常務と遊園地
差し出された冷たいペットボトルを受け取って、俺は笑顔を作ろうと努めた。だがどうにも眩暈が収まらなくて、水滴で濡れたボトルを額に押し当てた。
「大丈夫? ごめんね、無理やり付き合わせちゃって。こんなになる前に言ってくれればよかったのに」
リリンスは心配そうに俺の顔を覗き込み、ベンチの隣に腰掛けた。
会社での制服姿とは違って、花柄のチュニックとショートパンツというカジュアルな格好をしている。いつもは束ねている長い髪も今日は下ろしていて、ずいぶん印象が違う。仕事中の清楚な雰囲気が少し柔らかくなって、しかも間違いなく美人だから、道で振り返る男は数知れなかった。
「いや……情けないな、俺。ちょっとだけ休ませて」
俺はスポーツドリンクを喉に流し込んで、ベンチの背凭れに凭れた。
土曜日の遊園地は家族連れやカップルで賑わっている。今日は天気もいいから、芝生で弁当を広げているグループもいた。
遊園地に行きたい、とリリンスにせがまれて、可愛いなあと思った俺が甘かった。
メリーゴーランドやティーカップやお化け屋敷や、そういったものに彼女は興味がなかった。彼女はいわゆる絶叫マシンというやつに直行し――フリーフォールに三回連続で乗せられて、俺は完全に酔ってしまった。
けろりとした顔のリリンスを、俺は感嘆の思いで眺める。
楚々としたお嬢様かと思いきや、彼女は容姿に似合わず神経が太くて男っぽいところがある。そんな意外性に惹かれてしまっているのだが。
「その後どうなの? パパの浮気調査、進んでる?」
リリンスは自分も冷たい紅茶を飲みながら訊いた。父親のことなのに、どこか面白がるような好奇心が滲み出ている。
「うーん、社内に相手はいないみたいだ。明後日社長が帰ってきたら、もう尾行するしかないかと思ってるんだけど」
「あんまり危ないことしないでよ。見つかったらクビになっちゃうわよ。それにしても今さらパパの愛人を突き止めて、ママはどうするつもりなんだろう?」
彼女は首を傾げた。
「それは……今回は遊びじゃなさそうだから、お灸を据えるつもりなんじゃないかな。あんまり度を越すとスキャンダルにもなりかねないし。第一、奥さんとしてはやっぱり面白くないだろ」
「そうなんだろうけど……ママははっきりした目的なしに動く人じゃないからね、もうちょっと何かありそうな気がするのよね。ナタレに依頼した理由もよく分からないし……ほんとに気をつけて、足元掬われないように」
などと、怖いことを言ってくれる。俺は考えを纏めて答えたかったが、ぐるぐる回る脳ミソでは今は無理だった。
リリンスは苦笑して、ぐったりとした俺を引き寄せた。俺は彼女の肩に頭を乗せて目を閉じる。香水の類はつけていないのに、優しい匂いがした。柔らかな掌が俺の髪を撫でる。
「ね、ナタレ」
「んー?」
「ジェットコースターにも飽きちゃったからさ、これからあなたの部屋に行ってもいい?」
俺はびっくりして目を開け、身を起こした。リリンスは笑みを浮かべたまま俺を見返している。メイクの仕方がいつもとちょっと違っていて、大人びた雰囲気に俺の鼓動が速まった。
「晩ごはんと……朝ごはんも作ってあげるわ。泊ってもいいでしょ?」
「と、泊るの? それはちょっとまだ……」
「何で駄目なのよ? 私たち、付き合ってもう何ヶ月経つと思ってんの? キスから進展がないなんて不健康だよ」
「リリンス、それ、お嬢様のセリフじゃないよ……」
「もしかして、どこか身体に欠陥あったりする?」
ぐいぐいと擦り寄ってくるリリンスをから後ずさり、俺はベンチの端まで追い詰められてしまった。
「それとも怖いの? 私が社長の娘だから?」
彼女の大きな瞳はひたむきで、でも強い光を宿してキラキラと輝いている。獲物を前にした肉食動物のようだ。いやそんなもの実際に見たことはないが、きっとこんな感じなのだろう。
俺が言葉に詰まってしまったのは、その目に魅入られてしまったのと、彼女の言葉が結構図星を突いていたからだ。
リリンスと手を繋いだりキスをしたりする度、そこから先へ進みたいと俺だって思う。だが吸収合併された子会社の跡取りの俺が、社長令嬢に手を出したと知れればとんでもないことになると、常に理性が警告を発した。
彼女を使ってこの会社でのし上がる――ような太い神経と野心は残念ながら持ち合わせていないのだ。
「リリンス……ごめん」
覚悟がないことについて謝るしかない俺の至近距離で、リリンスの表情が歪んだ。悲しみと失望だ。
彼女が何か言う前に、傍らから別の人間の声が割り込んだ。
「何やってんだ、おまえたちは!」
俺たちは揃って顔を上げた。ベンチの真ん前で、スーツ姿の青年が腕組みをして立っている。彫りの深い端整な顔立ちに険しい表情を浮かべたその青年を、俺は見知っていた。
「アノルト常務……」
「お兄ちゃん……」
俺とリリンスは同時に呟いた。
セファイド社長の息子で、リリンスの腹違いの兄にあたるアノルトは、オドナスホールディングスの取締役常務である。また兼任で、食品部門の子会社であるオドナス・フーズの社長を務めていた。つまり俺の実家のロタセイ酒造も彼の管理下にあるわけだ。
「何やってんだ、離れろ!」
常務はズカズカと近寄ってきて、リリンスの手首を掴んで立たせた。
「お兄ちゃん、どうしてここに?」
「視察だよ。うちの会社の商品をここのレストランに卸してる。それより何なんだこいつは!?」
彼は燃えるような目つきで俺を睨みつける。
「え、えーとね、彼は……」
「見覚えがあるぞ。おまえ父の秘書だろう、子会社から出向してきた。何で妹と一緒にいる?」
俺が躊躇している間に、リリンスがきっぱりと答えた。
「付き合ってるの、私たち。今夜は彼の所に泊るからね」
と、兄の手を振り払い、俺の隣に戻って腕にしがみつく。俺は彼女に引き摺られるように立ち上がった。
常務は一瞬呆気に取られて、それから眉間に深い皺を刻んで顔を紅潮させた。俺の知る限り、この人は若年にも関わらず冷静沈着だったはずだが、今は激しい怒りがひしひしと伝わってくる。
「駄目だ! 兄さんはそんなこと絶対に許さないぞっ」
「関係ないでしょ! 私はもう大人よ。誰と何しようが勝手だわ!」
「リリンス! おまえいつからそんな不良になったんだ!? 小さい頃はあんなに可愛かったのに……お兄ちゃんのお嫁さんになるって言ってたじゃないか。だから入社には反対だったんだ」
「子供扱いしないで。お兄ちゃんの馬鹿っ」
リリンスに思い切り拒絶されて、常務は傷ついたようだった。額に手をあてて、一歩後ずさった。
ははあ、この人シスコンなんだな、気の毒に。
俺は生温かい目で彼を眺めていたが、実は結構なピンチなのだった。社長の次に厄介な相手に知られてしまったのではないか。
案の定、リリンスから俺に視線を移した常務の背後には、真っ黒い焔が燃え盛っているようだった。氷点で燃える冷たい焔だ。
「ナタレ、とかいったな、貴様。妹をたぶらかしてタダで済むと思うな」
「たぶらかしてません」
「うるさい。貴様の出向元は俺の傘下だ。忘れるなよ」
「権力の濫用だわ! ナタレの実家に何かしたら私、お兄ちゃんのこと大嫌いになるからね」
リリンスが押し殺した声でそう言うと、常務は言葉に詰まった。怒りを通り越し、殺意すら籠った空気を感じる。
俺は皮膚がヒリヒリしてきたが、ここで降参するわけにはいかないと、半ば自棄になって彼を睨み返した。
「俺はリリンスさんと真面目にお付き合いをしています。誓って、社長のお嬢さんだから近付いたわけではありません、お兄さん」
「誰がお兄さんだ!」
「大事な妹さんの相手が俺なんかで、お気に沿わないのは重々承知しています。でも……どうかもうしばらく見守って下さいませんか。今夜も、ちゃんとご自宅へお帰しします」
心臓が物凄い速さで脈打っていたが、何とかどもらずに震えずに喋ることができた。腕にしがみつくリリンスの指の力が、ぎゅっと強くなる。絶対に離さない、とでも言いたげに。
「み……認めないからな、俺は。絶対に認めるかっ……」
常務は俺に向かって両腕を伸ばし、胸倉を掴んできた。
殴られる、と覚悟した瞬間、二人の男が彼を止めに入った。
「社長! 何なさってるんですか!?」
「次の予定が入っています。もうこの辺で!」
同じくスーツ姿の二人は常務の部下らしかった。年下の上司を羽交い絞めにして、強引にその場から引き離す。かなり扱いに慣れているみたいだ。
「ナタレ! 妹に手を出したら殺すぞ! 覚えとけ!」
部下に引き摺られながら常務はなおも喚いていたが、俺は胸を撫で下ろした。
周囲の客が物珍しそうに騒動を眺めている。痴話喧嘩か何かだと思われたかもしれない。
兄の姿が見えなくなると、リリンスはようやく俺の腕を離して、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね……うちの兄貴、あんなで」
「いや……君を大事に思ってるんだよ。ちょっとびっくりしたけど」
「昔からあの調子で、私と親しくする男の人を蹴散らしてきたの。ただでさえパパが社長で普通の男は尻込みするのに……お兄ちゃんのせいで私、堂々と恋愛したことない」
「でもさ、おかげで変な男……金目当てとか地位目当てとか、そういうタチの悪いのから守られてきたんだよ、リリンスは。あんまり悪く言ったら駄目だ」
「ナタレ……」
リリンスはようやく笑顔になって、俺の手を握った。少し格好をつけすぎたか。
「ナタレがお兄ちゃんにはっきり言ってくれて嬉しかった。真面目に付き合ってるって」
「まあ……ほんとのことだから」
「パパにバレるのも時間の問題かもしれないわ。そしたらまた言ってね」
潤んだ瞳で見上げられて、俺は乾いた笑いを浮かべた。さっきは勢いで宣言してしまったが、直属のボスである社長を前にして、果たして同じことが言えるだろうか。
はなはだ不安だった。