愛人(?)と真相
それで――俺は今、ホテルの部屋のドアを前にしている。
夜景の綺麗なベイエリアにある高級ホテルの三十階、あのメールに示されていた番号の部屋だ。この上にはバーしかないので、事実上の最上階である。フロアに部屋数は少なく、かなり広い間取りに作られていると分かった。
水曜日、俺は午後から半休を取って、このホテルの前で待ち伏せた。
夕刻になって、思った通り社長が姿を現した。会社の車ではなく、タクシーに乗ってである。役員食事会の後、直帰と見せかけてやって来たのだろう。
宿泊客やレストランの客が行き交う広いロビーを横切って、社長はエレベータに乗り込んだ。俺はそれを見届け、十五分待って、後を追った。部屋番号は知っている。
この中で――社長が誰と会って何をしているのか、はっきり言って俺にはどうでもよかった。ただこのままではロタセイ酒造が危ないのだ。それに、調査に成功しようと失敗しようと、俺が本社から放り出されるのは確実だった。
回避するには、もう社長に直訴するしかない。現場を押さえて有無を言わさず味方につけてやる!
俺は覚悟を決めて、ひとつ大きく深呼吸をし、ドア横のインターフォンを押した。
「……はい」
社長の声。
「ルームサービスです」
「……おまえ、頼んだか?」
一緒にいる誰かに訊いている。そのまま通話は途切れた。
少し待っていると、やがてドアが開いた。チェーンは掛かっていない。しめた!
社長が顔を覗かせる前に、俺は素早く足と肩を滑り込ませた。
「ナタレ! 何でここに……!?」
「重要な用件です、社長! 失礼します」
呆気に取られる社長を強引に押しのけて、俺は部屋の中に入った。
予想通り、物凄く広い間取りだった。飛び込んだ先は二十畳近い広さの居間になっている。関節照明で照らされた室内は落ち着いたアースカラーで、重厚なダイニングセットが贅沢だ。夕闇の夜景が見渡せる窓際には、びっくりするくらい豪華な花が飾られていた。ベッドルームはおそらく別で、奥にあるドアがそうなのだろう。
居間の中央にあるソファから、人影が立ち上がった。俺はその人物を見て――冗談ではなく息をするのを忘れた。
「どなたですか?」
焦りも恐れもなく、落ち着いた口調でそう問いかけたその人物は、本当に、信じられなくらい、有り得ないほど、美しい容貌をしていた。
歪みのない卵型の輪郭に細くて真っ直ぐな鼻筋が通り、三日月のような眉も形のよい唇も完璧な左右対称形だ。髪は黒いが肌は透き通るように白い。一目で異国の人間だと分かった。そして長い睫毛に縁取られた両眼は、銀色に近い明るい灰色をしていた。
これがメールの相手『S』か。だがこの人物は、どう見ても……。
「男じゃないですか!」
俺は反射的に口に出してしまった。
そう、この世ならぬ美貌の主ではあるが、その骨格は明らかに若い男のものだ。白いシャツと黒いズボンというラフな服装に包まれた身体つきも、すらりとはしていても女性のそれではない。
俺の背後で、社長が深い溜息をついた。
「まったく、どうやってここを嗅ぎつけたんだ? バレないように気をつけていたのに」
振り向くと、彼は眉間を摘むようにして顔をしかめていた。
「プライベートだぞ。おまえ、何をしに来た?」
「しゃ、社長のくせにプライベートとか言わないで下さいっ」
規格外の美形と予想を裏切る状況のせいで、思考停止状態に陥っていた俺は、ようやく自分を取り戻した。
驚き混乱し、ようやく怒りが湧いてきた。元はといえばこの男が好き勝手遊んでいるせいで、俺まで巻き込まれる羽目になったのだ!
「社長が愛人に入れあげてることなんか、とっくに奥様に知られてるんですよ。それをスキャンダルに仕立て上げられて、会社追い出されかかってんのが分かんないんですか!」
「は? 何を言って……」
「この期に及んで惚けないで下さい。愛人作ろうが、それが男だろうが女だろうが、そんなのはどうでもいいですけどね、今あんたにいなくなられたら、うちの実家が困るんです! うちだけじゃない、他にもたくさん迷惑する人がいるはずだ。そういうこと分かってるんですか!? あんた隙がありすぎなんだよ社長のくせにっ!」
憤慨のあまり怒鳴りながら詰め寄ってしまった。社長はそんな俺の前でポカンとしていたが、やがて脳で何かの回路が繋がったらしく、いきなり笑い出した。
「ナタレおまえ……勘違いしてるぞ! これが俺の愛人!? あははは……あいにくそういう趣味はないんだ」
「え? 違うんですか? だって凄く綺麗な人だし……」
「そんなに笑っては彼が気の毒ですよ、社長」
腹を抱えて笑い続ける社長を見兼ねてか、『S』が助け舟を出した。実に流暢な日本語である。訳の分からない俺に向かって、彼は、
「はじめまして、私はサリエルと申します。セファイド社長とは……ビジネス上のお付き合いを始めたところです」
と、眩暈のするような笑顔を向けた。
彼らの語った真相はこうだった。
サリエルは無名のチェリストだった。有名なコンクールで何回か受賞したほどの才能の持ち主でありながら、デビューの機会に恵まれず、本国ではほとんど名前を知られていない存在だった。
そんな彼の演奏に惚れ込んでしまったのがセファイド社長だ。社長は、若手の演奏家が集まるイベントで来日したサリエルのチェロを偶然耳にし、あっという間に惹かれたのだという。
かつては自らもプロのチェリストを目指していた社長は、サリエルの才能とその美貌を認めて「これは売れる」と思ったらしい。シャルナグ専務曰く、音楽の女神にはフラれたが金儲けの才能に長けていた男、である。
それでサリエルに接触し、彼をデビューさせるべく何度も日本に呼び寄せていた。
「新会社を立ち上げるつもりだったんですか?」
「音楽事業には以前から興味があったんだ。だが今の分野とはあまりにも畑違いだからな……大規模なものではなく、あくまでも俺個人の事業にするつもりだった」
つまり自分のポケットマネーで小さな音楽レーベルを立ち上げ、無名の若い演奏家を発掘するつもりだったのだ。モデルや俳優が裸足で逃げ出すほど容姿端麗なサリエルは、その皮切りとして打ってつけだっただろう。必ず話題になると、俺ですら思う。
「だったら堂々とそうおっしゃればよかったんですよ、副社長にも」
「オドナスとは関係ない、趣味みたいな仕事だからな、正式に登記が済んでから話すつもりだった。先に知られると、関連会社にしろだの何だのうるさいから、あいつは」
「おかげで痛くもない腹を探られて……挙句に背後から刺されるところだったんですからね」
「あいつのやりそうなことだよ。俺の寝首を掻こうと常に狙っている。まあ、そういうところが可愛いんだが」
社長は呑気にうそぶいているが、とばっちりを受けた身としては堪らなかった。
納得のいかない俺に、彼は、
「ナタレもサリエルの演奏を聴けば分かる。世に出すべきものだ――必ず世界中の人間が喝采を送る。自分にその後押しができれば、と思うよ」
と、少年のように無邪気な笑みを見せる。人生が楽しそうで羨ましい限りだ、このオヤジは。
でも確かに――静かに微笑む美しいチェリストを眺めて、俺は思った。音楽になど縁のない生活を送ってきたが、社長をここまで惹きつけた演奏ならば、聴いてみたい。
「いずれお聴かせしますね、新人秘書さん」
銀色の瞳は鏡に似ていて、俺は素直に肯いてしまっていた。
しかし――結局、俺がサリエルのチェロを聴く機会はなかった。
その日からすぐ、彼と音信不通になってしまったのだ。