TWO-2-
昼間雨が降ったためだろうか、地面が濡れている。
上坂茂之と酒井彩は大学2年生のカップルだ。知り合ったのは去年。茂之のひと目惚れだった。顔質の整った彩は他の男子からの人気も高かった。そのため1度は諦めようとしたが、どうしても彼女の天使のような笑みを忘れることが出来ず、駄目元で告白したのだ。
あの決断が無ければ、あの告白が無ければ、2人は今別々の道を歩んでいただろう。人生とは本当に不思議なものである。
夜空を見ながら静かな小道を歩く2人。この道は茂之のとっておきのスポットだった。アパートやマンションの立ち並ぶ細い道。その上に広がる空。都心から少し離れた場所だからか、ここからだと珍しく星を見ることが出来る。星だけでも充分ロマンチックだが、今宵の満月がより一層ムードを引き立てていた。
「綺麗だね」
「うん」
「本当に、綺麗……」
彩の方が綺麗だよ。そんなことを言おうとして、止めた。ひと昔前のドラマのような台詞。言ったら笑われるだけだろう。
大丈夫。言葉なんて無くても、愛はちゃんと伝わる。それが、この1年彩と付き合って茂之が覚えたことだ。よく恋愛マニュアルみたいな本を見かけるが、愛というのは誰かが簡単に解読出来る様なものではないと思っている。心の底からわき上がってくる言いようの無い熱い思い。それが愛なのだと彼は思うのだ。
気づくと、彩が彼の顔を見つめていた。この大きくつぶらな瞳で見られると緊張してしまう。
「シゲ」
「うん?」
「ちょっと良い?」
「良いって、何が……」
茂之が言い終える前に、彩が彼に抱きついて来た。温かい。彼女の鼓動が、温もりが、茂之の身体に伝わってくる。生きている。自分も彼女も、確かに生きている。茂之も彩の後ろに手を回した。
何分そのままでいただろう。抱き合っていても見る者は誰も居ない。
この温かさが溜まらなく気持ちがよかった。しばらくこのままでいたい。そう思っていた茂之だったが、突然、
「痛っ!」
彩が叫んで手を離した。一気に現実に引き戻された。
彼女は仕切りに足首の辺を気にしている。見ると、どうやら血が出ているようだった。山じゃあるまいに、足を切る物などここにはある筈がない。周囲を見回していると、茂之は側溝の近くにあるものを見つけた。
1匹のネズミだ。ネズミは逃げずにじっと2人を見つめている。まさかこのネズミが? だとしたら問題だ。菌が入ってしまったかもしれない。ネズミと言えばすぐに浮かぶのはペスト菌。それだけではない。あんな汚い場所に住んでいる生き物だ、もっと沢山の細菌を運んでいるかもしれない。
小賢しい生き物だ。側に転がっている小石を拾ってネズミに投げた。ネズミは住処へと逃げて行った。
「大丈夫?」
「うん、ごめんね、ビックリしちゃって」
足首から流れ出る血液が、彩の白い肌を、そして靴を赤く汚している。噛まれたにせよ引っ掻かれたにせよ、この量は異常だ。やはり何かとんでもない物が入ってしまったのか。
こんなところで最愛の女性を失うのは嫌だ。すぐに病院に連れて行くことにした。
「行こう」
手を握って、やや駆け足でそこから移動しようとする茂之。だが、彩はその場から動こうとしない。思わず躓きそうになった。
「どうしたんだよ? 早くしないと」
「シゲ……」
彩が、震える声で呼んだ。
初めは何があったのかわからなかったが、彼女が何故動けなかったのかすぐにわかった。
周りを、大量の小動物が取り囲んでいる。小さなネズミもこれだけ大量に集まると気味が悪い。背筋が寒くなる。
ネズミ達は明らかに2人を見ている。チッチッという鳴き声も聞こえてくる。
「シゲ? ねぇ、シゲ!」
「う、うるさい!」
パニックになってしまって、つい彩に怒鳴ってしまった。すぐに謝ろうとしたが、足首に迸った痛みのせいでそう出来なかった。
ネズミが噛み付いている。1匹が靴を駆け上がってズボンの中に侵入、爪で足を器用に掴んでガリガリと齧っているのだ。あの鋭い歯が小刻みに振動するのと、自分の皮が少しずつ抉られてゆく感触が伝わってきた。それとほぼ同時に、痛みと熱もその場所から発せられる。あまりの苦しさに茂之がその場に倒れた。
「痛ぇぇぇ! 痛ぇよぉぉ!」
路上でもがく茂之にネズミ達が次々に取りつく。服の中に入り込み、柔らかい肉を齧っている。
彩の足にも彼等が群がる。彩も茂之同様、ネズミ達に噛み付かれて暴れ出した。叩いたりしてネズミを振り払おうとするが、動けば動く程彼等は飛びついてくる。
「助けて! 誰かぁ!」
「うああああっ!」
大声で叫ぶ2人。その声を聞いて駆けつけて来る者も何人かいるが、皆この世のものとは思えぬおぞましい光景を見て、2人よりも大きな悲鳴を上げて逃げ帰ってしまう。
もう駄目だ、助からない。
2人は暴れることも叫ぶことも止めた。視界がぼやけてゆく。血が目に入り込む。
ああ、これが死ぬということなのか。2人は悟った。
こんな形で交際が終わることになるなんて。目から涙がこぼれ落ちる。涙が血液と混ざり合う。その液体を、ネズミ達がよってたかって舐め始めた。
死んでも、2人は一緒だ。茂之は最期の力を振り絞って彩の手を探し、ギュッと掴んだ。弱いが、彩もその手を掴み返した。
若い2人の男女は、手をつなぎながら、惨たらしい最期を迎えた。
3日後。今日も桂は来ていない。
あれから3日経ったがまだ成果は出ていない。マウスも新たに2匹犠牲になってしまった。
何が悪いのだろう。改良出来る点はほぼ全て治した筈なのだが。研究者達は頭を抱えた。流石の峰も疲弊しているようだった。目の下にはくまが出来、目は若干充血している。彼女はこの頃殆ど眠っていないのだ。
「そんなに気にすんなって。実験に失敗したのは何も今日が初めてじゃないだろ?」
仁科がフォローするが、そのひと言が峰を余計に苛立たせてしまった。
「みんな、聞いてくれ」
そこへ高田が戻って来た。全職員が注目する。
「要請があった。遺体が運ばれて来た」
「遺体? 何で急に?」
「都内で変死体が見つかったらしいんだ。全部で、4体」
「俺達は刑事じゃないんですよ?」
「いや、事件云々の話じゃない。それらの遺体には、不可解な点が幾つかあるみたいでね。それを調べて欲しいという依頼があったんだ」
遺体の状態について尋ねると、高田はおどおどして、見ればわかるとしか教えてくれなかった。
要請とあらば調べなければならない。もしかしたらそこには、とんでもない細菌や病が隠れているかもしれない。
早速、高田に呼ばれた数名が遺体の確認に向かう。外は暑いのに中は涼しい。廊下を進むと、薬品だろうか、酸っぱい臭いが鼻を突いた。
「気をつけろよ」
と高田が言う。初めは何を言っているのかわからなかったが、部屋の中に入ってその意味が理解出来た。荻野は振り返って口を押さえている。あの仁科も言葉を失ってしまった。
金属製のテーブルの上に置かれた、真っ赤な塊。1度見ただけではそれが何かわからない。が、塊の中に見える目や肩、剥き出しになった骨を見てようやく、それが人間の遺体であることがわかる。
峰も驚いたが、他の2人程ではなかった。もう慣れっこだった。
「ど、どうしてこんなことに?」
「わからない。警察からは詳しいことは教えてもらえなかった」
「変な痕がありますね」
峰は塊に近づいて観察している。荻野と仁科は彼女に敬意を表した。
彼女の言う通り、肉塊には奇妙な形の傷が幾つも残っている。刃物ではつかないような、歪な形の傷が。
「ああ。解剖医も首を傾げていた。それから大量出血のあとも窺える。この点から、何らかのウイルスが感染していたのではないかと考えているらしい」
「なるほど、それを調べろってか」
「だったら早くやりましょう。私達にしか出来ないことよ」
「怖くないの? もしソレに新しいウイルスが感染してたら……」
「仁科君、この人は生きていたのよ。モノじゃないわ。“ソレ”なんて言い方やめて」
「い、いや……ごめん」
「ケンカはやめてくれ。至急結果を報告しなければ。……ああ、それから」
言いながら、高田が部屋の奥へ何かを取りに行った。すぐに見つかったようで、アルミ製のプレートを持って戻って来た。プレートの上には小さなものが乗っかっている。
「現場を捜査した警察が、こんなものを見つけたそうだ」
「え? 何これ?」
「見ての通り、ネズミだよ」
おそらく遺体の人物が暴れた際に踏まれたか何かで死んでしまったのだろう。暴れたかどうかは定かではないが、ネズミの遺体の状況を見るにまず間違いない。
しかし、驚くべきことはこれではなかった。よく見ると、ネズミの足に何かがついていたのだ。それには、何か書かれている。ナンバーだ。ナンバーが記載されている。
「わかったか峰君? このマウスは、ウチのマウスなんだ」
3人の背筋に悪寒が走る。それは、遺体を見たときよりも不快なものだった。