社長と悪だくみ
月曜日、ついに社長が帰国した。
一週間ぶりに出社した社長を、秘書室のスタッフ全員が廊下に並んで出迎える。彼は疲れなど微塵も見せず、颯爽と歩いて社長室へ向かった。
「お帰りなさいませ。ドバイはいかがでしたか?」
そう尋ねる次長に対し、
「都市は立派だが、一歩外へ出ると砂ばかりだ。ああいう所には俺は住めないな。日本の湿度が恋しかったよ」
などと軽口を叩いて笑う。
もともと整った顔立ちに、年齢を感じさせない晴れやかな表情を浮かべ、この人はいつだって楽しそうだ。纏った空気に翳りがないというか、堂々としている。しかもその立場に拘わらず気さくで、他人を見下す態度を取ることがない。部下に慕われ、女性にモテまくる訳が何となく分かるのだった。
俺が秘書室へ戻ろうとすると、社長は社長室のドアの前で振り返った。
「ナタレ、ちょっと来い」
「は、はい」
返事が少し上ずってしまった。後ろ暗いところがあるから仕方がない。リリンスとのことがバレたか、いや浮気調査のことか……。
俺は随行するエンバス室長とともに部屋へ入った。
広々とした室内には、毛足の長い象牙色のカーペットが敷き詰められている。執務机とキャビネットと書棚、ソファセットはすべて黒いクルミ材でできた高価なものだ。壁に掛けられた抽象画といい、六十インチの液晶テレビといい、何だか迫力があって緊張する。同じ社長室なのに、うちの実家のそれとは比べ物にならない。
出張にも同行していた室長は、社長の鞄と大きな紙袋をデスクの脇へ置くと、静かに頭を下げて退出した。
「留守中、変わったことはなかったか?」
社長はデスクトップのパソコンを立ち上げながら、ちらりと俺を見た。変わったことがあればすぐに自分の携帯へ連絡があると知っているはずだから、形式的な質問だ。
「いえ、特に……」
「そうか。ああ、これな」
彼はデスク脇の紙袋を手に取って、俺に差し出す。
「お土産、秘書室のスタッフに。配ってくれ」
「ありがとうございます……」
どこの職場でも、お土産配りは下っ端の仕事だ。俺は気を抜かれて、アラビア文字のロゴの入った紙袋を受け取った。
社長は椅子に腰掛け、鞄から携帯を出して机の上に置いた。会社契約のスマートフォンである。その時、ブーンという低い振動音がした。
スマホが鳴ったのかと思ったが違った。社長はジャケットの内ポケットに手を入れ、二つ折りタイプの携帯を取り出した。おそらく彼の私物だろう。メールだったらしく、中を確認して――彼はふっと笑った。
その笑みに、俺は引っ掛かった。社長はよく笑う人ではあるけれど、職場で見せるそれとは全然違う、実に優しげな幸福そうな微笑。これはもしかして……。
携帯が閉じられる音で俺は我に返り、慌てて目を逸らした。一礼して、いそいそと部屋を出る。入れ替わりに、他のスタッフがコーヒーを運んできた。
何とかしてあの携帯を見られないか――社長のお土産の甘いデーツとココナッツクッキーを頬張りながら、俺は頭を抱えた。
そして一計を案じ、総務課のリリンスに内線をかけて協力を依頼した。
照明の蛍光灯が暗くなっていますので交換します――俺はそう言って新品の蛍光灯と脚立を抱え、社長室に入った。
ランチから帰ったばかりの社長は、ソファで新聞を読みながら寛いでいる。
「暗い……か?」
「はい、夕方になるとよく分かります。社長の出張中に換えておくつもりだったのですが、申し訳ございません」
「昼休みが終わってからでいいぞ。あと十五分ある」
「いえ、すぐ終わりますから。失礼します」
俺は執務机の隣に脚立を置き、蛍光灯を箱から出した。
さり気なく視線を巡らして、コート掛けに社長のジャケットが掛かっていることを確認する。スマホは机の上だ。そのスマホが振動した。
社長はすぐにやって来てそれを手に取り、意外な発信者に訝しげな表情をした。
「……もしもし? どうしたんだ、こんな時間に」
話ながらも俺の方を気にしている様子だ。俺はあえて彼の方を見ずに蛍光灯を外す。
「いや、おまえと話す時間が取れないのは悪いと思ってるが……ああ、分かってる。聞いてもらいたいことって……うん……うん? 何だと!?」
声の調子が急に跳ね上がった。
「会ってほしい男がいるってどういうことだ!? リリンス!」
俺は脚立から転げ落ちそうになった。
父親に電話してできるだけ話を長引かせるようリリンスに頼んだのは俺だが、まさかそんな大ネタを仕込んでくるとは思わなかった。
社長は俺の様子を窺い、咳払いをして口元に手を当てた。
「ちょっと詳しく聞かせろ……誰なんだそれは。え? 電話じゃ言えない……?」
声と動揺を押し殺して喋りながら、社長は部屋を出て行った。作戦成功だ。
俺は急いで脚立から降りて、コート掛けに手を伸ばした。オーダーメイドと一目で分かる、高価そうなダークグレーのジャケット――予想通り、その内ポケットには社長の私物の携帯が入っていた。
ディスプレイを開けるとロックが掛かっている。俺は少し考えて、社長の誕生日を入れてみた――違う。次に、リリンスの誕生日――開いた! さっきの反応といい、娘を溺愛しているに違いない。
廊下で話しているであろう社長の気配に気を配りつつ、俺は受信メールフォルダを開けた。発信者別に振り分けはされていない。浮気相手が混じっているから、わざと整理していないのか。だが他のメールをゆっくり読んでいる時間はなかった。
幸い、今朝届いたあのメールがいちばん上に来ていた。受信時刻から考えて、おそらくこれだ。
差出人は『S』とだけ表示されている。怪しい。
「うわ」
俺は思わず小さな声を上げた。
開いたそのメールは、日本語で書かれたものではなかったのだ。英語ですらなさそうだ。フランス語? イタリア語? それとも暗号か?
アルファベットの羅列にしか見えないその文面に俺はパニックを起こしかけたが、何度も文字をなぞって、ようやく日付らしき数字と、ホテルの名前、それに部屋番号と思われるものを読み取った。日付は今週の水曜日だった。
これが愛人からのものだとすると、つまりはデートの約束だ。ついに尻尾を掴んだぞ。
「とにかく後でゆっくり話そう、リリンス。今日は早く帰るから……約束だぞ。じゃあ」
電話を切り上げた社長が部屋へ戻って来た時、俺は何食わぬ顔で蛍光灯を交換し終わっていた。
とりあえず進捗状況を報告しておいた方がよかろうと、俺は終業時間間際に副社長室へ向かった。
水曜日、役員食事会の後に社長を尾行すべきかどうか、夫人の判断を仰がねばなるまい。勝手に後をつけてバレた挙句に何でもなかったりしたら、もう目も当てられないのだから。できれば尾行の役目は他の者に振ってもらえないかと、淡い期待もあった。
この時間、タルーシア副社長が部屋にいることはスケジュールで確認済みだ。俺は人目を避けながらドアの前に立って、ノックをしようとした。
その時、中から声が聞こえてきた。
「……ええそうよ、証拠を押さえるの。愛人がいるのは間違いないのだから」
副社長の声だ。話しているみたいだが、相槌はない。電話だろうか。
「心配ないわ……ええ……あの子を使っています。あの新人……なかなか優秀でしょう? 世間知らずのお坊ちゃんだけどもね」
俺のことだ、と直感して、なぜだかとても嫌な汗が噴き出した。ごくりと唾を飲み込んで、俺はほんの少しだけドアを開けた。
細い隙間から、部屋の奥の執務机が見える。その向こうで椅子に凭れ、副社長は携帯を耳に当てていた。華やかさと冷酷さが同居したような美貌に、薄い笑みが貼りついている。
「愛人の証拠さえ掴めば、あの男が経費を女に使い込んでいると……いいえ、真実はどうでもいいのよ。エムゼの協力があればいくらでも仕組めるわ。そう……彼女が力を貸してくれるから……ええ……」
エムゼは経理部長である。役員でこそないが、副社長とは古い付き合いだと聞く。物凄く危ない話を聞いてしまった気がして、俺は声を掛けられなくなった。
「代表取締役の不正を株主総会で告発して、セファイドを社長の座から追い払うのよ! この会社はもともと父のもの、乗っ取ったのはあの男の方なのだもの。ええ……根回しはもちろん十分に。次の社長にはアノルトを推します。あなたの助力に期待しているわ、エンバス室長」
よく知った名前が出てきて、電話の相手を彼と知り、俺はショックを受けた。
古株の秘書室長は、副社長の父親である先代社長の代から秘書を務めている。その忠誠心は未だに先代に、そして娘のタルーシアに向けられていたとしても不思議ではない。
副社長と経理部長と秘書室長が共謀して、社長を嵌めようとしている!? 俺はクーデターの片棒を担がされようとしているのか。
「あの秘書は、用が済んだらさっさと実家に戻せばいいわ。そう……結果の是非に関わらずね……あなたに任せます。私たちとの関係が漏れてはいけないから。ロタセイ酒造は……ええ、新体制が整ったらアノルトが好きにするでしょう。製法だけ残して創業者一族は追い出してしまうのも……ふふ、いいかもしれませんね」
俺は静かにドアを閉めた。
心臓が固く強張り、体中の血流が止まってしまったかと思うほど、手足が冷たくなっていた。