住人は死んでしまったそうだ。
だが、今年この集落にはある問題が起きた。
生け贄に出せる少女がここにいないのだ。昨年の流行り病でたくさんの住人がここいらで亡くなっていて、その時に少女がいなくなってしまったそうだ。
「だから、私が来たのだ。主と話をつける為にね」
何でも、彼女の一族は古来より”お祓い”を生業としているらしく、こうした事態の対応が専門らしい。
ちなみに話をつけると言うのは、場合よっては実力行使も含んでいるらしく、その為に近隣の住人には集落を離れてもらっているらしい。
今度は、彼女が僕に質問を返してきて、それに答えた。
彼女は僕の話を聞いても特に驚かなかった。
「成程、お前がそうなんだな」
そう、一人合点したのか大きく頷くと行くぞ、といって小屋から出た。そして何を思ったのか、山頂へ――神社へと登り始めた。
僕の手を掴んだままで。
「ちょ、待ってよ」
困惑した僕は叫び、彼女の手を振り払う。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
「だって、上には主ってのがいるんだろ?
何で僕を連れて行こうとしてるんだ? 教えてくれよ」
事情も分からないままは困る。彼女の目をじっと見つめ、問いかける。
「お前を読んだのは私だからだ」
その回答は想像も付かなかった。言葉も出ない僕をそのままに彼女は説明した。
「ここの主は手強い、長らくここら一帯を治めていて土地の力を得ている。まともな方法では祓えない――それで、さっき迄【儀式】をしていたのだ。主を倒せるだけの【力】を持った者を呼ぶ儀式をな」
「そ、それが僕だって?」
彼女は即座に頷きそれを肯定する。一瞬、何かゲームとか小説のキャラみたいだな――とか考えたけど、何か変わったような実感は全く無い。
「いいから来い!!」
そうやって引っ張られていく内に石階段を登りきった僕達は、早速それに対面した。
大きさは優に十メートルはありそう。フサフサした毛並みに妙な愛嬌の顔をしたそれは――とてつもなく巨大な狸。
『ようやく来たか――ン? 何だその男は?』
巨大な狸の声は見た目とは違って甲高く、子供みたいだった。
でも、十メートル以上の巨体には貫禄がある。
「この辺りを治める主よ――」
巨大狸の言葉には答えずに話を切り出した。
「その男は何だ、と聞いている?」
当然、巨大狸は言葉を荒らげ、睨んでくる。狸って確かに雑食だったよな――そんな事を考えてしまう。
「この辺りの集落の人々をこれ以上苦しめるな!」
彼女はまたも巨大狸の言葉を無視すると、本題を切り出す。
グルルルルル!!
巨大狸は一度ならず、二度までも自分の言葉を遮った相手――彼女に怒り心頭といった様子で唸った。
(やばい、これは絶対やばい)
思わず、一瞬即発の二人の間に割り込む。
「ま、まぁ、この位でやめましょうよ」
そう言いながら、精一杯の笑顔を作って、場を収めようと試みた。その結果は――
「「うっさい」」
同時に女の子と巨大狸に怒鳴られた。
こほん、と咳払いをした巨大狸。こいつはほんとに主なんだろうか? というより、そんなに恐ろしい怪物なのか? どうにもそうは思えない。
「まぁいい。なら、お前は何だ?」
「私? 祓い人よ」
「かっかっか、ワシを小娘風情が何とかしようとは――片腹痛いわ」
まさに一瞬即発。
睨み合う一人と一匹を僕は固唾を飲んでいた。そして――!
「「止めろよ」」
またも両者から怒鳴られた。さっきから何だろう、この展開は。
唖然とする僕を尻目に、巨大狸がはぁ、と溜め息をつく。
「なぁ、コイツで間違いないのか? さっきから何もしてこないぞ」
そう言うと、あっという間にその姿を縮めて――その姿は普通の狸だった。
「間違いないわよ、この人は私のかけた【結界】を破ってここに来たんだから」
そう言うと彼女は僕を睨んだ。もう、何が何だかサッパリ分からない。
「さっきから何の話なんだよ!! 意味分かんないよ」
思わず大声で叫ぶ。すると、”ピシリ”という音が何かが割れる様な音が聞こえた。思わず後ろを振り返ると、僕の背後の空間にひび割れが入っていた。
「ね? 結界に干渉出来るのよ? 間違いないわよ」
彼女は嬉々とした表情を浮かべ、僕の肩に手を回す。
「始めまして、【救い主】」
そう言うと、笑顔を見せた。
◆◆◆
「つまり、さっきの話は本当だったのか?」
「そう。ここいらの山や土地を治める主はいるの」
僕は彼女から何が起きたのかを聞いた。さっきの狸は主の使いだそうで、帰っていった。
彼女曰く、”主”は怒っているらしい。戦乱が長引く事で、人々の心は荒み、戦さで大勢の人が死ぬ。
主の力の源は人の畏敬の心。だが、今の人々は主を敬うどころでは無い。
「だから、主は怒って【災い】を引き起こす。そう言ってた」
「それで、君が来たんだね。主をお祓いするために」
「違う。主を鎮める為に【舞い】を奉納するのだ。でも問題があってね」
「何がだい?」
「どんな舞いにするべきかまだ思い浮かばない」
彼女はそう言うと頭を抱えた。”舞い”にも色々手順があるらしい。
「こんなのはどうかな?」
僕は彼女の前で踊った。それは、毎年本祭で巫女さんが行う舞いだった。子供の頃から見てきたそれはお世辞にも上手とは云えなかった。人前で踊るのは初めてだったけど、何故か彼女の前では恥ずかしさとかは感じない。
「うん、こうだな」
今度は僕の舞いを目にした彼女が舞いを披露した。
それは、とても優雅だった。彼女が手を動かし、足を踏み込む度に何て形容すべきか、大きな”力の渦”みたいなモノを感じる。
神々しくて、とても綺麗だった。
「有難う、謙太郎」
彼女は僕を真っ直ぐに見てそう言った。
「い、いいよ別に。救い主なんて云われた時はビックリしたけど」
僕は彼女を直視出来なかった。でも、嬉しかった。こんな僕でも役に立てたのだから。
「そろそろ、結界も効果を失くす。お別れだ」
「あ、あの。名前の事だけど――」
「我々の【真名】は教えてはいけないのだ、だから――」
「向日葵ってのはどうかな? 月並みだけど、さ」
すると、僕の身体が徐々に薄れていく。これでお別れだという事か。
「いい名だ。有難う」
彼女、いや向日葵は微笑んだ。そして僕は見た。とてつもなく大きな渦の様なモノを。そこに渦巻くのは無数の人の心。
向日葵は、その渦に舞いを披露し――僕は消えていった。
気が付くと、もう祭りは終わっていた。
孝と秀一はいつまでも登ってこない僕を心配して参道を戻ると、中腹に倒れていたそう。当然僕達は、ばぁちゃんや集落の皆にたんまり怒られた。
「でもね、中腹にあんな物があったとはねぇ」
僕が倒れた先には、数百年間誰にも気付かれる事なくそこに建っていた小屋があった。そこには不思議な事に、当時の文献が残されていたそうで、巫女について記されていた。
その巫女さんは――向日葵と呼ばれ、主の怒りを抑える為に命懸けの舞いを披露したそう。主の怒りは鎮まり、代わりに向日葵は命を失った。
それ以来、毎年お祭りを行い、本祭で舞いを奉納する事で、主の怒りを解き、向日葵の魂が安らげるように祈る。
それが、このお祭りの始まりだそうだ。
そして三年後。僕はここに来た。
この三年は色々大変だった。兄貴は車の事故にあったし、親父は大病で入院した。その上、母さんは家を出た。原因は親父の浮気。
何だかんだでごたついてこんなに長い間これなかった。
以前はあんなにも不気味だった木々は綺麗に手入れされ、薄暗かった石階段は月明かりが淡く照らす。
当然、前夜祭でここに足を踏み入れるのはご法度だ。
でも、僕はどうしてもここに来なくちゃ行けない、そう感じていた。どうしても彼女に会いたかったから。あの不思議な巫女さんにもう一度会ってみたかった。
石階段を登りきり、神社に入るとそこにいたのは――
「お帰りなさい」
そう、僕は帰ってきたんだ。